最終話

 土壌化学研究室に続く廊下は、薄暗い影に浸されていた。

 研究室のある三号館は、他の建物に比べて極端に窓が少なかった。そのせいか、豊かな春の陽光も十分に行き届かないらしい。まだ午前中にもかかわらず、建物の隅には陰気な雰囲気が漂っていた。天井に目を向けると、明滅を繰り返す蛍光灯が数本あり、それも室内の薄暗さに拍車をかけているようだった。

 白衣姿の学生と数人すれ違いながら、三号館の狭い廊下を進んでいくと、突き当りに目的の部屋があった。部屋の扉の横にはステンレス製のネームプレートがあり、白い字で[土壌化学研究室]と書かれていた。

 扉の前に立つと、僕は静かに深呼吸をした。息を吸い込むと、口内がひどく渇いていて、舌が引きつった。僕はそこで初めて、自分が緊張していることに気づいた。

 東藤さんとブラックハウスで別れてから、既に半年近い月日が経つ。よく考えたら、彼女が僕のことを覚えている保証などどこにもないのだ。彼女に声をかけて、適当にあしらわれたら、僕は立ち直れなくなるかもしれない。ドアノブにかける手に嫌な汗が滲んだ。

「君、どうしたの?」

 背後から声をかけられて、僕は思わず肩を震わせた。手を引っ込めて振り返ると、白衣を着た男が立っていた。頭頂部のくせ毛が跳ねていて、左手に書類をまとめたファイルを持っている。人懐っこい感じのする厚い上まぶたと、小太りな体型も相まって、温厚なパンダのように見える。

「すみません、土壌化学研究室に用があって……」

「そうなんだ。もしかして研究室訪問の学生さんかな? 今日面会のアポがあるって話、教授からは聞いてなかったけど……」頭の後ろを掻きながら、歯の隙間から息を漏らすような早口で彼は喋った。

「あの、あなたは……?」

「ああ、申し遅れました。応用生物科学部の土壌化学科四年、北島といいます。一応、ここの副ゼミ長を今年からやらせてもらってます」温和な笑みを浮かべて、男は言った。

「自分は一年生の小西です」自己紹介をしながら、僕は研究室の扉に視線を送った。「こちらに東藤さんはいらっしゃいますか?」

「東藤さん?」元々高い声のトーンをさらに上げて、彼は言った。「今日はまだ会ってないからわからないけど……彼女に用があるの?」

「はい」

 僕は素直に頷いた。北島さんは太い指で顎を撫でながら、僕の顔と研究室の扉を交互に見た。

「そうか……いや、いいんだ。とりあえずこの中にいるかどうか、確認してみるよ」

 訝し気な表情を顔に張り付けたまま、北島さんは扉を引き開けた。そして中に入るよう、目線だけで僕を促した。研究室に足を踏み入れると、天井に埋め込まれた照明が、室内を煌々こうこうと照らしていた。暗い廊下から急に明るい部屋に入ったので、僕は何度か目を瞬かせた。

 部屋の広さは約三十畳ほどで、僕が想像していた研究室のイメージとさほど違わない様子だった。研究室の中央にはスチール製の実験台が二つ、等間隔で据えられていた。実験台にはガラス扉や棚板が備え付けられ、ガラス瓶や試薬ボトルが並んでいた。

 実験台の天板の大半を占めているのは、丸底フラスコや駒込ピペット、ろ過瓶などの器具だった。実験器具以外には、顕微鏡や電子天秤などの機器や、ビニール袋に入ったシリコンの栓や、ケーブルの生えた用途のわからない装置があった。実験台の足元には、合成皮革が張られた四つ足の椅子が設置されていた。

 部屋の北側にはガラス開き戸の収納戸棚が立ち並び、中には薬品の入った瓶が並んでいた。瓶にはその薬品の名前を記入したラベルが張られている。部屋の反対側にはブラインドのかかった窓があり、その手前には幅広の実験台が置かれていた。

 研究室の奥の方にも、さらに部屋があるみたいだった。北島さんは手にしていたファイルを窓際の実験台の上に置くと、奥の部屋まで歩みを進めた。彼は何度か周りを見回すと、僕の方を向いて、手を顔の前で左右に振った。どうやら東藤さんはいないと、こちらに合図を送っているらしい。

