夏のおわりの天狗の子

いぬきつねこ

夏のおわりの天狗の子

 長野にある祖父の家にいる兄ちゃんは不思議な人だった。兄ちゃんは、俺の実の兄ではない。兄ちゃんは17歳で、いつも薄青い色の浴衣を着ていた。いつも庭に出ているのに、肌が透き通るように白かった。反対に髪は真っ黒で、癖のない髪を耳にかかるくらいの長さにしていた。兄ちゃんの名前はイソロという。

俺は本当にこの歳まで、それを本当の名前だと思い込んでいたのだが、恐らく兄ちゃんは「居候いそうろう」と言ったのだ。

 兄ちゃんに初めて会ったのは、俺が6歳の時だった。赤とんぼがたくさん飛んでいる夏の日だ。俺は母が運転する車に乗って、祖父の家に出かけた。母の車で出かけることが嬉しくて、俺は、どうして父さんが一緒じゃないのとは訊けなかった。

車は高速を下りるとどんどん山道へと入っていった。緑が濃くなる。とおせんぼうをするように、垂れ下がった木々の枝が車の視界を邪魔した。

木々が放つ土と緑の匂いが車内に入ってくる。耳をつんざくような蝉の声を、俺は初めて聞いた。

 じいちゃんの家は辺鄙なところにあった。山のふもとのパーキングに車を止め、俺と母は40分ほど山道を登った。枯葉で覆われた道には丸太が埋められていて、それが滑り止めになっている。それでも足がずるずる滑った。やがて道は石段に変わった。頭上はずっと木々に隠されていて、時折思い出したように青空が見えた。

俺はもう最後は拾った棒切れを杖のようにして上がった。息が切れ、汗がTシャツをびしょびしょにした。お母さんと何度も読んだが、母は振り向かなかった。母の服も汗で濡れて背中に張り付いていた。荒い息が前を行く母親から聞こえていた。思えば母はこの時に泣いていたのかもしれない。この夏、父が浮気をして、その浮気相手と海外旅行にでかけていたのだと知ったのは、もっとずっと後のことだ。

 石段が切れると姿を見せたのは、緑の植物に覆われた小さな畑だった。

はっとしたように蝉がまた鳴き始めた。今ならばわかる。庭には、葉生姜、茗荷、茄子などが植わっていたはずだ。

その庭に、兄ちゃんは立っていた。青い草いきれの中で、薄青い浴衣がやけに清浄だった。兄ちゃんは小さく頭を下げるとにこりと笑った。

 祖父の家はどこも木でできていた。乾いて白茶けた木の壁は、ほんのりと山の匂いがする。俺はその時、母の父親、つまりじいちゃんとは初対面だった、じいちゃんは日に焼けて、あまり皴のない人だった。若々しくて、穏やかに喋る。

じいちゃんの家には溢れんばかりの昆虫に関する本があった。それから、ばあちゃんの仏壇。遺影で笑っているばあちゃんは、母さんよりも若いくらいだった。ばあちゃんが死んだのは、母さんが産まれた時だったという。

高尾の者は早死になの。母さんは言った。だから母さんもあんたをこんなに早く産んだのに、あの男は母さんよりもっと若い女と遊んでいるんだよ。俺の肩に添えられた手が、痛いくらいに食い込んだ。

 次の日、母さんは山を下り、俺だけがじいちゃんの家に残された。じいちゃんは山に住む埋葬虫シデムシの研究家だった。机の周りには、黒い甲虫の標本が山ほどあった。どれもこれも似ていて、違いと言えば光沢があるかないかくらい。ぼってりとした黒い腹をしている。

「なあ、君、孫を山につれていってくれんか」

祖父が庭に向かって声をかけると、庭に面した縁側からひょこっと兄ちゃんが顔を覗かせた。彼は頷いて、「坊主、行くぞ」と言った。

俺は坊主なんて言われたのは初めてだったが、兄ちゃんの声があまりに透き通っていてきれいなので、その背中についていってしまった。昨日と同じ薄青色の浴衣。兄ちゃんは裸足だった。

