黒と彩の迷宮
斜芭萌葱
黒と彩の迷宮
【黒と
いつかこうなるのではないかと思っていた。
彼女のアトリエに立ち尽くし、私は独り呟いた。
思えば昔からそうだった。
クレヨンを持ち始めた頃、彼女の画用紙は極彩色で塗りつぶされていた。水彩絵具を扱う頃、彼女のパレットは混色で溢れていた。アクリルガッシュに持ち替えた頃、彼女が黒だけを好んでいることが知れた。
アトリエを構えた彼女は、あらゆる黒を搔き集めた。水彩絵具に油絵具、顔料、テンペラ、鉛筆にインクにクレヨンにマーカー。およそ黒と名の付くすべて。もちろん黒以外も所有してはいたが、黒を作るか、黒に添えるかの役割しか与えられてはいなかった。
あらゆる画材における黒。あらゆるメーカーがつくる黒。同じに見えるチューブを二本手に取ってみたら、つけられた名前が少しだけ異なっていた。そんなことは日常茶飯事だった。
無数の黒の中から、すいすいと目当ての色を取り上げて、無心に画布へと塗りこめていく。それが彼女の日々だった。
来る日も来る日も、あらゆる黒で満たされていった。
足りない、と言い出したのは、いったいいつのことだっただろうか。
――足りない。
――黒が足りない。
ぽつりと呟きが落ちる。海の広さと深さに圧倒された子供のような。
足りないなんてあるもんか、と言って聞かせた。だってこんなにあるじゃないか。そのまま使ったって良いし、混ぜれば無限の色が生まれる。もう充分に、手の中にあるじゃないか。
彼女は聞く耳を持たなかった。ただ、足りない、と呟いて首を振った。
あの黒には触れられない。手に入らない。
黒薔薇を眺め、夜空を見上げ、黒真珠を見つめ、喪服を撫で、深海に思いを馳せ、なお足りないと静かに嘆いた。
そうしてある日、ふつりと消えた。
残されたのはただ、あらゆる黒に塗られたキャンバスばかり。
どこに行ったのだろう。
無数の黒に囲まれ自問して、そしてふと気がついた。
どこもなにも、決まっているじゃないか。簡単なことだ。彼女は黒を探しに行ったのだ。
ならば私も、探しに行かなければ。迎えに行かなければ。連れ戻さなければ。此方側には、無限の色彩が踊っているのだから。
五色の黒を、訪ねなければ。
訪れたのは、花の咲く場所。
黒と見紛う深い色が、咲き乱れている静かな花園。
自然のつくった黒い百合。あるいは、幻が見せた黒い薔薇。
真っ黒な薔薇は存在しないのだという。ならば彼女は真に黒い薔薇を描きたかったのだろうか。そのための黒を求めたのだろうか。
彼女は、そんなものなど求めてはいませんでした。
こちらの思考を見透かしたように、花園の番人は微笑んだ。
欲しがったのは、ただひたすらに黒い黒。黒い薔薇などただのまやかし。それはただ、深い深いだけの赤い薔薇。
その深い愛情を、黒に注いでしまっただけのこと。注がれた分だけ、黒は深さを増してゆく。ならば応えるのがつとめでしょう。
慈悲深い笑みで、番人は突き放す。
お戻りなさい、脆いかた。
あなたの追うひとはここに居ない。ここはただ、黒が黒く咲くだけの場所。
あなたには、供えることもできやしない。
訪れたのは、暗い空。
光の届かない空間に生まれた、暗闇の満ちる暗い場所。何人も触れることは叶わず、ただその闇に呑まれていくだけの黒。星が瞬いたとて、月が照らしたとて、その絶対は揺るがない。
触れられないというならば、この黒へこそ焦がれたのだろうか。輪郭も溶けるようなその黒を、描きたいと欲したのだろうか。そしてその空に、囚われてしまったとでもいうのだろうか。
ひとは本来、ここに来ることができません。けれど彼女は、どうやら来てしまったようですね。
呟いた夜空の番人は、首を振って微笑んだ。
いいえ、彼女はここには居りません。けれどもう、来てしまったのと同じこと。
悲しそうな笑みで、番人は否定する。
空は空気。何者も手に取ることは叶いませんが、そんなことをせずとも、あなたの中に満ちています。
お戻りなさい、脆いかた。
ここは、あなたには遠すぎる。
訪れたのは、黒い石の統べる場所。
黒く輝く宝石たちが住まう場所。
黒瑪瑙、黒翡翠、あるいは黒真珠。黒でありながら輝くというならば、その矛盾をこそ得たいと欲したのではないか。宝石を手に入れることは叶っても、煌めきを生むのは容易ではない。
手に入れたとて価値は無いと、彼女は欲しがりませんでした。
黒真珠の番人は、寂しそうに応じた。
けれど彼女の意思にかかわらず、彼女のために身につける者がいるでしょう。黒い石とはそういうもの。それが黒い光の役目。
