03 美しさ : Yasmin



 

 白い『茉莉花ジャスミン』を題材ターゲットに、『美しさ』を写真でどう表現するべきか。香りが良い花は『一夜花』とも呼ばれ、夜に咲き、翌日のお昼頃には落ちてしまうらしい。イメージが確定しないまま、焦りが生じる。

 

 『題材ですから』と微笑する憎き映伴から押し付けられるようにして、我が家に来た茉莉花ジャスミンと睨み合う。男性から花を貰う図にしては乱雑である。園芸が趣味らしい映伴なら苦労は無いだろうが、私は世話の仕方から調べなくてはならなかった。未知と言えば……私自身の名前の由来すら、私は知らない。

 

 名付けた祖母に聞くことはもう出来ないし、両親に至っては……『絵が好きだったからじゃない? 』という雑っぷりだ。両親は器用貧乏というか、少々感覚がズレている。ヒントが欲しいと実家へ電話すれば、当たりが出た。直感が鋭い母なら、私にヒントをくれるはず。


「私だけど。おばあちゃんの遺品残ってるでしょ。その中に私っぽい物無い? 」


『……絵茉っぽい物!? 』


 受話器越しから驚愕が耳を刺す! 鼓膜破れるわ!


『久しぶりに電話して来たと思ったら、何でまた』

 

「良いから。あったら写真送って欲しい」


 文句の飛礫つぶてから、鼓膜を守護すべく電話を切る。果たしてヒントは届くのか。

 

 ――数分後、通知が鳴る。


 眼に焼き付く写真に、私の内から陽光が蘇る! 心臓が大きく鼓動を打ち始める。


 

『  5th Happy birthday! 絵が飾られた部屋に、虹色の輪飾りが半円を繰り返し描く。幼い私は満面の笑顔で、祖母に貰ったテディベアを抱きしめている 』


 

 母からの追記メッセージが届く。

 

『何か、気になって開けたら、額縁に入った絵茉の写真だった。おばあちゃんが溺愛してた絵茉っぽいでしょ? 』


 そう、私はおばあちゃん子だったのだ。胸を締め付ける郷愁から、思い出の欠片達は陽光と共に降り注ぐ。

 

 手作りのクマ形クッキー。温めた、膜のあるミルク。揚げたてのエビフライ。隅まで綺麗に拭かれた、フローリング。

 そして、使い古された画材。絵の具が取れなくなった筆とパレット。手書きのラベルで整理された引き出しから取り出した絵の具達は……祖母が私にくれた温もりだ。

 

『私が大好きな絵みたいに、絵茉は宝物だよ』


 かつて祖母は、柔い皺がある白い掌で幼い私の頭を撫でてくれた。包み込む微笑は、慈愛を遺して陽光に消えた。白い掌は温もりを失い、線香の香りと腕時計だけを置いて逝く。


 遺された私は大人になった。涙を拭うと、本棚から取り出した祖母の映るアルバムを見つめた。『写真』は過去の世界だけど、戻ることが出来なくても『確かに有ったんだ』と、思い出を宝物にしてくれる。

 

 宝物……trésorトレゾールと名付けられたphotoStudioで、カメラマンになった私は『思い出』を黒い瞬きシャッターで残し続けている。


 『写真』は、私達が今居る世界に繋がっている。生きているんだと地に足をつけ、鮮烈な感覚を追憶させてくれるんだ!


「テーマは決まった」


 茉莉花ジャスミンの他にあと二つ。材料が必要だ。カメラマンは、数字で光を操る魔術師だ。光は私の味方をしてくれる。

 


 ――決戦の日。私は白い布に包んだ写真を抱え、待ち合わせの駅前で審判の彼女を待っていた。


 

「お待たせ致しました! うわっ、先輩……全紙ですか? 良くプリント間に合いましたね 」


 現れた美花は、私の持つ額縁内の写真……508×610mmサイズに軽く引く。正確には『大全紙』である。写真の原紙である大全紙を、六つに切ったサイズである『六つ切』が一般的な写真台紙の大きさだ。大全紙で焼く客は、結婚式でも無い限り中々居ない。


「大きさで負けたくないから。業者の本気で、急ぎで焼いて貰った。映伴あっちは『F12』だとか言ってた。全く、『写真』と『絵』はサイズの呼び方すら違うなんてね」


 キャンパス、Fサイズ 12号は606×500mm。本来Fサイズは人物画向きで、完全に私に合わせてもらった形であるが、『写真』の方がデカくてほくそ笑む。

 

「負けず嫌いですね……。映伴あちらを選んでも、美花わたしを虐めないで下さいよ? 」

 

「約束する、拗ねるかもしれないけどね。公平な客観性で、今日は宜しくお願いします」


 私がお辞儀した後、美花は微妙に面食らっていた。先輩わたし後輩あなたを既に虐めたりしてないよね?