「うーん……ここにいないなら、たぶん共同研究室にいるんじゃないかな」こちらに歩み寄りながら、北島さんが僕に声をかけた。

「共同研究室?」

「この棟の二階にあるんだ。階段を上って廊下を左に行くと、すぐに見つかるよ。部屋に入るには学生証が必要だけど、持ってるかい?」

「はい、持ってます」右ポケットに入れた財布の中に、学生証を入れてきたことを思い出す。「親切にありがとうございました」

「いえいえ。何かあったらまた研究室においでよ」親しげに笑いながら、北島さんは言った。

 北島さんに別れを告げると、僕は研究室を出て階段を上った。左手に折れて廊下を進むと、共同研究室と書かれたネームプレートのある部屋を見つけた。扉の横にカードリーダーがあり、溝に学生証を通すと、電子音が短く鳴って扉が開いた。

 共同研究室は、土壌化学研究室より一回り小さい部屋だった。壁際に書物の詰まった棚が並んでいて、入口の隅にプリンターやコピー機があった。部屋の中央にはパーティションで仕切られた机があり、それぞれにデスクトップ型のパソコンが置かれていた。数人の学生がパソコンで作業をしたり、携帯電話を弄ったりしている。

 その学生たちの中に、見覚えのあるショートボブの女性の頭が見えた。首元にフリルの付いたブラウスを着て、足首の見えるジーンズを履いている。近づいてみると、彼女は英語で書かれた論文らしきものが表示されたディスプレイを熱心に眺めていた。僕はその女性の背後から、すみませんと声をかけた。

「はい、なんでしょう……」

 振り向いた女性の顔を見て、僕は胸をなでおろした。ワインの詰まったたるの底を抜くみたいに、緊張感が足元から流れ出ていく。女性の方は薄く口を開けて、おこりが落ちたような顔をしていた。こんな表情の東藤さんは初めて見るな、と僕は思った。

「小西君……」自然と口から洩れたような小さな声で、東藤さんが言った。

「お久しぶりです」

「どうしてここに?」ふいに我に返ったように、東藤さんがあたりに目を配る。「とりあえず、一旦外に出ましょう」

「了解です」

 僕と東藤さんは連れ立って共同研究室を出た。急ぎ足で進んでいく東藤さんの背中を見ながら、僕も廊下を歩いていく。二人分の靴音が、静かな廊下に反響する。

 やがて丸テーブルや椅子が置いてある、開けたスペースに出た。おそらくは学生同士の団欒や休憩に使われる場所なのだろう。窓からは隣にある四号館の建物や、新葉を付けたケヤキの木が見える。まだ一時限の時間帯だからか、僕と東藤さん以外に人はいなかった。

 窓際の席に二人で座ると、息を整える間もなく、東藤さんが顔をこちらに近づけて切り出した。

「どうしてここにいるの?」

「僕、四月からここの学生なんです」

「え、本当に?」

「そもそも、この大学を受けるといいよと勧めていたのは、東藤さんじゃないですか」

「それはそうだけどさ」東藤さんは机に肘をつきながら、深くため息をついた。「まさか、真に受けるとは思わないでしょう」

「もちろん、自分なりに考えて下した決断です」かしこまった口調で僕は言う。「あれから両親とも話し合ったんです。急な志望校の変更に少し戸惑ってましたけど……熱心に説得したら、承諾してくれました」

「よく許してくれたわね」

「うちの両親、わりと放任主義ですから」机の下で手を弄びながら、僕は言った。「正直、就職活動をする上で有利になるという理由から、惰性で受験をしていたところがあって……両親も薄々、勘づいていたんじゃないかな……でも今回、どうしてもこの大学でやりたいことがあるって伝えたら、頷いてくれたんです」

「まさか、堆肥葬のことを話したの?」

「話しませんよ」眉間に皺を寄せて僕は言った。「約束はちゃんと守りますって」

「ふうん、口が堅いんだね」唇の端を曲げて、彼女は笑った。「そういえば、どうして私が共同研究室にいるってわかったの?」

「土壌化学研究室で、北島さんって方に聞いたんです」

「ああ、北島君か」東藤さんはしきりに頷いた。「彼、お人よしだからな……」

「話し方からして、そんな感じはしました」

「ひょっとして、小西君ってうちのゼミに入るつもり?」

「そうですけど……」

「やっぱりそうか」椅子に背中を預け、腕組みをしたまま東藤さんが言う。「ちなみに、ゼミに入れるのは二年生になってからだよ」

「え、そうなんですか?」

「だから君はまだ、堆肥葬の実験には参加できないの」

「そうなんだ……」少々気落ちして、呟くように僕は言った。「まあ、待ちますよ。僕は共犯者のつもりですし」

「うーん、共犯者ねえ……」細い前髪を左手で払いながら、東藤さんが言った。「こんな危ういことに巻き込む気はなかったんだけどな」

「最初に首を突っ込んだのは僕ですから」

「口を滑らせたのは私の方だよ」

「じゃあお互い様ですね」

 僕がそう言うと、東藤さんは陶器が鳴るような控えめな声で笑った。それに同調するように、僕も微笑んだ。この笑い声のやり取りには、僕と彼女が互いに共犯者であることを暗に確かめ合ったという、深い意味が伴っているように思えた。

