フレスコの底

森本 有樹

フレスコの底

 夜が明ける。俺は暗がりのない部屋の中で節々の痛む体を起こして埃の舞う部屋の中で立ち上がった。それから朝礼をこなし、限りなく水に近い粥を掬った後、仕事場がある格納庫の方へと歩いて言った。俺は、戦闘機の整備士だ。

 格納庫を目指す俺は遠い方の滑走路に目をやり、高原作物がよく育ったなとという感想を持つと、それ以上何も考えることなく中断していた企てを再開した。かつて世界の半分同士が戦略兵器で対立していて、それを運搬していたモノが爆撃機だった時、ここはとても賑やかな基地だったというのは古ぼけた写真でしか俺は知らない。政府に出す書類には現在も健在だと謳われている西滑走路は、今や一面の畑だ。何年も前から。

 格納庫に至る。整備と言っても内部の部品は今日はばらさない。そんな労力はないしそれをする部品もないのだ。何故かって?偉い人に聞いたらこう答えるだろう。意味がないからだ。

 がびがびにこわばった布で機体をピカピカに磨きながら俺は遠い昔のことを思い浮かべていた。この国が何もかも上手く回っていたころ、街には煌々と明かりがつき、活気に溢れていたあの頃。それが超大国同士の対立が終わった時から変わってしまった。

 破綻した側の大国についていたこの国は安価な資源と市場を失い、崩壊した。世界のもう半分側は素早く動いた。可哀そうなこの国から少しでも可哀そうなモノを救うべく、彼らはあらん限りの策を尽くした。

 まずは、女子供だ。国際社会は食糧支援をふんだんに行い、永住権を振りまいた。次は老人だ。老人は可哀そうだからその家族に永住権をふりまいた。次は、犬だ。犬は従順で可哀そうだから多くの国が質のいい国を買っていた。その次は珍しい植物、動物。これらは惑星の変動で死にそうだから可哀そうだ。そうして、みんなみんな可哀そうなモノを全て取っていった残り物、「可哀想じゃない」世界はそのまま忘れ去られた。

 そりゃあそうだ。可哀想だから、助ける。気持ちいいし、正しいことをしている実感が手に入る。それが手に入らないものは無意識化の内に視界から消えていく。嘘だと思うか。ならば下水の掃除人と政治家を見ればいい。誰が彼らの涙に同情する?可哀想じゃあないものに流す涙はそれくらいある。

 それからというもの、この国はずっと世界中の可哀想に差し伸べる手で一杯に満たされていった。寄稿が安定していた高原地帯ばかりのこの国に可哀想な惑星の環境を守るために太陽パネルとか、様々な自然発電が敷き詰められた。貴重な国鳥が集光パネルや発電用風車に焼き殺される事件があったが、国際社会は誰も気に留めなかった。その国鳥は外国の言葉で検索すると、響きが卑猥だとか、世界一醜い国鳥だとか言われていた。それじゃあ仕方ない。可哀想だじゃないからだ。生まれた時からあった美しい山河はもうない。キラキラと輝く太陽パネルの煌が全てを歪めていく。何年か前までここを訪れていた地質学会も大学の学部ごと解散した。大学はそんなものより、社会学でもっと小さな可哀想を救ってあげる方に金をかけたほうが補助金を一杯もらえるから、らしい。

 そして、俺達も取り残された。年寄りでもなく、若くもない彼らは可哀そうじゃあない。戦争の危機が去って、世界中の軍隊から技術者が放出された世界で飛行機の整備士は貴重な技術じゃあないから可哀そうじゃあない。だから、時たま給料どころか補充部品すら届かないこの軍隊に残るしかなかった。