「深く考えず、愚鈍に選びます」


「それで良いよ。歩いて割とすぐだったから、行こうか」


 辿り着いた『Atelierアトリエ Cielシエル』の庭に、腕を組む映伴が居る。朝露煌めく植物達を味方に付けた彼は、勝負相手として申し分ない。


「おはようございます。そちらが審判の方ですか」


「おはよ。そう、私の後輩」


 映伴と挨拶を交わした美花は、嬉しそうに私に囁く。


「イケメンですね」


 そうか? 映伴の雰囲気に騙されているぞ。だが、その言葉に私が抱いたのは危機感だった。映伴の方が有利なのかも。 先輩圧だけじゃ、美花は揺らがない。


「公平に、ね? 」


 寧ろ、これでトントンなはず。何故か美花は面白くなさそうに、拗ねたように唇を片側に寄せた。


「春を見られるのが遠いです」


 今は梅雨が終わり、夏だが何か。と淡々と返しかけた時……映伴と視線がかち合う。不意の事で、私は張り詰めた仮面を解いてしまった。

 

 朝露煌めく庭から、鮮やかな黄緑スプリンググリーンを吸い込んだ丸眼鏡の向こう。茶色の中の緑ヘーゼルの瞳は、僅かに見開かれる。

 

 私が疑問に瞬くと、映伴は我に返ったように背を向けて扉に触れた。……急かされているのか。


「行きましょうか」

 

 映伴に続き、穏やかな光が満ちた乳白色ミルキーホワイトのアトリエに入ると……白い布が掛けられた画架イーゼルと、から画架イーゼルがあった。ここに置け、という意味だろう。私は抱えた『写真』を彼の『絵』に並べる。今はどちらも、白い布の下……そのかんばせは分からない。


「先行は? 」


映伴そっちからで良いよ。私はどんな結果でも、覚悟出来てるから」

 

「余裕ですね。絵茉が負けたら……」


 おっと危ない! 美花が審判を出来なくなる前に、私は彼女の耳を塞ぐ。


「『写真』から手を引いて貰いますから。その後は、私の弟子にでもなればいい」


「暫く無職はやだな。映伴あんたの弟子なんて、死んでも御免。私が勝ったら、機械音痴は私の弟子にでもなる? 」


「道程は長そうですが、仕方ありません」


 映伴が溜息をつくと、我慢出来なかった美花は私の手から逃れる。


「もぅっ! 急に何なんですか、先輩」


「ごめん、賭けている対価は内緒」


 ぷりぷりと頬を膨らます美花に、私は苦笑する。先輩が辞める可能性がある事は、心優しい彼女には知られてはならない。私の方が失う対価はデカいと気づくが、条件を呑んでしまった以上、逃れることは出来ない。売られた勝負ケンカを買ってしまった私の責任だ。


「では、私からという事で」


 冷笑を湛えた映伴に、私は息を呑む。彼は躊躇無く白い布を取り払った!



『 見上げた明るい灰みの青スカイブルーの空に咲くのは一輪の茉莉花ジャスミン……と思ったが、そうでは無い。それは無彩色ホワイトの、一羽の鳥だった。深い赤系の黒ランプブラックの嘴は花柄かへいの様にも見えるし、雲を従える翼は花弁の様にも見える。眼下の小さな茉莉花なかま達を置いて、鳥と化した花は自由を手に入れた 』

 


 油絵を見た瞬間、自由を手に入れた鳥になった気がした。広い空へ飛び立つ爽快感は、たった一羽である強さと孤独を連れていく。


「凄い」


 私は素直に驚嘆した。映伴の想像力が有るからこそ、描けた世界だ。絵が描けても、私には思いつかなかっただろう。


「批評は、後程に」


 得意げな映伴に、苛立ちすら湧かない。私が負けても悔しさなんて与えず、綺麗に負けさせてくれるだろう。

 だが、私も只では負けられない。私には見えない世界を彼が描けるように、彼に見えない世界を……私は撮れるのだから。私は白い布に縋ってしまう。思い出を切り取れる『写真』だから、私は美しい世界を見つめられる。祖母が大切にしてくれた写真で、気づく事が出来たから。

 

 ――私は、大切な『宝物』を手放したりしない!


