心、曝して

衞藤萬里

心、曝して

 朝風に揺れている藤袴ふじばかまは気品のある紫で、自己の主張がはげしくない。江戸時代の惣庄屋の屋敷を改修した、武蔵野文庫の庭によくなじんでいる。

「今日はいけそうだな」

 前庭の落葉を掃いていた私の隣にやってきた河野さんが、空を見上げてそうつぶやいた。ちびでやせっぽちの私も、まねをして見上げる。澄んだ高い空だった。

「予報では、湿度も温度も申し分なさそうです」

「館長には予定通りと云おう。倉木も今日は忙しいぞ」

 河野さんの頬はすっきりとしまり、満足そうだった。


 秋晴れのこの日。

 ここ武蔵野文庫は、今年最初の曝書ばくしょの日を迎えた。


 蔵書を風にさらす――これを曝書と云う。

 定期的に蔵書に風を通して湿気をとり、虫食いや紙魚しみなどの傷みがないかを確認をする作業で、かつては宮廷や社寺では曝涼ばくりょうとも呼ばれていた重要な行事だったらしい。古いものでは、正倉院文書にも記録がのこっている。

 重々しい行事のように思えるが、実は私たちの生活とそれほど無縁のものではない。今ではほとんど見られないだろうが、いわゆる虫干しも同じものだ。昔の人たちにとって、使用、収納、手入れはひとつのサイクルを形づくっていたらしい。現代でも図書館では、日常的におこなわれている。

 武蔵野文庫では、秋におよそひと月かけて曝書をする。 

 もちろん、その日に突然決定するわけじゃない。温度湿度は天気予報で予測できるが、急変することもある。だから最終決定は当日の朝だ。この季節、仕事は曝書優先となる。


 この地は初の武家政権であった鎌倉幕府の下、御家人として土地を拝領したのがはじまりで、中世末の後北条時代、徳川家の江戸入封後も小藩として存続した。

 戦後の民主化にともない、保管し管理する施設を造ることを条件に、当時の当主が数百年の間に保管してきた文書もんじょや蔵書の類を行政に寄贈した。

 それが武蔵野文庫のはじまりだ。

 史料数は約一万点。名高い足利学校や永青文庫ほどの量ではないが、中には国の指定を受けた蔵書や古文書もあり、学術上の価値は高い。

 担当教授のつてで、私が武蔵野文庫に就職して三年目だ。もう新人とは云いがたいが、もちろんベテランにはほど遠い。

 主な業務は収蔵文書の管理、調査研究、外部の研究者への閲覧や貸し出しの手続き、さらにまれに寄贈希望物の鑑定などもする。それと、これはすごく苦手なのだが、市民大学の古文書講座での講師や、学校への出前授業なども。

 採用されたのは、ものすごい幸運だった。文書系の専門職の採用なんて、砂浜に落ちた針を探すよりも困難だ。公立の図書館の司書だって、正規の採用はほとんどないぐらいだから、推して知るべしだろう。

「今度退官する彼女、私の後輩でね、うちの大学の枠を他校にとられるわけにはいかないから、後任にあなたをがんばって捩じこんだわよ」

 とは、少し腹黒いお婆さん教授の言であるのだが……教授、プレッシャーだよ。

 私の実家は江戸時代、村庄屋を務めていた。蔵に当時の文書が長持や行李にしまわれていたが、明治維新から百五十年以上たって、家では誰もその文書を読み下せない。大学で近世文書を専攻したのも、関八州に公儀が通達した触書ふれがきを卒論のテーマに選んだのも、そんな背景がある。


 文書保管庫から桐箱を次々と運びだす。桐の箱は防虫効果があって、湿度を一定に保つことができるので、文書の収蔵によく使われる。

 マスクをして、箱の中から綴じられた蔵書をうやうやしく取りだす。

 実習室は畳敷きで、画仙紙の上に一面に並べられたあり様は壮観だ。

 縁側は開けっぱなしなので、風が抜けていく。つい先日まで漂っていた夏の気配はもうすっかりうせて、透明度の高い空気があたりをつつんでいた。

 一列につきひとり、私たちは配置につく。

 膝立ちとなり、表紙をめくる。

 江戸時代の藩が収集したものなので、ほとんどが和書や漢書だ。和紙と墨は世界最高水準の記憶媒体だ。何百年もたつのに、墨の芳香が鼻をくすぐる。

 一丁、一丁、できるだけ風を通すイメージでめくっていく。

 虫食いや紙魚があれば、手元のリストに記入していく。何百年もたっているので、当然ないはずもない。

 劣化はゆるやかだが、ひとたび黴や害虫に入りこまれたら、浸食はものすごい速度ですすむ。黴や害虫にとって、束ねられた和紙はよだれが出るほどのご馳走だ。

 文化財である文書の保存は、常に悪環境との戦いだ。湿度しかり、温度しかり、水分しかり、害虫しかり。

 特に武蔵野一円は、湿度が高く暑気のきつい地だ。

 収蔵されている史料が後世までのこれるかどうかは、人の手が一丁ずつ風に曝していくような、傍で見たら呆れるほど非効率で地味な、きっとそんな小さな手入れの作業の積み重ねで決定するんだろう。

