あげはてふ 🦋

上月くるを

あげはてふ 🦋




 とある晩夏の昼下がり。🌞

 姫路城の近くの茶店で。🍵


 緋毛氈ひもうせんに腰をおろして、お団子をいただこうとしている、うら若い女子がふたり。

 そのうちのひとりが「あらま、見てみて! 揚羽蝶がほら!」歓声をあげました。


 天守を仰いでいたもうひとりが振り向きざま「きゃっ、やだ!」こちらは悲鳴を。

 黒揚羽というのでしょうか、それは美しい大ぶりの揚羽蝶が台の隅にちょこんと。


 

 ――つまみたる夏蝶トランプの厚さ       高柳克弘



 最新版の歳時記に掲載されていた鮮烈な例句を思い出したのは後者のほうの女子。

 かたや前者のほうは、気心の知れた親友がなぜ揚羽蝶をいやがるのか、ちっとも。


 あ、ごめんごめん、時期が時期で場所が場所だけにヘンな話を思い出しちゃって。

 ヘンな話ってなんのこと? たしか姫路市の市蝶は揚羽蝶だって聞いているけど。

 

 あのね、『番町皿屋敷』って怪談、聞いたことあるでしょう。

 ああ、いち~まい、に~まいって幽霊がお皿を数えるアレね。

 

 その怪談のヒロインになった女中さんの化身って言われているらしいの、揚羽蝶。

 え、そうなの? そう聞けば、そこに止まっている蝶も恨みを含んでいそう……。



      👘



 ときは室町時代。


 国家老・青山鉄山は、町坪弾四郎と諮って姫路城を乗っ取ろうと画していました。

 察知した城主はお菊を鉄山の女中として住み込ませ、様子をさぐらせていました。


 このことを気づいた弾四郎は、家宝の唐の皿を一枚隠してお菊のとがにしました。

 お菊は城内の松の木に吊るされて斬殺されたあげく、井戸に投げ捨てられました。



 ――折りしも、降りみ降らずむ梅雨のなかを、裏庭の松に縛りつけ、己が意に從はせんとて、昼三度、夜三度づつ青竹で責めつけ、十七日のあいだ折檻したが、お菊はいつかな彼の意に從はなかつたので、ついにこれを斬殺し、庭の井戸へ投げ込んだ。


 すると、その日から夜になると、井戸の辺から「一枚、二枚、三枚、四枚、五枚、六枚、七枚、八枚、九枚……」と皿を数える声が聞こえ、同時にぐわらぐわらという皿の音が屋敷内に鳴動し夜ごと怪異が打ちつづいたので、人びとは皿屋敷と呼んだ。

               (橋本政次『姫路城史』より「傳説播州皿屋敷」)



 そして、300年ほど経ったころ、姫路城内にお菊さんが後ろ手に縛られたような不気味な虫(麝香揚羽じゃこうあげはさなぎ)が大量発生して、お菊さんの祟りとして恐れられた。



      👻



 それが日本中に知られた怪談の発祥です。


 お菊虫の一件、および、最初の姫路藩主・池田氏の家紋が平家由来の揚羽蝶であることなどにちなみ、姫路市は1989年にジャコウアゲハを市蝶として定めました。


 なお、戦国期の終焉となった大坂の陣のあと本多忠刻ほんだただときに再嫁した千姫(最初の夫は豊臣秀頼)が移封で姫路城に移り、さまざまな有為転変のあと江戸へもどった……。


 そのとき住んだ屋敷跡を舞台に、たぶんに通俗的な興趣で脚色された江戸版『番町皿屋敷』が誕生しますが、本場播州版とは品位において比較にならないものでした。



      ⛩️



 俳人でありレキジョでもある親友が話してくれる怪談は、怪談というにはあまりにも説得力のある逸話だったので、後者の女子は、夏なのに背中がひんやりしました。


 そういえば、さきほど城内外を巡ったときにも「お菊井」なる井戸や「お菊神社」がありましたが、「これが例の……」と言ったきり、そそくさと通り過ぎたような。


 さすがにもう一度行こうとは言えず、長い夏の日も少し傾いて来た頃合いですし、温泉につかってゆっくり汗を流そうと、予約しておいた老舗旅館へ向かいました。


 

      🦎



 その晩、休みたいという親友を部屋にのこし、再び露天風呂に行ったときのこと。

 静かな脱衣場に入って行くと、妙に髪の長い女性が宿の浴衣を脱ぎかけています。


 腰まである黒髪が頬にかかっているので、表情は読み取れませんが、顔色が……。

 青ざめているというよりも、ほとんど血の気が感じられないほど真っ白なのです。


 いま風にスレンダーなわりに、どことなく古色蒼然とした雰囲気を漂わせた女性。

 「お先に」軽く会釈してうしろを通り過ぎると、なにか水苔っぽい匂いがします。


 ちょっと気になりましたが、そういう体臭なのだろうと、源泉かけ流しの湯船へ。

 自然石を積み上げたおもむきのある岩から豊かな源泉が間断なく注がれています。


 夜なのに、揚羽蝶めいたものが岩のあちこちに止まっているのが気になりました。

 でも、夕食のとき少しビールを飲んだせいか、頭も五感もぼんやりしていて……。


 ああ、いい気持ち~、うっとり目をつぶったときでした、なにか擦れるような音。

 ザラザラというかガシャガシャというか、質感と量感がない混ざったリアルな音。


 はっと目を開けてみると、いつの間に入って来たのか、さきほどの女性がいます。

 こちらに背を向け、長い髪を藻のように湯にゆらめかせ、低い声で呟いています。



 ――いち~まい、に~まい、さん~まい、よん~まい……。((+_+))



 ヒーッ! 叫ぼうにも、声が、声が出ません、のどが張りついて、目がまわって。

 そのまま意識が遠のいたこと、部屋に運ばれ、氷で冷やされ覚醒して知りました。



      🎐



 親友はお湯にのぼせたんだよと言いますが、あれはお菊さんにあてられたのです。

 そのお菊さんが脱衣場の内線で帳場に知らせてくれたなんて……信じられません。


 あ、そういえば……親友の歳時記に掲載されていた古い俳句がよみがえりました。



 ――揚羽より速し吉野の女学生        藤田湘子



 髪が腰まであるお菊さんも、韋駄天のようにくうはしって帳場へ行ったのだろう。

 そう思うと、ありがたいような、勘弁して欲しいような、不思議な気持ちでした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

あげはてふ 🦋 上月くるを @kurutan

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