 ふう、と汗をぬぐって一息つく。高山地帯の国といっても赤道に近いここは夏になれば熱い。なにせ、星の放熱板として大量の熱を太陽パネルで反射しているんだ。熱い空気は流れ込んでくる。そんな日には遠くに見える山の万年雪を眺めるのが一番だ。大分量は減って来たが、その青い峰々、これだけは未だ変化に耐えていた。工業化しないなんて遅れていると先進国に言われてガチョウのように肥え太らされて、必死に立てた工場を環境問題で閉鎖され、金が返せなくなってそれを先進国に訴えればそれは間違った繫栄なんだから滅んで当然とばかりに対応されるという一連の茶番が繰り広げられている間にもこの山々は不動だった。その峰々を征服した日々を思い出すと俺は自分の若き日の活力を思い出しては涙を流してしまう。……温暖化で貧しい国の人々には同情しても、そのために食えなくなった人々がギャングの元で麻薬を作るようになったのはどうでもいいと暗に言っている連中はあの中の世界最高峰の山しか見ないだろうが。俺は山々の価値を知っている。

 休憩を取っているとキラキラした制服を来た士官がやってきて、第二格納庫の機体をエプロンに並べろと命令される。SNS映えする軍服だ。薄気味悪い金と縁の水色の軍服に言われるまま格納庫から機体を引っ張り出す。

 銀光りする派手な塗装で塗られた機体が暗がりの中から引っ張り出されて一列に並ぶ。少数だけ残された精鋭機、といっても飛んでいるところどころかエンジンの試運転すらめったに見ない張りぼてだが、それらが整備士達によってエアブレーキやフラップを見栄えがする角度に固定された機体達に件の制服を着た士官たちが一列に並ぶ。彼らは広報部の士官たちだ。国があらゆる携帯端末に仕込んでいる国民スコア(そう、あの人情省のマークの奴!)上位のキラキラした男女から特別待遇で選ばれた実質的な貴族である彼らは一列に並んで携帯端末に写真を撮る。広報部はこれらをデジタルな色ペンで着色しては軍のSNSにアップロードする。そうすればどうなるか?世界中からそのキラキラしたSNSにアクセスが来る。アクセスが来るとどうなるか?広告料が入る。広告料が入るならどうなるか?街を支配する麻薬売りのギャングと国際社会への上納金になる。どうだ、素晴らしいやり方だろう。おかげでこの国はあらゆる人権関係のランキングで最上位クラスを取り続けている。実に誇らしい国だ。世界にこれだけ素晴らしい国は他にないだろう。写真撮影が終わると機体は仕舞われる。折角SNS映えする機体だ、照りつける太陽で傷物にしたらどうなるのだ。それこそ懲罰モノだ。それで何人も有望な士官の首が消し飛んだか。まあいい。俺は昔基地にいた空を裂くような同様の鋭いシルエットを思い浮かべながら思った。敵国が存在しないこの国に戦闘機は不要だ。そもそも高価な精鋭機はみんな外国に買われていった。

 残ったのは大半が自分が機付長になった機体の様にビヤ樽に羽根とエンジンを付けたような機体ばかりだ。飛行よりも戦闘機について何も知らない連中に「バズる」方が大事なのだ。それからは、いつもの稼業だ。担当の機体を磨く、そしてまた磨く。こいつにくれてやるオイルも無ければエンジンや電子部品を手直しするための手立てもない。そういう仕事の連中は何もすることがないので思想教育を受けている。世界はどれだけ罪深い行いをしてきたのか。そして、そのために、世界は今どんなに美しい精神に尽力しているのかというビデオを見ている。俺は思う。そんなビデオではなく食料か交換部品を持ってきてくれないか?いや、そういっても無駄な事は分かっている。黙って未来の子供たちのために!という言葉で薄皮の一枚までそういう盗人共にくれてやるしかない。

 黙って手を動かす。もはや専門的な整備知識を生かす瞬間は減って来てはいるが、その手つきはその手腕をいかんなく発揮した頃と同じ優しさでその滑らかな軽金属の肌を錆一つない姿へと変えてゆく。

