4月の晴れた日に、カリンと一緒に母を訪ねた。トーキョーは何年ぶりだろう。研究所の一角にある桜並木を抜けた先。白いファサードとガラス張りの未来的デザインの建物に母はいた。入ると体育館のような柱のない大きな部屋に純白の双腕ロボットが並び、みな慌ただしく作業をしていた。サーボと冷却ファンの音が騒々しい。

「お待ちしてました」

 ロボットのひとつが手を休め振り向いた。白い筐体にはめこまれたカメラがぎょろりとこちらを睨む。

「ご要望どおりクロエさんをお連れしました」

 カリンの言葉にロボットは返事もせず、ロボティックディスカバリー社の紹介映像を背中に流しながら移動を始めた。曰く、ラボ・アズ・ア・サービス事業で世界中の研究機関の実験を代行。受注実績は世界No.1。母は研究の傍らこの会社のCTOをしていた。

 クリックひとつで新しい材料の探索からスクリーニング、合成プロセス最適化までワンストップで対応するのだそうだ。まさに自動実験のクラウドサービス。今ならシングルセルソータを使う生化学オプションも割引価格で選べるという。なるほど。これは楽でいいわ。

「ちょちょ、クロエ、納得してる場合ですか?」

 カリンが私を小突く。ごめん夢中になりすぎてた。

 ここは件のトポロジカル超伝導体が発見された場所だった。ロボット実験で網羅的に探索したらしい。流れる動画は最近の成果の宣伝ばかりで、撤回論文にはひとつも触れなかった。

 続いて案内された会議室に入るとサーバーから自動で紅茶が出され、別のロボットが現れた。白壁の会議室に白いロボット。無人化もここまで徹底してると清々する。

 カリンは必要もないのにロボットに小さく会釈してから口をつけ、私もちびりと一口すすった。予想に反して、おいしい。非自明なり。

 それから5分ほどして、彼女は唐突にそのロボットの画面に現れた。

「ひさしぶりね」

「母さん!」

 もっといろいろ言いたいことはあったはずなのに、それ以外の言葉が出てこなかった。母はロボットアームを私の頭にのばし器用になでた。私はなぜだか彼女がそうするとわかってて、ぎこちなく頭を寄せた。不思議な感覚。何年も会っていなかったのに、昨日も一緒だったみたいな安心感。

 カリンはしばらくしてから本題に入った。

「撤回論文についてお伝えしていたとおり、自動実験ロボットによる新物質の発見は問題ではありません。我々の懸念は、AIが発見した量子重力理論が人間に理解不能なことです」

「アハハハ」

 画面の向こうで母が笑うとカリンは耳まで赤くして抗議した。

「笑いごとじゃないですよ」

「ごめんなさい。でもAIは所詮、文房具。アインシュタインが相対論を発見したとき、あなた達は紙とペンに賞を贈った?」

「いえ」

「室温超伝導体の合成炉は? ブラックホールの撮像アルゴリズムは?」

「い、いえ」

「でしょう」

 この点に関しては母に同意する。むやみにAIを擬人化する態度はどうも好きになれない。シンギュラリティと言われていた年はとっくに過ぎたけれど、心を宿したニューラルネットワークはついに現れなかった。AIは検索と最適化に長け、ある種の知的な演算能力をもつことは否定しない。けれど、安易な擬人化は科学的な態度とは言えない。

「賞をチューリングテストに使われては困るという懸念も出ています」

「おととしの生理医学賞は自動実験室スマートラボで見つかった新薬が対象だったでしょう? もうAIか人間かなんて時代じゃないのよ」

 人と機械の共生の時代。そう呼ばれるようになってだいぶ経つ。私がカリンの肩にそっと手を置くと、不満そうに頬を膨らませた。

「かもしれません。けど、これが最後の砦なんです」

 小さな声で、私見ですけど、と自信なさそうに付け加えた。懸念はわからないでもない。ここに来るまでの道すがら、彼女は人間が理解できない物理法則をどう受け入れるかしきりに心配していた。

