逆光の樹影、ガラスのリノウ

尾八原ジュージ

噴水広場にて

「ね、これをリノウというんです」

 そう言ってその日、渡り鳥は私に美しいものを見せてくれた。それは小さくて、透き通ってとても薄く、でもセロファンとは違う。たとえるなら、まるでガラスを紙にしたもののように見えた。

「きれいでしょう。あなたにお見せできてよかった」

 そう言うと渡り鳥は、フラミンゴのような、メンフクロウのような不思議な顔で、ゆっくりとうなずいた。


・ ・ ・ ・ ・ ・


 大きな鳥だった。その真っ白な羽根を広げると私の身長ほどもあった。

 夏、私たちの街にやってきた渡り鳥は、市役所の前の噴水広場に住み着いた。渡り鳥のたぐいをむりやり追い払ったりするのは条例で禁じられており、それをいいことに、ここでのんびりと夏を越すつもりらしかった。

 突然現れた巨大鳥に面食らった市民からクレームがきたりもしたが、幸い渡り鳥は大人しくて賢い鳥だった。子供が落とした帽子をひろってやったり、羽根をはたはたと動かして赤ん坊をあやしたりしたので、まもなく噴水広場のマスコット的な存在になった。わざわざ会いに来る人も多かった。

 下っ端職員の私は、時々渡り鳥の様子を見に行くように仰せつかっていた。追い出すことはできないが、噴水広場で遊んでいる市民に何かあってもいけない。お前が時々見張れと命じられたときはハラハラしたものだ。

 あんな大きな鳥が、嘴でつついてきたりしたらどうしよう? どきどきしながら初めて「こんにちは」と声をかけたとき、私は変な汗をかいていたと思う。

「ご心配なく。わたし、人間と共存するのはわりかし得意です」

 みっしりと緑葉をつけた桜並木の下で、渡り鳥は自信ありげにそう言った。私は「はぁ」とうなずくよりほかなく、しかし渡り鳥の自己申告はどうやら正しかった。

 その夏、噴水広場にはめったに虫が出なかった。


 渡り鳥は日本語を流暢に話したが、彼ら特有のボキャブラリーというか、そういうものも持ち合わせていた。そのひとつが「リノウ」だった。

「わたしのようなものの嘴は、何年かに一度ぐっと大きくなって、表面の薄皮がやぶれるんです。その皮が剥がれて空中を舞うのをリノウというのです。自分で言うのもなんですが、なかなかきれいなものですよ。お世話になっているから、あなたにお見せしたい。ここにいるうちに見せられるでしょうか」

 渡り鳥はそう言って、ほっそりした首をのんびり動かした。

 渡り鳥に会うのはひとときの娯楽だった。木漏れ日が白い翼に複雑な影絵を落とし、暑さを忘れてしまうような風が吹く。きれいな絵本を眺めているような、不思議で甘い気持ちになった。

「お世話なんて、そんな。私なんか何もしていません」

 本当に何もしていなかった。渡り鳥は自分で食料(主にパンやおにぎり、素麺など)を調達していたし、寝床も樹上にこしらえていた。私の言葉に、渡り鳥はゆっくりと首を振った。

「あなたが毎日のようにわたしとお話ししてくれるということが、わたしにとってはとてもよいことなのです」

 そんな話をした日の四時過ぎ、夕立が来た。市役所の窓から外を眺めると、渡り鳥は桜の木の下にちゃんと避難して、雨が止むのを待っていた。ときどき空に向かって顔をあげ、その顔はまるでどしゃぶりを楽しんでいるように見えた。


 渡り鳥はいつかいなくなる。渡り鳥だからだ。特に彼らのような鳥は、同じ街には二度と来ないという。

 そのことを知ってから、私は夏が終わるのが惜しくなった。むろん、時間は無情に過ぎていった。私のためにひととき止まったりはしなかった。

「八月の終わりか九月の初めには、次の場所へ行きたいと思っています」

 宣告された期限は、図鑑などで調べて「このあたりだろう」と見当をつけていたよりもずっと早かった。彼らには彼らのタイミングがあるらしく、それを邪魔することもまた条例で禁じられている。

「さびしくなります」

 私が正直にそう言うと、渡り鳥は「わたしも」と答えた。

「ずっとこの街にいればいいのに」

「でも、わたしは渡り鳥ですから。渡っていかねば」

 そう言ったあとで、渡り鳥は「さびしいですけどね」と付け加えた。どんな顔をしていたのか、逆光でよく見えなかった。

 晴れた日が続いていた。噴水広場の木々は強い陽光を浴びて、真っ黒な影をタイルの上に落としていた。私たちの影もまた、一対の影絵の人形のようだった。

 夏は長いようでいて、刻一刻と通り過ぎていった。太陽の沈む時間が少しずつ早くなっていった。


 八月三十一日の正午、お昼ご飯を買いに出ようとした私のところに、渡り鳥がわたわたと走ってきた。

「あなた、あなた、ご覧なさい。わたしの嘴、いつもと違うでしょう」

 渡り鳥の真珠色の嘴に、無数の亀裂が走っていた。私はとても驚いた。

「どうしたの!? 大丈夫? 痛くない?」

「大丈夫です。これが何年かに一度の、嘴が大きくなるタイミングなのです」

 そこに強い風が吹いた。渡り鳥の嘴から、透明のものがぱらぱらと剥がれて空中を飛んだ。無数の薄く柔らかいガラス片に似たものが、夏の陽光を反射しながら風の中で踊った。

「わあぁ」

 近くで遊んでいた小さな子どもと母親らしき女性が、同時に歓声を上げた。私の口から「きれい」という言葉が、ごく自然に漏れた。

「ね、これをリノウというんです」

 渡り鳥は自慢げに言った。「きれいでしょう。あなたにお見せできてよかった」

 そう言って、渡り鳥はゆっくりとうなずいた。

「ありがとう」

 わたしが言うと、渡り鳥は「こちらこそ、ありがとう」と返した。

「ここはとてもよいところでした。でももう発ちます。あなたに出会えてよかった」

 そう言うと、渡り鳥は大きな羽根を広げた。

 瞬間、また強い風が吹いた。まるで渡り鳥に呼ばれて吹いたかのようだった。渡り鳥は空に舞い上がり、あっという間に影となってぐんぐん遠くなる。太陽が眩しくて顔を伏せた私の前を、リノウがきらきらときらめきながら通り過ぎた。風にまかれ、木漏れ日の中を踊りながら、それもすぐに見えなくなった。

 噴水広場から渡り鳥の姿は消えた。私の業務はひとつ減り、市役所の投書箱にはしばらくの間、渡り鳥を描いた老若男女の絵が何枚も入れられるようになった。せっかくだから掲示板に貼りだしましょうということになり、私は先輩職員と一緒に、涙目になりながら、渡り鳥の絵に一枚一枚画びょうを刺して丁寧に留めていった。

 こうしてその年の夏は終わった。

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逆光の樹影、ガラスのリノウ 尾八原ジュージ @zi-yon

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