ミルクティー色の祝福、或いは……

豚園

遅くなんてないよ

「おかえりパパ!」

「わっ、危ないよ葵。ただいま」

 くりくりとした可愛い瞳を輝かせた葵に飛び付かれ、危うく玄関の段差から落っこちるところだった。

 妻と同じミルクティー色をした葵の髪を撫でてやると、幼気な娘は満足そうに目を細める。

 奥から漂ってくる美味しそうな匂いは、妻が作る夕飯だろう。

 何の問題もない仲良しな家族。

 でもそれは、俺が求めていたモノではなかった。


 リビングのソファで一息ついていると、葵がホットミルクティーを持ってきてくれた。

「パパおしごとおつかれぇ。あおいのいろの、おちゃあげるね!」

「ありがとう」

 仕事帰りの父親にインスタントミルクティーを振る舞うことが娘の中で大ブーム中だ。毎日ミルクティーを飲んでる父親を見て「パパのおちゃ、あおいのかみのいろだ!」と大喜びした娘がこのサービスを始めてから一ヶ月ほど経った。最初こそおいしくできてたけど、ここ数日は慣れからくる油断か、色のついた白湯と化したモノが提供されてる。どう考えてもお湯の入れすぎだ。

 とはいえ、これがミルクティーである以上絶対に飲み干すと心に決めているので、ぐっとそのすべてを腹の中に入れていく。


 娘には悪いけど、葵の色だからミルクティーを飲んでるわけではない。

 この甘いお茶の優しい色は、俺の大切な友人――須藤渚の色だから。だから飲んでる。

 ねえ渚。君と同じ色だからってうまくはいかないね。

 ねえ渚。君より美しいものなんて、この世界にはなさそうだ。

 会いたいよ。

 耳を澄ますと家の外から鈴虫の合唱が聞こえてくる。もうすっかり秋だ。

 君といた日々がどんどん遠くなっていく。だからこそ、今日こそ、この生活と決別しないと。

 俺は足元に置いていた仕事鞄を手に取り、ぎゅっと抱き締めた。


 ※ ※ ※


 俺が大学生なりたてだった春のこと。

「ここ、空いてるなら座っていいか?」

 教室の隅のほうにひとり縮こまって座っていた俺は突然降ってきた声に驚き、ビクビクしながらその主を見上げた。


 美しい、としか表現しようのない男だった。

 

 全体的に色素が薄めなのか、肌は透き通るように白く、髪と瞳はミルクティー色をしている。細身で中性的な印象だが、背丈は175センチある俺よりも高い。

 ゆるっとした白いケーブルニットに黒のスキニージーンズというシンプルな装いがもともとの素材の良さを際立たせていた。

「無視すんなら勝手に座るけど」

 くく、と喉の奥で笑いながら、男が俺の隣の椅子を引いて座る。壊れ物のような儚い雰囲気とは似つかわしくないその強引な態度に、俺は思わずぼうっと彼の姿を見つめてしまう。

 そんな俺の様子に気がついたその男は、机に頬杖をついてニッと薄い唇を吊り上げた。

「見惚れた?」

「エッ!? いや、その……」

 図星を突かれて視線を泳がし、しどろもどろになった俺を見て、ガラス細工のように美しい青年は腹を抱えてゲラゲラと豪快に笑い出す。

「そんなに焦るなよ。オレ、きれーだもんな。当然当然」


 なんだコイツ。


 ここまでひぃひぃ笑われ続けるのは俺としても気分が悪い。

「そんなに笑うなら座らせませんけど」

 思ったより低い声が出た。やってしまったと少し思ったが、初対面の相手だし、逆に遠慮はいらないだろう。嫌われたらそれまででいい。

「ああ、ごめんごめん。あんたも一年?」

 俺は頷く。男は笑いを落ち着かせるために深呼吸してから、右手を差し出してきた。

「んじゃ同学年だ。オレ、須藤渚。これからよろしく」

「……家入翠です」

 握った渚の手は温かく、ああ、彫刻じゃなくてちゃんと生きた人間なんだなぁ、なんて当たり前なことを考えたりして。

 こうして俺と渚は出会った。

 