 そうしている間に夕方が来た。

 一部の兵士たちは営外に待っている家族がいるが、俺にはそんなものは居なかった。何故かと問われれば、こう答えるだろう。人情省の点数がここまで低い男を欲しがる女がいるか?と。

 幸いそれによって自分が不幸であると感じるという特性を俺は持っていなかった。結婚した同期が妻にどうしてお前はそんなに価値が低いのだと罵られるのを見ていればおのずとそうなる。営内の食堂で豊富、とは言えない食事を食べ、泥のように眠る。そこには、一切可哀想な要素は存在しない。退廃した、整理整頓が行き届いた世界。俺はその世界に生きて入れる事に感謝していた。


 そんなある日のことだった。その日は本物のパイロットによって自分の機体が飛行する日だった。久々に内部の部品にまで整備が行き届き、機体はまるでロールアウトした時のように完全な状態になっていた。

 俺は晴れ晴れした気分でパイロットに機体を手渡した。そいつに俺は状態は思う限り最高に仕上げました。気持ちよく飛んでください。武装の方も担当者に三回チェックさせましたといって送り出した。

 飛行時間が資金不足で思うように飛べない時間を政府広報の動画撮影に充てているパイロットは汚物でも見るかのような俺の顔を見て、口からは上辺だけでのありがとうございますを残してそのまま飛んで行った。俺は数時間後にまた会えるだろうと。特に根拠もなく考えていた。

 ところが、機体は山中を哨戒飛行中に突然行方不明になった。即救出部隊が動いた。夢見がちな女たちを虜にしたあの男を死なせてしまったら国際問題だ。数時間後、パイロットの生存が確認され、基地は沸き立った。あの人形のような男の生存は、損失した機体より遥かに大事だ。俺も一応消耗品という言葉で感情を押し殺して、彼の帰還を上辺だけ喜んだ。

 それから俺は直ちに有給休暇の申請を準備した。上官は何かを察したのか気前よく判を押し、それから俺は基地のふもとの町にある貸家へと行く。何のために?山に登るためだ。若き日の情熱の遺産は未だ生きている。油を指し、錆をふき取り、全てここに健在だ。されでも、一度確認する。山登りの具足は全てある。すべてよし、だ。

 朝、基地の近くに借りていた家を出て山に入る。遠くにぎらぎらと輝く太陽の光を反射する太陽パネル以外人工物が何もない原野を行く。さく、さく。という足音も大半は万年雪に座れてしまう。静寂の世界。

 人間の思惑が二転三転しても万年雪の量ぐらいしか変わることがない泰然とした山々ですれ違う人は居ない。俺だけが山と一人で向き合う。この厳粛な世界。

 人間の尊厳を超越した神の領域。故に逆説的に尊厳に満ち溢れている世界。出来損ないの価値では太刀打ちのしようもない、世界と言う圧倒的力の空間。

 山を登り続け、目的地に。目的の機体は聞いていた通りの場所にあった。奇跡的な不時着で原型を残したままの機体がそこにあった。もう二度と動かない古ぼけた機体がやけに近い太陽の光を浴びて鉛のように鈍い光を放っている。

 俺は立ち上がると酒を取り出した。お気に入りの一本、年々入手が難しくなるが、なんとか入手できた昔ながらに逸品だ。舐める。インテリの一切が押し付けがましい正しさに対する抵抗の味がする。そうだ、おれはこいつを去り行く愛機に振る舞いに来たのだ。

「お前、よく、頑張ったな……」

酒をどばどばとかける。躊躇はない。

「頑張った……お前は。頑張ったんだよ。」

 感情がこみ上げ、わあと泣きながら俺は酒を振る舞居続ける。それが、俺の流儀だ。感情だ。哀れみだ。

 みんな生きている。誰もが苦しみながら、負けるものか、負けるものかと生きて死ぬ。そんな命に序列がつけられるか?それはまやかしだ。命は、ただ、ここにあるんだ。

 歌を歌う。……頑張った、頑張った、お前は精一杯生きて、精一杯死んだ。創造主は今からお前を頬かむりで裁くだろうが、そいつが笑っても、俺はお前が必死に生きたことを認めてやる。だから、今は静かに眠れ。今日の酒は、穏やかな眠り。