 笑いの波が収まると、彼女は一つ息を吐き出して、僕の顔をまじまじと見つめた。

「君って笑顔になると、目が細くなるんだね。ますます犬みたいに見えるよ」

 東藤さんにそう言われて、僕は曖昧に頷いた。羞恥心が血流に乗って、頬を熱くさせる。現にこうして、僕は彼女の後を追って大学にまで入っているのだ。犬みたいだと言われても仕方がない気がした。

 僕がまごついていると、東藤さんはポケットから携帯電話を取り出して、何やら操作し始めた。

「連絡先、交換しない?」

 唐突な提案に虚をつかれたが、僕は首肯した。携帯電話を弄りながら、僕の意識は東藤さんの手に引き寄せられていた。液晶画面を触る彼女の手は梨の花のように白く、しなやかに動いていた。こんなに美しい手が、ナイフを握りしめたり、死体を土に埋めるのに使われているとは、到底思えなかった。

 互いの連絡先を交換すると、東藤さんが携帯電話をしまいながら口を開いた。

「小西君は、この後講義あるの?」

「そうですね……」リュックサックから手帳を取り出して、自分で組んだ時間割を確認する。「二時限の肥料栄養学と、三時限の環境化学があります」

「そっか」彼女は意味ありげな笑みを浮かべた。「あのね、小西君。私、四時限の始まる時間くらいに車を借りて、ブラックハウスに向かおうと思うの。堆肥葬の材料を探すためにね。もし君も参加したいなら、総務課の前の駐車場で車を停めて待ってるから」

 矢継ぎ早に僕にそう告げると、彼女は席を立った。そして僕の肩をぽんと叩き、顔を近づけてきた。

「よく考えてから来てね」

 囁いた時に吐いた息が、直接耳に吹き込まれて、僕は思わず首をすくめた。彼女は僕に手を振ると、背筋をしゃんと伸ばしたまま、共同研究室の方へ歩いて行った。僕はその背中を、彼女が部屋に入っていくまでずっと目で追っていた。

 彼女が最後に放った言葉を、僕は反芻する。これがある種の警告であることは、直感でわかった。これから東藤さんとあの廃墟に行き、もし首を吊った遺体と対峙したら、僕はもう後戻りはできないだろう。引き返すなら今のうちだ、と彼女は遠回しに忠告しているのだ。

 だが、既に僕の船は錨を上げて、大海原に漕ぎ出してしまっている。いまさら進路を変更して、急に旋回しようものなら、瞬く間に転覆してしまうだろう。以前進んでいた航路には、もう戻れはしないことを、僕は痛感した。

 ふと思い立って、僕はリュックサックからカメラを取り出した。受験勉強中は机にかじりついていたので、あまりカメラに触れることができなかった。大学合格の後、大学の正門の写真を数枚撮ったのが最後だった。

 今、僕は何を撮りたいのだろう。春の陽光を反射する新緑のケヤキや、キャンパスの西側にある赤レンガ造りの建物など、被写体はいたるところにある。だが、僕の脳裏に最初に過ったのは、遺体のぶら下がるロープを切断する、東藤さんの姿だった。ナイフを巧みに操りながら、凛とした表情を浮かべる彼女のことを撮影したいと、強く思った。

 僕はちらりと腕時計を見た。あと二十分ほどで、二時限の講義が始まる時間だった。三時限が終わるまでには、昼食の時間も含めて、まだたっぷりと猶予がある。僕の大学生活はまだ始まったばかりで、目の前には膨大な時間が口を開けて待っているのだ。

 リュックサックにカメラをしまいながら、僕は階段を下りた。日が少し傾いたからか、三号館の廊下は先ほどよりも明るくなったように思えた。高揚感に足取りを軽くしながら、僕は三号館の玄関の扉を開けた。



<了>

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やがて土になる日々 塚井理央 @rio_tsukai

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