 兄ちゃんはまるで風のように山道を進んでいく。清流に突き出した石を、踊るような足取りで飛び越える。俺が川の流れに怯えて立ち止まっていると、兄ちゃんが戻ってきて俺の手を取った。兄ちゃんの手は冷たく、そして柔らかかった。

「前を見ていて。手を離すなよ」

兄ちゃんは俺の手を引いた。足が浮いた。兄ちゃんは風だった。風のようではない。兄ちゃんは一陣の風になり、俺はその風に乗っていた。俺が怯えていたのはちっぽけで流れの緩やかな小川だった。その小川は、もっと先でざんざんと渦巻く大きな川に合流するのが見えた。滝つぼが渦を巻いている。

「あの渦の中には山女魚やまめの人魚がいる。お前は食べられてしまうだろうから、行ってはいけないよ」

兄ちゃんが、俺を抱き寄せていった。

俺たちは宙に浮かび、祖父の家がある森を見下ろしていた。

緑は暗く茂り、ここまで飛んできたトンボが俺の頬にぶつかった。

「兄ちゃんは誰?」

俺はこの人を何と呼ぼうかとしばらく考えて、兄ちゃんと口にした。

兄ちゃんは黒い目を細めた。

「僕は。天狗の子だ」

 その日、日暮れまで俺は兄ちゃんと遊び、祖父の家に帰った。

そして縁側に3人並んで西瓜を食べた。夕暮れに染まった空を、鵜が飛んでいく。

「友達になったか。よかったな」

じいちゃんは兄ちゃんと俺の頭を交互に撫でた。

「なに、あんたのことも好きさ」

兄ちゃんは西瓜の種を庭に吹き出して言った。


 その年から俺は毎年祖父の家に行った。

母は父と離婚し、翌年には俺に新しい父親ができ、その翌年には弟が産まれた。

弟は祖父の家に来ることはなかった。母はいつも俺だけを車に乗せて祖父の家に行き、夏休みの終わりに迎えに来た。

 俺は兄ちゃんと過ごした。

山を駆け巡り、沢に潜り、時に不思議なものと出会った。

大きな黒い蛇が口をきいた。

「こいつが次の家守いえもりかい?」

兄ちゃんは「違う」と言った。

「家守の孫だ。まだ家守とは決まってない」

「なんだか変な気配がするなあ」

蛇はしゅるしゅると這って、俺を見上げ、「あまり家守には向いてない」と零した。蛇の瞳は熟した柿のように赤かった。

 ある時は大きな鹿の死骸に出会った。こんな大きな種類の鹿が長野にいただろうか。

兄ちゃんは跪いて鹿の毛並みを撫でた。枝分かれした立派な角を持つ牡鹿おじかだった。

「こうやって少しずつオサがいなくなる」

鹿の腹にはもう埋葬虫が潜りこんでいて、甘い腐臭がした。

「こいつらがオサを土に還して、土の深いところで風脈ふうみゃくと混ざる。風脈から長の命がまたいつか汲み上げられたら、その時に新しい長ができるだろう」

 風脈を見たことがある。兄ちゃんが俺を抱えて飛ぶのが窮屈になってきたので、俺が兄ちゃんを抱き上げるようになったころだ。兄ちゃんはいつまでも17歳のままだった。

兄ちゃんが下りたところは、地面に苔が蒸した平地だった。

靴の裏を通しても、苔が含んだ水分が伝わってくるようだ。

大きな岩がいくつも転がっていた。岩の上に集まっていた猿の群れが、兄ちゃんを見てさっと散った。

「風脈だ。珍しいものだから、お前もよく見ておくといい」

兄ちゃんは足元の苔をつま先で蹴った。

パッと苔が散ったかと思うと、足元の苔が大きく崩落した。

足元には竪穴が開いていた。

穴の底は、緑色と青色の透き通った光が揺らめいていて、そこに時折赤や青や橙が混じった。風が吹き上げてくる。

「山で死んだものの魂がここに混ざり合って、また新しいものに変わるんだ。新しい命は風に乗って山の隅々に広がっていく。風脈はいつもどこかにあるが、どこにあるのかは分からない。昔はここから新しい命を作る集団がいたが、時間と共に忘れ去られてしまった」

