過去に生きるあなた、未来に生きるわたし

落花亭

※本作品は縦読みを推奨します

 今年の夏休みは北海道に行きたい、と彼女は言った。

 学習机の天板に飾られた地球儀に手を伸ばし「北海道はねえ、ここ!」と指を差す。ちゃんと覚えて偉いと褒めると、彼女は屈託のない笑顔を私に見せた。


「加奈、すごい?」


 自らを〈加奈〉と呼ぶ彼女は私の五つ下の妹だ。小学一年生の彼女は好奇心旺盛で、気になったことは何でも調べる。中でも世界の国々に興味を抱いたようで、誕生日のお祝いに地球儀が欲しいと親にねだったくらいだ。

 ごろごろと回すたびにはしゃぐ彼女を見て、大人になったら一緒に海外旅行に行こうなんて考えたりもしていた。


「加奈ねえ、お馬さん見たい」

「うん。お馬さん見たいね。でも、ごめんね。北海道には行けないんだ」


 言葉の温度をわずかに下げて言うと、彼女は地球儀を抱えて部屋を出て行ってしまった。こうなったら当分、ここには戻ってこない。


 二階の窓から見える茜色の空は不気味で、私の心をひどくざわつかせた。日の光で色褪せたカーテンで部屋も心も素早く覆い隠す。


「小百合……」


 振り向くと、母が部屋の前にいた。


「お母さん。いたならノックぐらいしてよ」

「ねえ、小百合。今、誰と話していたの?」

「誰って、加奈に決まっているじゃない」

「……もう、いい加減にして」

「そうだ。さっき加奈が階段を降りて行ったけど——」

「現実から目を背けないで! !」


 ——加奈は十五年前に死んだ。


 母は目に涙を浮かべ、乾燥した唇を強く噛みしめている。


 ——死んだ。加奈は死んだ。ああ、そうだ。私は強く覚えている。だって十五年前の夏休み、彼女は私のせいで死んでしまったのだから。


 ◇ ◇ ◇


 今年の夏休みは北海道に行きたい、とリビングにいる父と母に向かって彼女は言った。

 彼女を追いかけるように階段を下り、廊下から覗き込んだ私は、二人から「いつかね」と諭され「うん」と弱々しく笑う彼女を見て、何とも言えない感情に襲われた。大人の言う「いつか」はほぼ来ないことを、嫌というほど知っていたからだ。


 家庭より仕事が最優先の父は、会社からひとたび電話が入ると私たちを置いて家を空けることはざらだったし、母も仕事や私たちの学校の保護者会で忙しく、家族らしいことと言えば食卓を囲んでご飯を食べることくらいで、旅行なんて夢のまた夢のような話だった。

 だからこそ私はとっさにあの言葉を、悲劇をもたらすあの言葉を生み出してしまった。


「お姉ちゃん。北海道に行けないって。つまんない」

「お父さんもお母さんもお仕事ばかりでつまんないよね……そうだ。北海道には行けないけど、お姉ちゃんが楽しいところに連れて行ってあげる」

「ほんと? どこ?」

「それはねえ、動物園!」


 数週間前に見た新聞の折り込みチラシに、地元から三駅離れた場所に大型動物園がオープンしたことを覚えていた私は、彼女に「父と母に内緒で行こう」と提案した。

 彼女を喜ばせることが第一だったがほんの少しだけ、誰の手を借りずに目的を達成することで大人と横並びになる快感を求めていたようにも思う。

 

 そして迎えた当日。

 絶対に手を離さないで、と約束を交わし、私たちは家を出た。見慣れた住宅街を足早に過ぎる。彼女は上機嫌だった。

 駅に着き、二枚の切符を買って普通電車に飛び乗ると、彼女は空いていた座席に座ろうと私の手を強く引いた。その様子を見て、座席の隣にいたおばあちゃんがにこにこと笑っていたのが印象的だった。


