花ちゃんは花を摘む

祐希ケイト

花ちゃんは花を摘む

「花ちゃん、その持ってるものは何かな」


「おはなだよ。かわいいねえ」 


 横浜市にある奈良山公園の一角で、娘である花ちゃんはカモミールという、ニセンチ程度の白いデイジーの花びらのような小花を摘み、私の手のひらにちょこんと置いてくれた。


 娘は今日で二歳の誕生日を迎える。二歳の女の子ともなると、同年代の男の子より言葉も出るのが早く、大人とある程度コミュニケーションも取れるし自己主張も行うことができる。誕生日であっても習慣は変わらず、今日も家の近くの公園に娘が大好きなお散歩をしにきたのだ。


「花ちゃん、それカモミールっていうお花なんだってさ」


「カモミールぅ? かわいいねえ。はな、すきー」


「お家に持って帰ろうか」


「うん!」


 私は娘からカモミールの花びらを沢山受け取り、ハンカチに丁寧に挟んだ。そして、最近娘がハマっているアニメの歌を歌いながら、娘の手を取り片道十分の帰路についた。 


 


「またハンカチをそのまま洗濯機に入れたでしょ。本当に止めてほしいんですけど」


「ごめんよ、お花を挟んだままだったの忘れてた」


 家に着いてからも元気いっぱいに家中のおもちゃを遊び倒した娘だったが、眠気には素直で午後八時にはいつも通りベッドで就寝した。寝かしつけを終えて二階の寝室から忍び足で階段を下りて、廊下からリビングへと繋がるドアを開けた。すると、妻が全身から静電気をバチバチと放ちながらソファーに座って待ち構えていた。床にはこれみよがしに洗濯物が並べられており、まるで警察が家宅捜索で犯人宅から差し押さえた証拠品である。その証拠品のいくつかにはカモミールだった破片がくっついていた。


「これ全部綺麗にするまでご飯はないからね」


 そう妻は言い放つと、そそくさとキッチンの奥に消えていった。キッチンの壁からそっと覗くと、何やらお刺身を用意してくれているようだ。文句を言いつつもご飯を作ってくれる妻には頭が上がらない。私も押し入れからガムテープを取り出して洗濯物から粉々になった花びらを拾い集めた。


 ペタペタとガムテープで花びらを取り除きながら妻と談笑していると、何となしに娘の話題になった。


「花ちゃんって本当にお花好きだよね。今日も公園で沢山摘んでさ」


「知ってる。それをあなたが今ペタペタ取ってる」


「墓穴掘っちゃった……」


「それはそうと、本当に好きよね。何のお花か知らないけど」


「自分もこの間まで知らなかったけど、これカモミールらしいよ」


「へー。ハーブで使われる、あのカモミールなんだ」


「そう、リンゴみたいな匂いなんだよ。嗅いだことある?」


「あるよ。さっき乾燥機から取り出したときに」 


「墓穴掘っちゃった……」


 そうやって話を楽しみながら花びらを取り除く作業を終えると、妻がちょうどトレイに乗せてご飯やおかずをテーブルに運んできてくれた。白飯にお刺身、お茶漬けと健康的で美味しそうなご飯だ。お刺身には大葉に紅たで、アジやマグロにイカと、この家では珍しく菊が乗っていた。


「健康的で美味しそうだね」


「これ、食べるでしょ。口開けてよ」


 妻が箸で摘んできたのはお刺身の菊だった。食用菊なのは分かっているが、やはりなかなか受け入れがたい。しかも妻は菊に醤油やタレもつけていない。


「お花、好きだから食べれるよね」


「お花が好きなのは花ちゃんだよ」


「だってあんなに服にカモミールの良い匂いをつけるくらいだから、食べれるよね」


 妻のことは愛しているが、こういう強引さはあまり好きになれない。そして私は静かに口の中を菊の香りに浸したのだった。


「パーパー、これみてみて!」


 翌日、十六時になり娘を引き取るために通っている保育園に行った。小規模保育園のため室内はお世辞にも広いとは言えないが、その分先生方が娘のことをよく見てくれているため本当に選んでよかったと思う。