 ※ ※ ※


 微妙な出会い方だったにも関わらず、渚との縁は四年生になっても続いていた。

 ふたりとも地方出身で日本文学好き、ストレートで進学した同い年同士で話が合ったことも大きい。


 二人とも三限が空きだったある水曜日。

 文学部がよく使う棟の屋上には芝生がある。そこで日向ぼっこがしたいと主張する渚に連れられ向かうと、珍しいことに人っ子一人もいなかった。

「ラッキー!」

 芝生の専有に大喜びした渚は助走をつけ、まるで布団に飛び込むかのように思い切り芝生にダイブした。案の定、腹を強かに打ち付けたようで、前方からうめき声が聞こえてくる。俺はそんな子供じみた行動にため息をつきながら、芝生に転がっている渚の隣に腰を下ろした。


「なんだあれ」

 俺が話している最中、渚が突然立ち上がり、そのまま屋上の隅の方へと走り出した。

 俺の話聞いてた? と少し呆れたが、最早いつものことなので慣れっこだ。

 目的地に到着した渚は「ひぎゃ」と奇妙な悲鳴を上げ、俺に向かって声を張り上げる。

「鳥が死んでる」

「ええ……?」

 たしかに、雀のヒナらしき小鳥が血を流して倒れていた。生きているそれより少し身体が萎んだ、魂の抜けた肉の塊。

「カラスか猫にでもやられたんじゃない?」

「かわいそうだな……」

 沈痛な面持ちの渚を見て、そういえば彼は鳥が好きだったと思い出した。実家でセキセイインコを飼っていたと、以前言っていたような。

「とはいえ、俺たちにはどうしようもないよ。それに動物の死体にあんまり同情しすぎないほうがいい。霊に憑かれるっていうし」

 俺の言葉を聞いた渚の綺麗な細眉が不機嫌そうに寄せられていく。

「またそうやって何もしないつもりか?」

 しかし、その表情はすぐに無邪気な笑顔へと変わっていった。

 渚は素早く自分の鞄から黄色いランチクロスを引き出し、

「最大限弔ってやる。鳥に憑かれるなら本望だからな!」

 素手でガシッと死体を掴み上げ、ランチクロスにくるんだと思うと、大股歩きで屋上から出ていってしまった。

「ええっ!? ちょ、渚。待ちなよ、食べ物包むヤツに死体入れるのは良くないって」

「うるさい。やると決めたんだからやる」

 すぐに追いかけたつもりだったけど、背が高いうえに脚も長い渚の早歩きにはなかなか追い付けない。

「おいってばー」

 螺旋状になっている外階段の手すりから下を覗き込むと、ちょうど一階下の踊り場を歩いている渚を発見した。

「やるって何を?」

「んー?」

 ようやく立ち止まってくれた。背が高い渚が俺を見上げている姿は少し新鮮に感じる。

 骸入りランチクロスを大切そうに両手で包み込んだ渚は、悪戯っぽく目を細めて囁いた。

「お墓づくり」

「大学の敷地内に? 勝手にそんなの埋めたら迷惑かかるから止めたほうが……」

「そんなことオレには関係ない」

 渚はそう言って底抜けに無垢な表情でくしゃっと笑った。

 瞬間、渚からミルクティー色の後光が差し、ぱあっと俺の世界を照らした。辺りが彼の淡く純粋な色に染まっていく。何度見ても、この世で一番美しい光景だ。

 その眩しさに立ちつくしてしまった俺は、小さくなっていく渚の背中を見送った。


 幼い頃、俺は猫が好きだった。

 ショッピングモールに行く度にペットショップへ行こうと親を引っ張っては、猫のケージの前に張り付いていた。


 母親と買い物に出掛けたある日のこと。

 俺が日課の猫ちゃんウォッチングに勤しんでいると、隣にいた母親が「猫ちゃん欲しいの?」と聞いてきた。

 ついに来た!