 穴の底を見下ろす兄ちゃんの顔に、青や緑の光が写っている。

風は気圧の差から生まれる自然現象であるということを俺はもう知っていたが、この空間では物理法則とは違う力が作用しているのだろうことが分からないほど子どもではなかった。

「僕たちはどんどん弱っていく。昔の風脈はもっと大きかったんだ」

「どうして?」

「わからない。僕たちを信じている人間の数が減っているのかもしれないし、元々僕たちが消えていくさだめのものなのかもしれない」

風脈はやがてその魅惑的な輝きを止めた。

そうなると穴などはどこにもなく、兄ちゃんに蹴散らされた苔が地面に散っているだけだった。兄ちゃんは散った苔をまた手で集めて地面に敷いた。


 じいちゃんの家に行かなくなったのは、じいちゃんが死んだからだった。

じいちゃんは夏の暑い日に庭仕事の最中に死んだらしく、ふもとの人が見つけたときにはほとんど骨だけになっていたという。じいちゃんの魂も風脈に帰ったのだろうか。

 じいちゃんの葬儀で、兄ちゃんに会った。喪服の人々がうろつく座敷で、兄ちゃんだけが薄青い浴衣だった。兄ちゃんは祖父の骨壺を見下ろして、「秀三郎しゅうざぶろう」と祖父の名を呼んでいた。眉を寄せ、苦しそうだった。

静かな葬儀だった、じいちゃんはもう骨壺に納まっていた。じいちゃんが大学で教えていた頃の教え子や教授たちが弔問に訪れた。喪主は俺の母だった。「わがままな人でした。家族に相談もなく山に移り住んで」というおよそ別れの挨拶にふさわしくない恨み言に、母が祖父に抱いていただろう複雑な感情を察したのと、母の他にもいるはずの兄弟が誰も来なかったことでも、俺はなんとなく事情を察した。

じいちゃんの骨はお墓に納められたが、埋葬虫しでむしたちが食った分が風脈に帰れていたらいいと思った。兄ちゃんは姿を見せなかった。


 俺はじいちゃんの家には行かなくなり、やがて親元からも離れた。

継父は俺のことを愛そうと頑張ってくれたと思う。母親は、俺の本当の父親を思い出すと言って時々俺をなじったが、そういうのはよくあることだ。俺の体が大きくなるにつれてそういうことも減っていた。俺は大学進学と共に家を出て、ほとんど戻らなかった。就活で決まった生命保険を扱う会社で働き、そして今年、定年より30年も早く退職した。同時に、久しぶりに母から連絡があった。弟が大学に入学したから祝いの席に出席しろという催促と、祖父の家を処分するという報告だった。


 俺は今、祖父の家に戻ってきている。

ふもとのパーキングで車を停め、丸太の階段が敷かれた坂道を上る。息が切れる。営業部にいた頃に蓄えてしまった腹の脂肪はもうほとんどなくなっていたが、筋肉も落ちているのだろう。拾った棒を杖にして、俺は坂を上っていく。汗が滲み、吹きだした。水を被ったように汗みずくになった頃、石段が終わり、懐かしい家が姿を現した。

 兄ちゃんは荒れ果てた畑に立っていた。

俺の姿を認めると、はっとして立ちすくんだ。

血色のいい唇が俺の名を呼び、それでも彼は動けないようだった。薄青い浴衣。裸足の足。白い肌。額の所で分けられた、艶のある黒い髪。天狗の子は、あの日のままの姿で、近づいた俺に言った。