 ふと思った。もしかしたら、それは、愚かな独裁者も聖人も同等に扱う思想かもしれない。だが、どうだろう。世界を人の手で価値評価する狂気とどっちがまともだ?いつから、神になった気でいる?宗教と酒は酩酊の一種とバカにされるが、素面の狂気よりはよっぽどましだ。素面では生きれない苦しみを生き抜くために酒が必要なんだ。酩酊は、力だ。だからこれがこいつを葬るのに一番いい方法なんだ。

 俺たちは生きている。生きているから辛いんだ。それは、生き物だけに限らない。飛行機も精一杯生きている。そうだ、説明は出来ないし、理解もできないけれども、存在している人もモノも、一つ一つにそれぞれ違う苦しみがある。きっとそうに違いない。だから、俺はこいつを葬るために酒をかける。こいつは精一杯生きて死にました。それに対するこれ以上の賛美はあるか?

 だから歌う。頑張った、頑張った。お前は必死に生きて必死に死んだ。冥府の悪魔は認めないだろうが、俺はお前の生き様を知っている、天地がお前を断ずる理由なんておどこにある。お前は生きてそして死んだ。それに何の意味があろう。

 記憶の向こう側にこの歌を教えてくれた祖父の顔。もう記憶の向こう側で白抜きになっている。その祖父を見送るときも、この歌を歌った。讃美歌、その向こう側でまだ骨と皮だけの飛行機が弔辞を述べるかのように飛んでいた。だから、ここにいる。だから、覚えている。尊厳。そういったものの名前。

 絶え間なく飲んでは残りの酒を機体にまんべんなく降り注ぐ。一周した。そしていよいよ操縦席だ。昨日塵一つまで取ったピカピカの操縦席。きっと、綺麗な筈だ。何故なら、元々綺麗だからではないからだ。誰かが懸命に綺麗にしようとしたから。

俺は操縦席を覗き込む。その時だった。見慣れない封筒がある。

ん?なんだ、これは?

 俺は眠る機体を冒涜するかのようなそいつを排除すべく機体の内側に手を伸ばす。その時だった。

 ごごごごご、轟音がした。振り返る。雪崩だ!俺はどうすることもできず、うわあああと情けない声を上げて白い死の衝撃を受け止めた。

 だが、衝撃を食らう瞬間、俺の心は穏やかだった。もしかしたらば、これはこの機体の小さな恩返し……ここから先の悲惨な人生を歩ませないための……ちょっとした恩返しだったかもしれない。


 それからは、俺の知らない話だ。数日後、数人の男たちが機体を取り囲んでいた。

「あったか?」

「ああ、あの日届かなかった書類はコックピットにあった。」

 男たちはよかった、よかったと声を上げる。書類の中身は真っ赤な文字で反乱の言葉が書かれていた。

「これで俺たちの時代が来る。排除からの排除を受けた俺たちこそ真の可哀想な者だ。」

「目にもの見せてやろう。俺たちを踏み付けた連中に死の制裁を!」

彼らの撃ち誰かが、「ん?」と何かに気付く。俺の死体だ。

 ただの死者だ。放っておけ。他人の死体に尊厳ある態度を撮るよりもこの書類が大事だと言いたげなリーダー格がそう言うと彼らは大事そうに機密書類を持って立ち去った。

 それから俺の死体は長い間そこに放置された。機体の方は利用価値を認めた廃品業者にほとんど持っていかれて、残った残骸は俺の死体と一緒にやがて近くのクレバスの奈落に消えていった。

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