 俺はこくこくと何度も首を大きく縦に振った。

 そんな俺を見た母親は、困ったように微笑みながら口を開いた。

「猫ちゃんにはお金がかかるから、翠が飼いたいって言ったら、お母さん困っちゃうなあ」


 いい子だから、ね?


 俺はその日から、猫を見に行くのも、好きだと言うのも止めた。


 きっかけなんて、こんなちっぽけな出来事で十分。

 その出来事以降、俺はすっかり自己主張することが怖くなってしまった。

 迷惑がられたくなくて高校の友人に自分から「会いたい」とも言えない。このままだと縁が切れてしまうと頭では理解してるけど、「会いたい」というメッセージを見た友人が、迷惑そうな顔をしていたら? 

 小説家になりたいという想いが小学生の頃からずっとあるのに、才能がないことがわかるのが怖くて、結局一作も書いたことがない。

 相手に迷惑をかけたら嫌だから。まだ時間がなくて書いてないだけだから。そういう言い訳を積み重ねて自分の気持ちから逃げ続け、勝手に諦めた人間。それが俺。


 だからこそ、自分の思うように発言し、行動できる渚が俺には美しく見えるんだ。

 渚と一緒にいると、さっきみたいに綺麗な世界をお裾分けしてもらえる。

 俺もいつか、そっちの世界に踏み出す勇気がもてるかな。

 

 外階段を下りきったすぐ横に渚はいた。

 校舎縁に設置されている花壇のひとつに真新しい土饅頭ができている。花壇の花を摘んではその膨らみを飾り付けている渚の横顔は満足げだ。

 自分のしたいことをやりきった渚の姿はやっぱり群を抜いて美しくて。


 彼との絆だけは手放したくないと心から思った。


「ねえ、俺、じいさんになっても渚と一緒に居たいよ」

 気がついたときにはもう既に、まるで口から漏れ出たかのように呟いていた。直後にハッとする。やってしまった。困ったように笑う母親の顔がフラッシュバックする。だめだ、渚の顔、見れない。

「なんだよ急に」

 その声に意を決して視線を上げると、

「オレだってそう思ってるよ」

 渚はすごく嬉しそうにはにかんでいた。

 また、ミルクティー色の世界がキラキラと輝き始めた。でも今回は、その美しい世界の中心にいるのは俺のほうだ。


 ああ、そうか。俺はいま、ようやく一歩踏み出せたのか。


 俺が惚けたように黙り込んでしまったため、渚と俺の間に沈黙が流れた。渚はだんだんと居心地が悪くなってきたらしく、ぷい、とそっぽを向いてしまう。

 渚の白い耳が赤く染まっていくのがミルクティー色の髪の毛の中にちらりと見えた。

「え? もしかして照れてる?」

 珍しく静かになった渚の様子が面白くて、少し意地悪したくなってきた。

「顔見せてよ。渚ご自慢のお綺麗な顔面、いま見たいなぁ~」

「やだ! 絶対に嫌!」

 去ろうとする渚の前方を塞ぐ。俺のしつこさに渚も意地になってきたのか、段々と本気走りで逃げ始めた。

「何あんた、しつこい!」

「そう?」

 久しぶりの高揚感に、俺は素直に身を委ねた。


 楽しい追いかけっこで疲れ果てた俺たちは、大学の中庭に置いてあるベンチにだらしなく座り込んでいた。

「やっぱ友達は大切にしないとなぁ」

「……マジで急にどうした?」

 しみじみと呟いた俺に向かって、渚が怪訝な視線を浴びせかけてくる。その目には散々追い回された恨みも少し滲んでいた。

「いや、久々に高校の友達に連絡とってみようかなって。もう遅いかもしれないけどさ」

 声色に少し、不安が滲んでしまったのが自分でもわかった。

 渚にもそれは伝わったようで、

「遅くなんてないよ」

 そう言って綺麗に微笑んでくれた。


 図書館に行くという渚と別れ、ひとり残された俺は空いてる教室に入った。

「……さてと」

 ズボンのポケットからスマホを出し、トークアプリを開く。目当ての連絡先は数年分の履歴に埋もれてしまっていて、全然見当たらない。

「あった」

 高校の部活の同期グループチャット。ようやく見つかった。

 まだ少し怖いけど、今ならできる気がする。震える指を動かし、俺はメッセージを打ち始めた。


 そんななんでもない日の3日後、渚は死んでしまった。


 ※ ※ ※

 