 乗り換えの駅に着いた午前11時00分、事件は起こる。

 次のホームに向かっていたとき、彼女は私に「トイレ」とだけ告げ、左手を振り払い、走って行ってしまった。

 よほど我慢していたのだろう。私は行く手を阻む大人の波をかき分け、必死で彼女の背中を追った。このときの大人は皆、意地悪な悪魔のように見えた。


 近くのトイレに辿り着き、私は彼女の名前を叫ぶ。

唯一、鍵がかかっていた個室から年配女性が出てきた時、全身から血の気がすうっと引いていった感覚は今でも覚えている。

 当時の携帯電話は高校生から持つような代物で、彼女と連絡を取る手段は一切無かった。急いで窓口に行き、迷子のアナウンスをかけてもらったが、彼女が私の前に姿を現す事はなかった。


 公衆電話から両親に事情を説明し、警察に通報した一ヶ月後。

 夕方、彼女は乗り換えの駅から遠く離れた雑木林で変わり果てた姿となって発見された。

 死因は聞かされなかったが、あの父が「殺してやる。くそ野郎を加奈と同じ目に遭わせて殺してやる」と怒り狂い、母は泣き崩れていた様子から、子どもながらにとてつもなく恐ろしいことをされたのだというのは理解した。


 彼女のいない家は一瞬にして色を失い、私は笑い方を忘れ、楽しみ方を忘れ、彼女のために加害者と戦うことを決めた父と母に背くように、生きることを放棄した。

 そして、社会と断絶してから十五年が経った今も、私はこうして彼女への懺悔を続けている。


 ——私が手を離さなければこんな事にならなかった。

 ——私が連れ出さなければ。

 ——私が、私が、私が。


 私の目に映る夕焼けはいつも「お前は罰を受けなければならない」と嘲笑っている。哀れな彼女を差し置いて、私だけ幸せになってはいけないのだ。


 ◇ ◇ ◇


「加奈は死んだ。知ってる。私のせいで死んだ」

「貴女のせいじゃない。すべてあの男のせいよ」

「違う。私が連れ出さなければ起きなかったことなの。私は許されないの」

「誰に許されないと言うの? 貴女を許していないのは小百合、貴女自身よ」

「加奈だよ。加奈は私を恨んでる。ずっと、ずっと、ずっと!」


 蓋をしていた感情がどっと溢れ、涙がこぼれる。


「……小百合は、あのときに一緒にいた加奈を思い出しても、自分を恨んでいると思うの?」


 母の言葉で、あの日の出来事を思い出す。彼女は「お姉ちゃんのおかげで楽しい」と笑っていた。


「加奈は貴女の思いを汲んでいたはずよ。それに、小百合が自分自身を責めるたび、加奈は心配で天国に行けないと思うの」

「加奈が、私を心配……?」

「加奈を忘れないのは大切なことだけど、過去に囚われるのは違うと思うわ。お父さんもお母さんも、何度も昔に戻りたいと願ったことがあるけど、生きている限り、前を向かなきゃ。それが、加奈のためでもあると思うから」

「加奈のため……?」


 頷く母を見て、私は小さな声で彼女の名前を呼ぶ。返事はない。当たり前だ。さっきまでここにいた加奈は、私が作り出した幻影なのだから。


「加奈……ごめんねえ……!」


 子どもに戻ったように泣きじゃくる私を、母は優しく抱きしめた。


 ◇ ◇ ◇


 彼女が生きていたら、最後の夏休みとなるはずだった8月31日。

 私たち家族は北海道に来ていた。


 社会から遠ざかっていた私は、飛行機の搭乗手続きやホテルの予約の仕方など分からず、全て両親にやってもらい、自分自身でも残念に思うほど世間知らずとなっていた。

 運転免許もなく、高齢の父に頼る始末だ。


 ——ちゃんと自立して、出来るだけ二人を支えないと。


「ここが競走馬に会える所か」

「すごーい」


 黄緑色に染まる牧場には馬が何頭も放し飼いされていて、黙々と食事を楽しんでいた。


「……やっぱり、加奈と一緒に見たかったな」


 私の本心で車内が静まり返る。焦った私は「奥にも白い馬がいる」と話題を逸らした。途端に、開いた窓から強い風が入り込む。


「お姉ちゃん。お馬さん見れたよ。ありがとう」


 いないはずの彼女の声が聴こえ、私は「加奈」と呟く。


 ——加奈。ずっと近くで見守ってくれていたんだね。私、貴女のために前を向いて生きるから。頑張るから。


 空は私の未来を応援してくれるかのように、濁りのないきれいな青色だった。


 〈了〉

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