ブラックホールをよろしく

嶌田あき

 たくさんの複素数と虹色の球が並ぶモニターにデコピンいっぱつ。それから、大きなため息をひとつ吐いた。

 通話オフをクリック。後から心配そうに覗き込む同僚のミカを見上げた。

「どうした?」

「トーキョーの量子コンピュータセンタからクレーム」

「またかい?」

「そう。今月これで4回目」

 私の言葉に、彼はわざとらしく肩をすくめた。

「主訴は?」

「魔法状態の純度」

「T状態?」

「うん。Yも怪しいって」

 私が眉間にしわを寄せていると、彼はまあ落ち着いてカパでも飲めとマグカップをぐいと眼前に出してきた。ニセモノっぽいスラングについ笑っちゃう。サンキュ。受け取って窓の外のメルボルンの町並みを眺めた。

 気を取り直して最初から考え直す。

 初期状態は悪くないし、3回の蒸留プロセスも問題ない。物理層のキャリブレーションは先週実施済みだ。私のコードに手落ちはない。

「世界中に同じのを提供してて、なんでここだけ?」

 やっぱ解せない。どんとコンソールを叩く音にミカは少しも動じず、いつものようにモニターの数値を一つずつ確認していった。

「日本の客は品質にうるさいからね」

 彼は腕利きの量子エンジニアだ。私は物理屋くずれの量子プログラマ。2人で立ち上げたスタートアップで、世界中の量子コンピュータに魔法状態を配信している。これはある種の計算資源で、うちのは超弦理論の計算にも耐えられる高品質の状態がウリだ。量子データの完全消去に復元、量子フォレンジックまで、量子データ絡みの汚れ仕事も断らない。

「場所はチバシティ?」

「それトーキョーじゃないって。えっと……このIDはワコーね」

「それもトーキョーじゃないだろ?」

「かー、これだから弦理論屋は細かくて困るわー」

「わはは。元、な。今はハミルトニアンエンジニアで売ってるんで」

 そこんとこヨロシクなんて笑いつつもミカは手を動かし、さくっと追加の蒸留を実行。クレーム対応は一件落着、と言わんばかりに伸びをした。

 お決まりのつじつま合わせ。不満しかない。だってまだこっちの瑕疵と決まったわけじゃない。相手の量子テレポータの実装バグが怪しい。

「んー。ちょっと外すよ。あと、よろしく」

 考え事なら、シャワーに限る。意気揚々と席を離れようとする私を、彼が驚いた顔で引き止めた。

「え、クロエ。これから来客だろ?」

「何それ。また新しいスラング?」

「違う、あれだよ。スウェーデンの――」


 王立科学アカデミー、カリン・スヴェンソン。差し出された名刺に書かれた名前を3往復ほど眺める。

「ついに私の番がきたか!」

「それはないだろ」

 私たちの軽口にカリンはピクリとも反応せず、冷たい顔。こっちはアイスブレイクのつもりなのに、全然だめ。この女、雪女か何かなの?

 プラチナブロンドの長い髪に青い瞳。じっと話しはじめるタイミングを窺っているようにも見えた。

 ミカが「今どき紙の名刺? フェイクかも」なんて耳打ちしてきたが、私は案外こういうのこそ信頼できると思った。根拠はないけど。

「まさかのミカかぁ」

「違います」

 とうとうカリンが声をあげた。

「物理学の危機です」

 長い髪を耳にかけ、自信まんまんの目で言い放つ彼女。私はコホンと咳払いをひとつして微笑み返した。

「ただの依頼ってわけじゃなさそうね」

 依頼は、とある賞の選考に関することだった。カリンは初手から「情報を漏らすと逮捕される可能性もある」なんて釘を刺してきた。涼しい顔してまたきついことを。やっぱ雪女だ。私もミカも完全に凍りついてしまった。

 選考プロセスは約3千通の推薦用紙を送るところから始まるという。カリンによれば、宛先は王立アカデミーの科学者全員に加え、過去の受賞者、北欧諸国のすべての終身テニュア教授、そして世界から選ばれたトップレベル物理学者とのこと。

 それから推薦書の束を秘書官が〈厚い本〉にして8名の委員で精査する。なかなかのアナログだ。その仕事を最初に行った人間かどうか、研究成果は賞に値するほどの質か、授与は3人以下に収まるかなど、さまざまな観点で評価が行われる。カリンは正確な人数を口にしなかったが、すでに20名ほどまで絞られているようだ。

「噂どおり、お忍びでくるのね」

「ええ。他にご質問は?」

「……この先のプロセスについて教えてもらえる?」

 彼女は目を伏せて少しだけ考えるような仕草をした。長いまつげを眺めていると、青い瞳がふたたび私を見つめた。

「もちろん。折角なのでお答えします」

 最終的な授賞者を選ぶ議論の土台となるのがこの調査だという。9月には委員会から最終的な推薦レポートが王立アカデミーに提出される。私たちの調査対象の研究者が受賞してもしなくても、いずれにせよこの調査が根拠となる。すわ、重責だ。気後れしてきた。

