双頭の梟
鹽夜亮
双頭の梟
丑三つ時。森の近い我が家は、静寂とは無縁だ。鳥の声、鹿の声、猪の鼻音…何やら正体のわからぬ音たちの群れは、途切れ途切れされど終わることなく、鼓膜を打つ。
憂鬱な梅雨が終わり、夏が到来したといえど、自然の胸中に抱かれている限り、深夜は涼しい。一抹の緊張感と安堵感に包まれながら、煙草に火をつける。ぼわりと紫煙が膨らみ、何処かへ薄れていく。森の風に、川から吹き上がるほのかな涼しさの中に、吐き出した紫煙が異物として溶け合っていく。…
目を瞑っていた私の耳に、聞き慣れない音が入った。やんわりと上瞼を開け、その主を探す。目をやった先にあるのは真っ暗な森だ。いや、厳密には家の裏山、と言うべきだろうか。そこから確かに、どこか不気味な、それでいてしかと存在を誇示する声が響いている。
人間の目が暗闇に慣れるのは遅い。生物としての退化を嗤いながら、それを待つ。
少しずつ暗夜に慣れ始めた私の目に飛び込んできたのは、何やら大きな鳥類だった。鷲だろうか?鷹だろうか?…いや、彼らの声は何度も聞いている。あの声の主とは違うだろう。じわじわと、視界が明瞭になっていく。
ああ、梟だ。そう認識した時、合点がいった。いくら自然に近い我が家といえど、梟が現れることは珍しい。稀な来訪者に気をよくした私は、頬をいくばくか緩ませながら、さらに目を凝らした。梟は森の少し外れにある大きな栗の木の、枝に静かに佇んでいた。
目が慣れるにつれ、私はどうやらその梟の容姿に違和感を覚え始めた。何とはいえない。ただ、何かが異なっている。それは視覚の捉えた情報なのか、それとも第六感とでも言われる何かが捉えたものなのか、判断がつかなかった。若干の不気味さを感じながら、目を離せずに居る私へ、梟はほんの少しだけ近づいた。と言っても、栗の木の枝から枝へ、一瞬飛んだだけの話である。その瞬間、私の覚えた違和感の正体ははっきりと私の脳に認識された。
彼には顔が二つあった。厳密に言えば首の根本から分かれているのではなく、顔の下あたりから二股に別々の顔が伸びている。その二つが、栗の木から私を見下ろしている。騒がしいはずの森が、山が、今は静まり返っているかのように思えた。不思議と先ほどまで感じていた不気味さは消え失せた。人は未知なものに不安を、恐怖を感じる。確かに、この梟は未知であり、正体もわからぬ謎のものであったが、それは私の眼の前に確かに居た。その事実が私を安堵させるには十分だった。私は私の目に映るものを、感じたものだけを信ずる。故に、私はこの双頭の梟を信じた。
梟と目が合う。敵意は感じなかった。ただ、見下ろされている、と再認識しただけだった。四つの目が私に向けられたまま、静かに、動かずに、ジッとしている。この瞬間の刹那、私が感じているのは畏怖だった。それは異形への恐怖でも、未知への不安でもなく、例えるならばそう…信仰してもいない神にでも出会ったかのような畏怖であった。私は煙草を一吹かしして、目を伏せるように首を垂れた。挨拶のような、神社の本殿へ向けた参拝のような、曖昧な心持ちだった。それを梟は微動だにせず、ただ見ていた。
山風が一瞬吹き荒れ、木々を揺らした。紫煙が流れていく。それでも梟は、ただそこに佇んでいる。動じることも、何もなく、まるで風など意に介さないかのように。
森の賢者、と梟を呼ぶことがあるが、それならばこの梟はなんと呼べば良いのだろう?私は新たな煙草に火をつけながら思った。
奇形、異形、妖、…神?いや、違う。
双頭の梟は、双頭の梟である。私が彼について知っているのは、それだけであるが故に。
「何故、こんなところにいるのですか」
不思議と言葉が口から溢れた。当たり前のように梟 彼から返答はない。ただ、視線だけが変わらず注がれている。
「ここは、俗世です。俗世に下るようなものではないのではないですか、あなたは」
返答はない。代わりに一瞬バサリと、大きな翼が広げられた。それが何を意味するかは、私にはわからない。
「…それともあなたも、居場所から追放されてしまったのですか」
彼はただ見下ろしている。その瞳に、色はない。
「………不躾でした。失礼」
あなたも、と問いかけたことに私は大きな過ちを感じた。彼は追放などされない。もしそれに近い状況にあるのだとしたら、見放しただけであろう。私と彼は、違う。
煙草をゆったり吹かす私を、ジッと彼は見つめている。私は時たま視線を外しながらも、意識は彼だけに向けられていた。私は彼と私を重ねようとしたのだろうか。なんと愚かなことだろう。なんと、失礼なことだろう。私は俗世に生きるただの凡人に過ぎない。たとえそれが爪弾きに…いや、その俗世から歩み去ったとしても、私は彼のように孤高でも崇高でもない。
「何故、私などを見ているのですか。私は、見ての通り、落ちぶれたただの人ですよ」
彼から返答はない。代わりにまた翼が広げられた。それは厳かな動作だった。私はそこに確かな、品性を感じた。美しさを感じた。
それ以降、私が彼に話しかけることはなかった。三本目の煙草が尽きる時、彼は私の頭上を悠々と飛び去っていった。その姿もまた、実に厳かだった。
『君がいつ帰って来るか、見物に来たのだよ』
脳裏に声が写った。
ああ、これが本当に彼の発した言葉だったらどれほど幸福だろう。…
そんなはずもないと、知りながら。
双頭の梟 鹽夜亮 @yuu1201
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