 地方版にも載るかわからないような地味な事故だった。交差点を左折しようとした車が信号待ちをしていた渚を巻き込んでしまったという、それだけの事故。


 親友と世界一美しいものを同時に失ったあの日以降、俺は毎日ミルクティーを飲んでいる。自分の腹の中を渚の色で満たしておけば、いつか渚と会えるかもしれないから。


 ※ ※ ※


「みーくん今日もお疲れ様」

 リビングに置いた大きいソファ。隣に座った妻がグラスにワインを注いでいく。

 葵が寝たあと、夫婦で晩酌をしながら今日あったことを話すのが俺たちの日課になっていた。

 ワインが大好きな妻がグラスに入った赤い液体をぐいっと煽った。その動きで、妻のミルクティー色の髪の毛がぱらぱらと宙を舞う。

 ふたりの顔が少し赤くなってきた頃、酒の勢いを借りるかのように妻が口を開いた。

「今日聞いたんだけどね。浅野さんが……あ、浅野さん、わかる?」

「ママ友だよね?」

「そう。浅野さん、ネイルサロンはじめたんだって」

「へえ。すごいね」

「うらやましいなぁー」

 妻のミルクティー色をした瞳に嫉妬が浮かんでいる。

 彼女もネイルサロンを開くのが夢だって、昔からよく口にしているけど。

「エリもそろそろやってみる? 俺も協力するよ」

「そうねぇ、でも……」

 今まで一度も、お店を開くやり方を調べている姿は見たことがない。

「葵が中学生になってからなぁ。小学校のあれこれ、思ったより大変で」

 その前は葵が小学校に上がったらと言っていた。その前は子供を産んだらと言っていた。その前はもう少し貯金ができたらと言っていた。

「だから、今はできなさそう」

 たぶん一生やらないよ。

「そっか」

 結局、俺とこいつは似た者同士だった。自分の気持ちから逃げ回り、諦める口実を求めている側の人間。

 ミルクティー色をした人なら、渚のように自分に素直に生きてると、あの綺麗な世界を作る素質があると思って、こいつと結婚したのにな。所詮は色だけか。失敗した。


 ハイペースで飲み続けた妻は早々に寝室に引っ込んでいった。俺は自分で作ったミルクティーをお供に、余ったつまみを片付けることにする。

 無意識に、ソファの横に立て掛けていた仕事鞄に視線が向かう。中には俺が取ってきた離婚届が入れっぱなしになっていた。今夜も渡せなかった。

 妻が俺側の世界の人間であるとわかった以上、あの美しい世界を見せてくれる可能性はなくなった。この生活を続ける意味はもうない。

 はやくケリをつけなければ。そう思うたびに毎回、葵の笑顔が脳裏に浮かぶ。

 いやダメだ。離婚なんて葵がもっと大きくなったらにしよう。葵が悲しむ。

 俺は結局、また言い訳して現状維持?

 でも、自分の気持ちだけで行動するにはもう遅い――


『遅くなんてないよ』


 後ろから伸びてきた白いケーブルニットの腕が俺を抱き締めた、ような気がした。

 耳元で聞こえた囁き声に導かれるかのように、俺は鞄から離婚届を引っ張り出し、ふらふらと寝室へ向かった。


 ああ、ずっとミルクティーを飲んできてよかった。

 やっと君の声が聞こえた。


 自分が求め続けているミルクティー色の残光。それが祝福なのか呪いなのかなんて、俺にはもう、どうでもいいことだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ミルクティー色の祝福、或いは…… 豚園 @butano-sono

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