 娘が指をさしたのは園庭に咲くカモミールだった。疎らに点々と生えていることから、きちんと園が管理しているのではなくどこからか飛来して好き勝手に咲いているのだろう。娘と一緒に園庭のカモミールを眺めていると、まだ三十代くらいの女性が近付いてきた。この保育園の馴染みの先生だ。


「あ、どうも先生。花ちゃんがカモミール大好きで見てました」


「こちらこそお世話になっています。そうですね、花ちゃんはお散歩にいってもこのお花を見つけるたびに教えてくれるんですよ。気付いたら公園からこのお花を持って帰ってきてて、せっかくだから園庭に植えてるんです」


 つまり、この園庭に点在しているカモミールは娘が元凶ということだろうか。外来種が新天地で原種を押し退けて勢力図を広げるのと同じことである。それは園として推奨していいのだろうかと疑問に思っていると、娘が小屋のような場所から像を可愛らしく模したじょうろを持ってきた。 


「せーんせ。これ、おみじゅ」


「お水入れたらいいのかな。ちょっと待っててね」


 先生は園庭に取り付けてある蛇口から水をじょうろに入れると、娘に渡した。重たいから気を付けてね、という言葉は娘の耳にも入っていないようで、「よいしょ、よいしょ」と小声を漏らしながら一生懸命じょうろをカモミールが咲いている場所まで両手で運んだ。そしてじょうろを地面に置くと、器用なことに少しずつ手加減を加えながらじょうろを傾けて、カモミールに水を注ぎ始めた。


「いつもこうやってお花に水やりをしてくれるんです」


 娘が植物を育てようとしている姿を見て、花ちゃんも自分が知らないところで成長しているんだな、と実感し涙腺が弱くなる。たくさんたべてね、とカモミールに水を遣る姿を、気付いて意識が逸れないようにそっとスマートフォンのカメラに収めた。




 その日の夜、家のソファーで妻とテレビを観てくつろぎながは保育園の話題を話した。


「そうなんだ。それじゃあウチでもカモミール植えてみようかな」


「庭は狭くないか、日が結構入るから暑いし」


「じゃあ百均で売ってるテーブルの上に飾れるタイプの小さなプランターならどうかな」


「それなら花ちゃんも毎日見れるし良さそうだな」


「お花ってあるだけでいいよね。主婦してる感じ」


「そんなもんか」


「そんなもんよ。そうやって、私頑張ってるって自分でテンション上げていかないと主婦なんてやってられないわよ。誰かさんがもっと褒めてくれたら頑張れるんだけど。あんたのご飯も作れなくなるし、お小遣いも減っていくよ」


「愛してるぞ」


「あ、お小遣いが増えることはないとは伝えておくね」


 妻とはその後も娘の話題に触れながら、時計の短針が十二時を越えるまで夜通し話をした。重たい瞼をなんとか開けながら、半ば気絶している妻の背を押し階段を登りきる。二階の寝室を覗くと、先に寝かしつけていた娘はベッドの頭側に足があり、その自由な様子を微笑ましく思いながら、家族三人、川の字で泥のように眠った。


 寝呆けた娘のかかと落としで目覚めた週末の朝五時過ぎ。パパおきて〜、とねだる娘を右手で抱えながら階段を下りた。娘にバナナと牛乳を与え、テレビで教育テレビの録画を再生する。娘が食事とテレビに気を取られているうちにソファーに寝っ転がり休息を取った。


 三十分が経過したのだろうか、再生していた録画番組が終わり朝の料理番組がテレビに表示されている。しかし視界に娘の姿は映らなかった。起きてすぐのことだったがソファーから咄嗟に起き上がり、リビングのドアを開けた。すると、娘は器用なことにひとりで靴下と靴を履き、玄関に座って家の外へと繋がるドアを呆然と眺めていた。