 部屋の中に気品のある静けさが満ちている。

 丁をめくるひかえめな所作の気配。

 かすかな息づかい。

 膝立ちで移動する畳のきしみ。

 風に乗って、ときどき匂う墨のかおり。

 一日の割り当ては、河野さんともうひとりの職員、そして私の三人で充分終えることができる。ただしこの作業は、この時期およそひと月もつづく。膝にも腰にも負担がかかる。正直しんどい。

 それでも国指定クラスの古文書に触れることができる機会は、私にとってそれだけで至福の時間だ。

 想像してもらいたい。二百年前には藩主や重臣にしか触れることが許されなかった国家(藩)の機密事項や行政文書、素養のもととなった教本。これはただの書籍や文書じゃない、ときの証人たちだ。

 その歴史や文化の一端を、私のような若輩者が手にすることができるんだ。顔には出さないが、私は心の中で歓喜のアリアを高らかに歌いあげている。


 昼食を終えた後、実習室にもどると、すでに河野さんがいた。

 縁側に腰をかけて、庭の藤袴を凝視していた。

 風にそよぐ慎ましやかな藤袴と河野さん。その取り合わせの妙に、私はしばし見惚れた。

 ずっと年上の、研究実績もある私の上司。

 河野さんが言葉を荒げたり、誰かを苛むことがあるなんて、私には想像もできなかった。静かに、本当に静かに文書の世界に没入している人で、そのときの河野さんは、まるで世界には自分と文書が描きだす景観しか存在しないような風情だった。

 だから私は……

 文書の芳香をただよわせたその日の秋風が、私を大胆にした。あるいはより愚かにした。

 隣に腰をかける。河野さんは、ちらと私を見やった。

「河野さん、その後は……?」

 大胆なんて云ったくせ、何という半端で意地汚い台詞だろう。私は自分に呆れた。

「……倉木」

 低い河野さんの声。誰にも聞こえない、ささやくようなその平穏な声音に、私は予感した。河野さんが今から口にするであろう、私にとっては残酷な台詞を。

「やはり、やりなおすことに するよ」

 そう云った河野さんの表情は、微笑とも苦笑ともとれるものだった。

 あぁ……私はどきりとする。そしてやっぱり駄目だったと、胸の奥がつんとする。

「悪かったな、この前はいろいろ聞いてもらった」

「どういたしまして、私の方がごちそうになっちゃいました」

 自分としては最大限の努力で以て、何てことない表情と口調を作りだした。   

 そんな風に、申し訳ないように笑わないでほしい。自分のものにならないのなら、見ているのが辛い。

 河野さんと奥さんのことを聞かされたあの夜以来、私は決して表には出せなかった心の奥底のとある感情に、淡い期待の炎を灯しつづけていた。

 奥さんとゆっくりと話しあったらどうですか……?

 私が口にしたのは、今どき中学生の恋愛相談でも使わないような、平凡で気のきかない台詞だった。

 だけど河野さん夫婦の亀裂を広げる言葉なんて、口にすることもできなかった。

 それを口にしたら、もしかしたら何かがおきたかもしれない。

 そしてその何かは、私を想像もつかないほどに変貌させたかもしれない。

 でもできなかった。

 善意じゃない。偽善ですらない。

 私はただ臆病なだけだった。生じるかもしれないその何かを、呼びよせることを畏れただけだった。

 そのくせ、淡い期待の炎をゆらゆらとゆらしながら、ふたりの亀裂が取り返しのつかない大きさとなってしまえと、意地の汚い気持ちだった。

 だから私は、表面上はこの上ない善意を見せながら、あんな誰にでも云えるつまらない台詞を口にした。

 そんなこと、本当は望んでもいないくせに。

 汚い私。


 午後の作業がはじまった。

 後ろで河野さんが、黙々と丁をめくる気配がする。

 その気配、そして下を向いた私のマスクごしに墨の匂いが鼻をくすぐり、不意に鼻の奥がつんとした。じわりと視界がにじむ。

 あ、まずい……と思った。ここで泣いたら、下の文書に落ちちゃうじゃないか。私はぐっと顔をあげて耐えた。

 心を曝して、風を通して、陽をあてて、紙魚や痛んだ箇所をみつけて、河野さんたちは、きっとあのお似合いの夫婦らしく、彼らなりの結論を導きだしたんだろう。

 でも、私は……

 武蔵野文庫を吹きぬけていく秋の風。 

 私の心の、この汚い紙魚も虫食いの跡も曝して、何もかも浄めて、最初からなかったことにしてくれたらいいのに……

 それをしてくれない武蔵野の秋風のすずやかさ、清冽さが、今の私にはひどく酷薄なものに感じられ、唇を噛みしめて涙を我慢しつづけた。


 藤袴の花言葉が「ためらい」だと、ずっと後になって、私は知った。

 

(了)

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心、曝して 衞藤萬里 @ethoubannri

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