「どうか問題をずらさないで頂きたい。量子重力理論は超多層ニューラルネットワークで、人間には理解不能。そう書いたのはあなたでしょう」

 物理学最大の挑戦は量子論と重力理論の融合だった。すべての素粒子と力を扱えるはずの場の量子論に重力だけがハマらない。つじつま合わせの有力候補は超弦理論だったけれど、実験検証が難しかった。

「仕方なかったのよ」

 母が伏し目がちにつぶやくと、ロボットの胸のレーザープロジェクタが光り、テーブルに説明図が表示された。

 ヒントはブラックホールから見つかった。そんな言葉から母の説明が始まった。重力理論と量子論をぴったり対応づけられる具体例のひとつがブラックホール研究から発見された。一見まったく異なる理論が等価になる現象は〈双対〉と呼ばれ、今の場合は2つの理論の次元が違うので、ホログラフィック双対と呼ばれる。これは流石に私でも知ってる。いちばん有名なのは反ドジッター時空の例だ。

「もともと素粒子と物性の間の双対性はよく知られていたのよ」

「そうなんですか?」

 カリンが驚きの声を上げると、母は嬉しそうにニンマリした。

「自発的対称性の破れと超流動、ヒッグス現象と超伝導。何年も前に受賞対象に選ばれてる」

 母はこの〈双対〉を使って重力の問題を超伝導体上の量子現象に置き換え、加速器を使わずに量子重力理論の検証を試みた。そのための仕掛けがトポロジカル超伝導チップ上の双対ブラックホールだった。

「母さん待って。量子論と重力理論では次元が違うでしょ?」

 私の知っているタイプの双対は、重力理論のすべての情報がより低次元の量子論に含まれていた。2次元平面に3次元情報がすべて入っているホログラムのようなものだ。

「そうよ」

「だったら逆問題じゃ」

 量子側から重力理論を決めるのは、いわば逆解き、とんちだ。ある関数が与えられたときに、それを解とするような微分方程式を推定する。単純なやり方では順方向に微分方程式を解くよりはるかに難しい。

 あっ、そこまで言って理解した。

「そう。だから時空をニューラルネットワークとみなし、量子論を教師データにして機械学習で量子重力理論を決めたのよ」

 母は待ってましたとばかりにニヤリとした。

 にわかには信じがたいことだったが、彼女の言っていることは論理的に整合していた。唯一問題があるとすれば、得られた量子重力理論がニューラルネットワークになってしまうことだ。たぶん重みパラメータのいくつかは時空の計量に対応するのだろうけど、残りの多くは物理的な意味はわからない。物理法則がニューラルネットだというのも受け入れがたいが、それを飲み込んでさえパラメータが解釈できないのは困る。カリンが問題視しているのはまさにこの点だった。

「そもそも、科学における『理解』とは何でしょう?」

 母の問いかけにカリンが狼狽える。ここは私が答えるとこかな?

「それなりにシンプルな理論や少ない数の法則、あるいはアルゴリズム的な手順に還元できたとき『理解した』と言うんじゃない?」

「オッカムの剃刀? それはあまりにも人間原理すぎない?」

 私はカップの紅茶をすすり、画面の中の母を見つめた。

「もちろん、理解というのが人間の営みである以上、美しさは重要よ。でもそれは、人間が手懐けられる範囲の方程式で物理法則が記述できることを保証しない。自然は数学の言葉で書かれるかもしれないけれど、それが正しいかどうかを決めるのはあくまでも自然なのよ」