「花ちゃんどうしたの」と、声をかけてみる。私の存在に気付いた娘は満面の笑みで振り返って手を振った。


「あっ、パパだー。はなちゃんね、たーたとー、くっくはけたよ?」


「くつしたーたと、靴のくっくね。えらいね花ちゃん」


「おさんぽね、するの」


 こんな朝早くからお散歩いくのかよ、と危うく喉から出かけた言葉を飲み込んだ。まだ幼い子どもなのだから、気持ちの原理なんてものはない。行きたいときに行くし、したいときにするのだ。私も娘の気持ちを最大限尊重してあげたい。幸い今日は週末なので仕事もなく、時間を気にする必要もなかった。私も靴下と靴を履き、まだ寝ている妻に挨拶だけして娘とともに奈良山公園へと向かった。


 朝露残る草を掻き分け、娘はどこを目指しているのかわからないが、一生懸命公園のなかを歩いていた。公園の中央にある小さな野球場とも揶揄すべき広場を抜けると、今度はカモミールとクローバーが一面に広がる野山に繋がる。野山といっても二歳児が登れる程度の斜面で、すこし道を外れたら小川が流れるのどかな場所だ。


 家から持ってきた水筒にお茶を入れ娘に飲ませる。大人からすれば何ともない道のりでも、二歳児には大冒険である。少し多めなくらい休息は与えるようにしていた。


 娘は水筒のお茶を一杯飲み終えると、スッとしゃがみこんだ。足元にあるカモミールとクローバーを凝視している。


「カモミールとクローバーだね。かわいいね」


「カモミール、かわいー。クローバー、かわいー」


 カモミール、クローバー、と覚えるように指をさしながら娘は花に手を伸ばす。また花を摘んではくれるのかな、と期待していたが、私はここで大きく期待を裏切られることになる。


「パパー、おみじゅほしい」


「ん、お茶じゃなくてお水がほしいのか」


「うん、おみじゅー」


 突然のおみじゅコールに疑問を抱きながらも、お茶が入った水筒とは別に、土を触っても洗い流せるように持ち運んでいた水入りのペットボトルをマザーズバッグから取り出す。気を付けてね、と蓋を弛めてから娘にペットボトルを手渡した。


 娘はペットボトルを手に取り水が入っていることを確認すると、そのまま飲み口を下に向け、水を地面に撒き散らした。


「何してるのストップ、ストップ!」


 あまりに意味不明な行動に動揺し、娘が持っているペットボトルを掴んだ。しかし、二歳児は大人が思っているより力強く決して話そうとはしない。その間も水はペットボトルから地面に流れ落ちた。半分程度流れてしまったところで、娘はようやく飲み口を上に向けた。


 と、思った矢先のこと。すぐに飲み口を水平にし、両手でペットボトルをブンブンと振り回し始めたのだ。私は怒る気力も失せ、どうせ水だと諦めながら、水が飲み口から出なくなるまでその場に立ち尽くした。


 パパー、と娘が空になったペットボトルを抱きながら近付いてくる。


「びしゃびしゃー」


 そりゃそうだろう、と軽くツッコみながら、腰を下ろし目線を娘の目の高さに合わせる。


「花ちゃん、お水は飲むものだよ。溢しちゃったら飲めないよ」


「いただきまーす、っていったの」


「誰が言ったの」


「カモミールが、いただきまーす、っていったの」


 娘が視線を下ろした先を見ると、地面に生えているカモミールの花に水はかかっていた。なるほど、カモミールが水を欲しくて、娘はペットボトルの水をあげたようだ。理由がなんとなくわかり、さっきまで怒ろうとしていた表情はすぐに温かい眼差しに変わった。娘も言いたいことをわかってくれたからか、途端に笑顔になる。




「きいて、パパ」


「なーに、花ちゃん」


「はなね、あいしてるの」




 どこで愛しているなんて言葉を覚えたのだろうか。娘は笑いながら、しかしどこか真剣に訴えていた。


 ふと思い返すと、娘はすぐにカモミールを引き抜いては渡してくれていたのに、それがどうして水を遣ったのか。




 好きと言っていた頃は、ただ花を摘んでいた。


 だが、愛していれば、世話をし、毎日水を遣るだろう。




これがわかる者は「生きること」を知る──。












「聞いて、パパ」


「なんだ、こんなときに」


「恥ずかしいから、一回だけね。一回しか言えないからね。花ね、パパのこと愛してるよ」




「あぁ、知ってるよ。今度は彼のことも愛してあげなさい」

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