02 名前 : 茉莉花
『
撮影の合間、休憩中のこと。名刺の名を検索した私は、驚愕で菓子屑を少々零して焦る。ズボンが黒なのに白くなってしまう。まぁ仕事上膝立ちばかりで、膝部分が白くすり減っているから変わらないか。菓子屑を密かに床に払うと、同僚に声を掛けられ緊張が走る。
「名刺ですか? ……綺麗な絵」
同じ『
「そこそこ有名な油絵画家みたい。インタビュー記事あった」
「凄いじゃないですか! 一体何処で会ったんです?
「先週、紫陽花園に撮影しに行ったら偶然会った」
「この間行くって言ってた紫陽花園ですか。ふぅん……」
目を細める彼女の憶測は当たらない。私はのほほんとしている
「デジカメの操作にすら戸惑ってたから
腕を組み、私は嘘を織り交ぜる。映伴のことを説明するのも、要らぬ憶測をされてしまうのも面倒だ。
「ドキッ。
「早く戦力になって」
本気で吐いた溜息が、張り詰める。通知が一件、BADタイミングで表示されていた。
「遠慮しないで、返してください」
ニヤニヤする美花に、私は彼を恨んだ。
『この間送ってもらった紫陽花の写真、めちゃくちゃ助かりました! お陰で良い色で描けたので、良ければアトリエにいらっしゃいませんか? 』
――悩ましい通知に返信してから、数日後。
私は白木扉の前で、開けるのを躊躇していた。インターホンもノックベルも無い。来る者拒まず、と言う訳だ。それ故に、来訪者を選んでいる気がする。
『
『空』を意味する名に、名刺の裏の油絵を思い出す。幻想的な世界観は、映伴の
「ようこそ! 待ってました、絵茉さん」
私が開ける前に、白木扉が開く。軽やかなドアチャイムを連れて、満面の笑みで現れたのは映伴だ。躊躇していたのは、先程窓越しに目が合ったせいでバレていた。
「お久しぶりです」
人見知りを発動させた私は、案内する映伴に大人しく着いて行き、古い無垢材の床から顔を上げた。
斜めの
「こちらです」
私は目が輝いていたのだろう。案内の手をある油絵に向けた映伴は、遊園地に訪れた子供に慈愛を与えるように目を細めた。風が頬をゆるく撫で、私は一つの油絵の前で立ち止まる。これが、映伴が私に見せたかった油絵か。
『 夕暮れの森。流れる薄群青色の大河は、近づくに連れて紫陽花の輪郭を手に入れる。紫陽花は燃える斜陽を受け、
私が撮った孤独な紫陽花の写真は、映伴の手により世界と繋がる油絵となった。見つめる世界の広さを思い知らされた気がした。美しさは胸を締め付けるのに、自尊心を綯い交ぜにする。
「絵茉さんは、ご自身の名前の由来を知っていますか? 」
追い詰めるように、映伴は静かに問う。私は答えられない。祖母が付けた名前の由来を知る前に、彼女は亡くなったから。
「推測ですが……名付けた方は絵が好きだったのではないかと思います。そして、
「由来なんて分かりません。ただ、祖母は絵を描くのが好きでした。私も描く事が好き
「何故、止めてしまったんです? 絵茉さんは色彩感覚が鋭い。私は貴方の写真を見た時に素晴らしいと思いました。だけど、絵を諦める必要なんて無かったんじゃないですか 」
挫折を不快になぞられ映伴を睨めば、丸眼鏡の奥……焔を宿した瞳は
「才能のある貴方には分からない。何度描いても、
「描けなければ、何度も
穏やかさをかなぐり捨てた映伴は、己の道への迷いが無くて、清々しい。怒りは最もだ。全ては諦めてしまった私の責任で、映伴の見えない努力を『才能』という言葉で詰っていい理由にはならない。
「私の努力が足りないって笑えばいい。上手く描けなくたって、私は光を数字で捉えられる。色は数値化出来るし、
「機械では、貴方の精細な色彩感覚を表現するのに限界が来る。絵なら限界を穿つことが出来る! 」
私は鼻で笑う。この男は私の色彩感覚に惹かれているのか。だから『紫陽花』の写真を送るように強請った。
「これだから機械音痴は。私が『写真』を選んだのは、何も『絵』への劣等感だけじゃない。ファインダーから見る世界が好きだから。私の限界を舐めないで! 貴方には届かない」
穏やかな光が満ちる
「ならば、一つ勝負をしませんか? 絵茉が負けたら『写真』では無く、もう一度『絵』を選んでもらいます」
コイツ……絵茉
「
「勿論、勝負内容は互いに『絵』と『写真』で美しさを表現すること。題材は……『
片眉が引き攣るのを自覚するが、
「それでいい、審判は私の同僚で。嘘がつけない子だから、私を贔屓するようなことは無い」
映伴は口角に冷たく弧を描く。ヘラヘラとした微笑は無い。何時もそうしていればいいのだ。
「いいでしょう。期限は一週間後。油絵は乾くのに時間が掛かるので、時間だけは頂きたい」
「ノロマ。
「辛辣過ぎますよ、絵茉!? 全く……怖いんだから。
首を傾げた私は、
私は、得意気な映伴の足を思いっきり踏んでおいた。
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