「こういうの、アカデミーの専門家で調べるんじゃないのか?」

 ミカは、まさに私が尋ねたかった質問を口にした。アカデミーとは無縁の私たちに極秘の依頼。理解に苦しむ。

「通常は。ですが……実は視察を断られてしまいました」

「は?」

「受け入れの条件なんです。あなたを連れてくるというのが」

 カリンの2つの瞳が私をじっとみつめた。

 何のことかわからず、ミカと目をぱちぱち見合わせた。候補になるような高名な物理学者に指名される覚えはない。

「あーあ。クロエ、一体何やらかした?」

 ミカに問い詰められ、思わず胸に手を当て考えてみる――が、なにも思い当たらない。当然でしょ。

 ひょっとすると内容が高度で、それで量子ギークの間ではそれなりに名の通ってる私に白羽の矢が立った、的な? うん。そうだ、きっとそうに違いない。王立アカデミー見る目あるわー。

「私、困ってる人の依頼は断らない主義なんで、自信ないけど受けます。あなたも、それから、その候補者さんも困ってるんでしょ?」

 奇妙すぎるけど、まぁ賞にノミネートされるような物理学者なんて大抵どこか風変わりなものだろう。私も元・物理屋の端くれ。分からないでもない。

「あ、ありがとうございます」

 カリンはようやく緊張から解放されたという顔でふにゃりと笑った。えくぼができて、さっきまでよりもだいぶ幼い印象。融ける雪女。かわいいぞ。彼女は、もしここで私がいい顔をしなかったらドゲザで誠意を示すつもりだったと、あとで仲良くなってから聞いた。

「では、こちらをご確認ください」

 カリンは鞄からタブレットを取り出し、机の上に置いた。

「20年ほど前にフィジカルレビュー誌に投稿され一旦は掲載。その2ヶ月後に著者都合で撤回されています。こちらはアーカイヴに残っていた査読前原稿プレプリントから抜粋したものです」

 そっと受け取ってページをめくる。論文の要約といくつかの図、実験結果を説明する数式とニューラルネットワークの構造図。メインテーマは、トポロジカル超伝導体を利用した量子重力の研究、かな。最終ページには候補者のプロフィールが顔写真とともに掲載されていた。

「あ」

 そこで、すべて腑に落ちた。

 ずれたメガネをくいっと人差し指で押し戻すと、自然に「まいったなァ……」という声が漏れてしまった。

「もう20年以上会ってないんだけどな……」


 私は母に捨てられた。

 実験中の事故で父が早逝し、母は女手ひとつで私を育ててくれた。編み物が得意で、いつか教わろうと思っていたのに、そのいつかは永遠に来なかった。理解したのは7歳の頃だ。理由は今もよく分からない。新たに男ができて私が邪魔になったとも、研究のためとも教えられた。とにかく自分勝手。私は祖父母に引き取られた。

 母と過ごした日々のことはよく覚えていない。否。思い出したくもないと心の闇に葬ったのだ。以来私はブラックホールみたいに何でも呑み込んでくれる闇を、心の中に飼いつづけた。母との思い出はすべてそこにぶちこんだ。外からは私の黒い部分は見えない。

 トーキョー行きの便のチェックインをしながら、わくわくしている自分に気づいた。今更むこうから声をかけてくるなんて一体どういう風の吹き回しなんだろう。母に会いたい気持ちが、まだ自分に残っていたことに驚く。不安にもなった。

「一体、何なの……」

 母の撤回論文を何度も読みなおす。これが世紀の大発見か大ボラかと騒がれてると知ったのはつい最近だ。物理学の長年の夢だった量子重力理論の実験検証。ブラックホールと等価な現象を超伝導体のチップ上で再現してみせた。量子と重力で編まれた時空をていねいにほぐし、トポロジカル量子論に編みなおす、そんな研究。どこか母らしい。行き詰った物理学に光をもたらしたのが光さえ逃れられないブラックホールだったのはなんとも皮肉だ。カリンは「科学史の妙」と評した。

 捨て子という黒い傷を誰にも知られぬように私は光を避けて生きてきた。それが何の因果か、いつしか私は母と同じ物理学者の道を志していた。ブラックホール内の量子データを復元するアルゴリズムの研究で博士号をとり、巡り巡って今はこうして量子プログラマをしている。この仕事はすごく気に入ってる。いまも物理はすきだけど、学者に戻るつもりはない。母にどんな顔をして会えばいいか分からないから。なるべくなら再会する確率が低いほうがいい。

 なのに、なぜ――。

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