手に入れたとて意味は無い。所詮はただの輝く石。意味を見出すとするならば、見つめる側の瞳でしょう。その眼の色のほうが、ずっと価値のあるもの。
あなたも、きっと必要とするのでしょう。
番人は、切なそうに微笑んだ。
お戻りなさい、脆いかた。
ここは、あなたには不吉でしょう。
訪れたのは、布の揺蕩う場所。
滑るような手触りの、張りのある漆黒の、布がやさしく包む場所。
あるいは祝福のために。あるいは死者を悼むために。
黒い布などありふれている。手に入れるにも、染め上げるにも困難は無い。身に纏うのも容易いことだ。けれどどうだろう。その布の物語までを描くなら、なにかが足りないと思うものだろうか。
彼女はもちろん持っています。
黒衣の番人は頷いた。そして続けた。
けれどもう、彼女ではないひとのものとなりました。
彼女が纏っても意味は無い。彼女を想う者が纏って、初めて意味を持つのだから。むしろ彼女が纏うべきは、いっとう綺麗な晴れの着物。
布はいくら黒く染めても、あくまでただの黒い布。尊いのは物語のほうでしょう。
さて、彼女は何色でしょうか。
当たり前のように微笑む。
お戻りなさい、脆いかた。
あなたも支度をせねばなりますまい。
訪れたのは、深い海。
冷たい水の奥深く。光の届かない暗い場所。
深く深く潜らなければ辿りつけないがゆえに、彼女はここへは来られない。けれど手に入れられないというならば、この黒こそが答えではないか。両手に水をすくったとて、この深い黒は得られない。指の隙間から零れるまでもなく、我が物にはなり得ない。
それゆえに、誰にも手に入れることはできません。
深海の番人は、拒絶するように微笑んだ。
手に入れることなど叶わない、むしろ圧し潰すごとく取り囲む色。誰もを受け入れるがゆえに、誰にも従えられない色。
お戻りなさい、脆いかた。
ここは、あなたには深すぎる。
「いいえ」
私は口を開いた。
深海の番人は首を傾げた。
あれほど取り憑かれていたならば。あれほどに集めてまだ足りないならば。それはきっと、その手に掴むことができない黒。花でも石でも布でもない。
あるいは空か。しかし空の黒なら空気の黒。それならば、暗闇に身を投げても同じこと。
海の黒は水の黒。深海の底を訪れなければ、抱かれることすら叶わない。それは深い水底にしかない、唯一の色彩。
なにより出会った番人たちの、憐れむような微笑みは。
「彼女が居るのは海の底だ」
黒に焦がれてしまったがゆえに、深みまで沈んでしまった彼女。もう連れ帰ることのできない彼女。否、黒に囚われたときにはもう、こうなることが決まっていたのかもしれない。あるいは初めから、海の底が呼ばわっていたのか。
深海の番人は、にっこりと笑った。それが答えだった。思えば番人たちは皆、彼女を悼んでいたではないか。
久しぶりのお客人、我らは嬉しゅうございます。
否。悲しんでは――いないのか。
なにせ彼女は、身と心にいくつもの黒を持つ稀なかた。黒を愛し黒に愛され、黒を描いた芸術家。そこまで深く濃い色ならば、此方へ迎えるにも相応しい。きっと美しい黒として、この海の色彩となりましょう。
出会った番人たちの声が、斉唱のように重なっている。どれも同じ声だったかもしれない。黒と呼ぶべき色はひとつしかなく、きっとどの色も、すべてこの深海へ繋がっていたのだろう。
色彩の世界で立ち尽くす私には、辿り着くことのできない場所。
彼女はもう、遠くへ行ってしまった。
彼女自身がそれを望んだならば。
いいえ。
そんなことはありません。
頭の中で、またいくつもの声が木霊した。
深海の番人が、不意に腕をこちらへ差し出す。抱きしめるような両腕。いくつも。何本も。無数の。絡め取るような。
黒い、腕。
黒薔薇も夜空も黒真珠も喪服も、等しく私を向いていた。
なぜなら我らは黒。
あらゆる彩を取り込んで、深く濃く華やぐ黒。
ならば当然、あなたも欲しい。
黒い腕に絡め取られる。
そういえば私は、誰なのだっけ。
彼女を知り、彼女を追った、私はそもそも何者だったのだっけ。
黒をつくる役目しか与えられない、彼女を取り囲む中のただの一色。
初めから、もしかしたら。
混ざって溶けてなくなって、彼女の一部になるのだろうか。
それはなんだか、とてもしあわせなことだ
――了
黒と彩の迷宮 斜芭萌葱 @hmoegi
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