「そうですよね。それは理解しているつもりです」

 カリンは青い瞳をすこし潤ませながら尋ねた。

「論文を撤回したのはなぜです?」

 今度は母がたじろいだように見えた。

「その論文のはダミーだったのよ。本物はブラックホールの中」

「ど、どういうこと?」

 母は返事をしなかった。

「ねぇ母さん、そんなとこ隠れてないで出てきてよ」

 さっきからロボットの右にある半透明の壁が気になっていた。

 奥に人影のようなものがうっすら見えるのだ。

「母さんってば!」

 勢いに任せ、そのプラスチックの板にグーパンいっぱつ。バキッという音とともにフレームから板が外れ、隣室からは無数の管に繋がれた女性の姿が顕になった。

「母さん?」

 駆け寄って確認する。間違いない。忘れないよ、親の顔は――。

 母さん。もう一度優しく声をかける。私の声だけが白壁に虚しく反射した。カリンは目を丸くしながら私のあとについてきた。

「今まで私たちと話してたのは、何だったんでしょうか……」

 やつれきった顔を覗きこむ。背後でさっきのロボットが申し訳なさそうに返事をした。

 彼女はALSという難病におかされていた。筋力が衰え、やがて自ら声を出すことも、呼吸さえもできなくなる。母は脳に埋め込まれた電極を使って、車椅子から合成音声まで、無数のデバイスを自らの身体のように操っていた。ロボットの表示も合成画像だったのだ。

「ごめんね、こんなみっともない姿で……」

「何言ってるのよ。身体、大丈夫なの? なわけないか……」

「アハハ。ああ大きくなったわねえ、クロエ」

 目は見えている。彼女の優しい瞳がくるくると私を追いかけてきた。

「ここにいるよ」

 目を閉じてこつんと額を当てた。温かい。動かない口で彼女は必死に何かを言おうとしていた。

 ロボットが静かに動き、合成音声が彼女の頭の中のことを洗いざらい説明した。私たちはその嵐のような話が終わるまで、静かに耳を傾けた。

 超伝導チップ上のブラックホールが制御不能になり、学習済みの量子ニューラルネットワークの重みデータをすべて喪失したという。すぐに再現できると考え、書きかけの論文はバックアップとして訓練してあった古典ニューラルネットの結果を仕上げ投稿したとのこと。

 けれど予想に反し、再現は難航したのだった。そもそも量子データはクローン禁止定理により複製保存ができない。また乱数シードも失われてしまっていたために、完全な再現実験も不可能だったらしい。そういう経緯で、良心の呵責もあり、掲載2ヶ月後に論文を取り下げたという。

 そこまで話しおわると、母は眠るような安らかな顔をした。え、ちょ、ちょっと待ってよ。

「ワコーの量子コンピュータの酷使、もしかして母さんなの?」

 双対ブラックホールの中にある量子データを復元するアルゴリズムが存在する。何を隠そう、私の会社のメインのビジネスはそれだ。母さんは自力で復元しようとして――

「そうよ」

 それで魔法状態の純度クレームが発生したのか。世界は狭い。

「どうして今ごろになって私を呼んだのよ?」

「あら、親が子供に会いたいと思うのに、それ以上の理由が必要?」

「えっ? いや、そういうことじゃなくて。ただ、理解したいのよ……母さんを」

 理解。一体どういう意味なんだろう。 

 なんだか、さっきから彼女の反応が遅くなってきているように感じた。もしかしたら、肉体的な限界が近づいているのかもしれない。

「私の寿命が尽きるのが先か……あるいは……双対ブラックホールの蒸発が先かの、勝負だったの」

 まだ冴えた頭で、彼女もそれを理解しているようだった。

 死が近づいている。暗闇の向こうに行ってしまうまであと僅か。私がカリンに目を合わせると彼女もすべてを了解したようにこくりと頷いた。

 ――もう時間がない。

「母さんもうわかったから。量子重力理論とか賞とかどうでもいいよ! 今は、ただ、生きてて」

 急いで部屋を後にする。

 私がここに来た意味はなんだ。今日まで生きてきた、意味。

 この世に生まれてきた意味。

 理解?

 違う。

 両手を広げた。グーパーしてみる。

 きっと、ぜったい私にできることがある。

 すぐメルボルンに電話する。2コールでミカが出る。

『ついにやりますかァ』

『無駄口はあと』

『フハハ。もう準備できてるって』

 さすが!