 

『 生まれたての朝日が祝福する。無彩色ホワイト茉莉花ジャスミンは、御包みアフガンのようにふんわりとした正絹シルク亀甲紗チュールに包まれる。生き生きとした生命力に満ちているのは、深い黄緑メドウグリーンの葉脈。鮮やかな黄緑スプリンググリーンの葉は、赤子が伸ばす小さな手のように……優しい皺を寄せる無彩色ホワイト御包みアフガンにそっと甘えている 』


 

 写真は光で『一瞬』を切り取る物。絵は想像の世界と融合する事も出来るし、写真だって加工すれば現実から離れる事が出来る。

 

 だけど私は、今生きている世界が好きだ。世界が与えてくれた美しさを知っているから、それ以上の世界を目指したくなる。私が撮ったのは、『美しさ』の原点だった。


「温かい……不思議だ。無彩色しろなのに」


  呆然と呟く映伴の横顔に幼さを感じ、私は微笑していた。


「美花、審判宜しく」


 二つの『美しさ』を表現する作品の前で、呆然と立ち尽していた美花は我に返った。


「本当は、どちらも私は好きです。審判じゃなきゃ、選べなかったと思います。けど、感じたままに言わせてもらいます」

 

 美花は映伴の油絵を見つめる。私は指先がびりびりと痺れるのを感じた。


「まず、こちらの油絵ですが。空への憧れと感じる自由が、私の物になった様でした。茉莉花ジャスミンが白い鳥にも見えるようで、不思議な感覚でした。だけど、白い鳥になった茉莉花ジャスミンは、たった一羽。広い空に飛び立つのは、寂しかったんじゃないでしょうか。白い鳥だけが、写実的で孤独が浮き彫りになっていました」


 美花の感想は、私の感覚とも重なる。深い赤系の黒ランプブラックの嘴も、雲を従える翼も……淡い世界で、孤独を生んでいた。


「孤独、ですか」


 映伴が胸を突かれたように呟くと、美花は私の写真を見つめる。


「対して先輩の写真は、映伴さんが告げたように白に『温かさ』を感じました。色彩は『白と黄緑』と限られていますが、優しい陽光と柔らかな正絹シルクの皺が『包み込む親の慈愛』を、生き生きとした葉を持つ茉莉花ジャスミンは『愛を受け取る子供』の様でした。ニューボーンフォトに近い物があるんですかね」


「確かに、似てるかも。正絹シルクは、御包みアフガンのイメージだったから」


 『ニューボーンフォト』とは、新生児期に撮影する赤ちゃんの記念写真だ。カメラマンとしての経験が、無意識に生かされたのか。


「私の負けですね」


 映伴は負けたというのに、吹っ切れた笑みで破顔した。だが私の勝利は、幻想だ。感じる『美しさ』は十人十色。審判が美花以外だったなら、感じた『美しさ』も違っていただろう。


「私、映伴に言わないといけないことがある。勘違いしてるかもしれないから。私は貴方にこれからも油絵画家でいて欲しい。……私は映伴の『絵』が好きだから」


 映伴が勝ったなら、私はカメラマンを辞めて彼の弟子になっていただろう。だが私は勝っても、映伴に『絵』を辞めさせるつもりなんて無かった。

 

 庭の植物達を飾る採光窓から一筋に通る光と風は、不意に強まる。丸眼鏡の奥……光芒を受けた茶色の中の緑ヘーゼルの瞳は揺らぐ。

 

「初めて、名前を呼んでくれましたね」

 

「そうだった? 」


「そうですよ。そっちだとか、あんたとか。辛辣でした。ずっと今の呼び方にして下さい」


 映伴に、うるうると上目遣いで見つめられると、本能的に拒否したくなるんだけど!

 寧ろ私は、ずっと冷静な映伴で居て欲しいとお願いしたい。『絵』に向かい合う時の彼は、美しく冴えている。

 

  美花はニヤニヤしている。口パクで『春ですね』って……意味が分かった。先輩として、後で締めさせて頂く。

 

「呼び方は、考えとく。気になってたんだけど、何でアトリエの名は『Cielシエル』なの? 空を描くのが好きだから? 」


「私が『絵』を描き始めたきっかけが、『空』だったからです。神様の気まぐれで描かれる空のキャンパスのように、私も美しさを描いてみたいと思ったのです。しかし油絵画家として、そこそこに成功して……一人でも生きられる日々ルーティンの中、ふわふわとした形の無い孤独を覚えていたのかもしれません。批評は最もでした」

 

「なら、私が映伴の足を地につけさせてあげる。ふわふわと空ばかり飛ぶ様な孤独も画風タッチも、『写真』に触れれば、新しい美しさを知る事が出来るかもしれない」


「それは、頼もしい! 機械音痴が治るだけでは無いとは、私に利益しかありませんね」


 私は初めから、のほほんとした彼の掌の上で転がされていたのか。


映伴わたしの名前の意味は、今見つけました。『映す』を伴う。『写真』を魅せてくれる絵茉が居れば、私は新しい美しさを知ることが出来る」

 

 私も今なら、『絵茉』の名前に込められた意味が分かる。絵が大好きだった祖母は、『絵』に愛しさを。『茉』に私が生まれた感謝を込めてくれた。


 

茉莉花ジャスミンの語源は、ペルシャ語のYasmin。

 

“神様からの贈り物”だ。


 




 

 

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神様の気まぐれ : Art 鳥兎子 @totoko3927

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