 私が地下のサーバールームに入ってモニターで確認する頃には、指定の量子テレポータに我が社自慢の高純度魔法状態がたっぷりと配信されていた。ああまじでサンキュ。

『アルゴンヌとバークレーの横流しだからな。バレたらあとでドゲザでもなんでもしておけよ』

 いいね。やってやろうじゃん。

 ここからは私の腕の見せ所だ。

 量子データの復号には双対ブラックホールから出てくるホーキング放射をできる限りたくさん集めておく必要がある。それは研究所の地下にある量子サーバーに厳重に保管されているようだった。

 ラックの上に置き去りになっていた母の研究ノートをめくる。

 双対ブラックホールはトポロジカル超伝導体チップ上にピンどめされていて、チップとモノリシック積層された超伝導回路がホーキング放射を回収しているようだった。この効率でいくと、復元に十分な量子ビットが貯まるのには――20年ほど。そういうことか。

「ブラックホールとの寿命競争の正体はこれか……」

 ため息をついてる暇はない。端末から量子コンピュータにアクセス。プログラムを準備する。思ってたよりもセットアップ条件が厳しい。

『ねぇ、位相推定の精度を2桁上げらんないかな? あとグローバー反復ももう2、3回追加』

 キーボードを叩きながらインカムでミカを呼ぶ。

『おいおい、コンパイラがぶっ飛ぶぞ!?』

『なんとかしてよ、ハミルトニアンエンジニアでしょ』

『こんなときだけ……ああ、それだ! それだよクロエ!』

『何? こんなときにまたスラング?』

『ちがう。ブラックホールがハールランダムのときのコンパイル最適化! お前の博士論文だろ』

『うあああ!』

 すっかり忘れてた。

 やっぱ私、今日この日のために生まれたんだ、きっと。

「ていっ」

 最適化サブルーチンを走らせる。間髪入れず、ホーキング放射が入った量子メモリのアドレスを指定し復元プログラムを実行――を目前に、エンターキーに載せた小指が震える。

「くっ」

 魔法状態は計算終了までもつだろうか。

 背筋に冷たい汗。

 怖い。

 量子データの復元失敗は、そのままデータの破壊を意味する。

『クロエ、どうした?』

 ミカの声。私は瞳を閉じる。

 暗闇。

 ぱちんと両手で頬を張る。大丈夫。いつもどおり。

「母さん。待ってて」

 震えは止まらない。

 でも深呼吸。

 母さんの大事なデータだから怖いんだ。それは認めるしかない。

「データを返して! お願い!」

 復元データの量子テレポーテーションが完了したのは、それから30分後だった。


 部屋に戻ったとき、母はすでに事切れていた。

「クロエ、クロエぇぇぇっ」

 カリンは私のぶんまで泣いてくれていた。

 どうしようもなかったよ。カリンのせいじゃないよ。何度言っても彼女はもっと早く連れてきていればと自らを責めた。

 これを、とカリンが包みを出す。母から預かったらしい。

「私に?」

 こくりと頷いたのを確認し、すぐに開けてみる。中から手編みのマフラーと手紙が出てきた。手が動くうちに編んだとすぐにわかった。編み目のゆらぎ。柔らかな模様。

 手紙には生前の母の振る舞いを学習させたという量子ニューラルネットワークのデータの在り処が書かれていた。

「またブラックホール……。ここから、自分で取り出せってこと?」

 私を捨てた理由も、父の事故も、量子重力理論の読み解き方もぜんぶ闇の中。ブラックホールをよろしく。そう言った気がして母さんを見た。


 10月の最初の火曜日に授賞者が発表された。量子重力理論の構築と物理法則の理解の定義更新に対する貢献で2名の物理学者が選ばれた。通常3名まで同時に受賞できる賞が2名のみ。残る1席は母のために空けておいてくれたのかもしれない。そう思ったら涙が止まらなくなった。

 メルボルンは初夏を迎えようとしていたけれど、私はマフラーを手放せずにいた。

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ブラックホールをよろしく 嶌田あき @haru-natsu-aki-fuyu

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