「帰ってきてはいけない」

「兄ちゃんが、俺の命を食うからか」

俺は初めて兄ちゃんの表情がはっきりと歪むのを見た。

「兄ちゃんは天狗じゃないんだろ。兄ちゃんが何なのか、俺にはわからない。ただ、兄ちゃんはここで暮らす者の命を食うんだろう?」

俺は、長い間調べて、考えたことを兄ちゃんに語った。

 祖父がこの家を買ったのは、兄ちゃんに魅入られたからだろう。研究の調査で深山みやまに分け入った祖父は、どこで美しい少年と出会った。そして妻と幼い子供と共にこの地に移り住んだ。最初に母の兄が死んだ。その後に妻が産後の肥立ちが悪く死んだ。娘である母も赤子の頃は体が弱く、母方の故郷がある都会の大きな病院に入院している。その間に母のすぐ上の兄も死んだ。残った2人は都会へと引き取られていった。つまり、全部で4人いた兄は2人が死んでいることになる。どれも原因不明の衰弱だった。祖父は、2人の子どもと母親の命を捧げても、兄ちゃんといることを選んだのだ。

兄ちゃんは炎天下の庭に進み出た。庭木も雑草も影を濃く落としているのに、兄ちゃんに影はなかった。

「秀三郎の生気は美味かった。だから、できるだけゆっくり食べようとしたんだ。秀三郎は若々しかったろう?あれは僕が彼の病や雑念を食べていたからだ。そうすると生気は雑味がなくなってもっと美味くなり、僕らも長持ちする。でもね」

兄ちゃんは俺の名前を呼んだ。

「お前の病は僕でも無理だ」

 俺にその診断が下りたのは2カ月前で、余命は持って1年という見立てだった。

俺の体内で勝手に増えた癌細胞は、胃から始まり今では膵臓にまで広がっているのだという。医者が「ご家族の方は?」と訊くのに、いないと答えた。伝えたい人はいなかったし、未練と言う未練もなかった。ただ、会いたい人はいたのだ。


「死ぬときは苦しくない方がいいと思ってさ」

笑う俺を、兄ちゃんが睨んだ。

「秀三郎と同じことを言う」

兄ちゃんはしばらく俺を睨んだ後、縁側へと歩いて行った。並んで腰を下ろす。

俺の背は伸びていて兄ちゃんを見下ろすようになってしまった。並んで西瓜を食べた日のことを思い出した。家はそのままで、少しも傷んでいなかった。

竈や風呂を使った気配があった。

家の裏に回ると、誰かの服や荷物が無造作に捨ててあった。女のものも、男のものもある。鞄の中には遺書が入っていた。

「お前がいなくても、ここは勝手に弱った人間を呼び寄せる。そいつらが勝手に死ぬまで僕が生気を吸う。だから帰れ」

「服は燃やそう。この人たちはどこで死んだの?山?山で死んでるなら、骨だけでも埋めておこう。怪しまれるといけない」

俺は荷物をまとめ、燃やせそうなものに分けながら言った。まだやることがあってよかった。やり残したことがあると、人は元気になる。

 兄ちゃんが大きなため息をついた。

「いいのか?」

根負けしたように、自称天狗の子は尋ねた。俺はいいよと答えて、誰かの遺書を破り捨てた。

「僕はお前が好きだったんだ。だから生きてほしかった。秀三郎と似てお前の生気はとても良い匂いがした。耐えがたかった。だから二度と来なくなってくれたらいいと思ったよ」

「俺は死ぬまで兄ちゃんといたい」

そうかいと兄ちゃんは捨て鉢に吐き捨てて、それから小さく笑った。

 夏の日が傾いている。ヒグラシが鳴き始めていた。吹く風にはわずかな涼気が含まれていて、夏も終わりに向かうのだと俺は感じた。

夏が終わる頃、俺は死ぬだろう。その時は、この美しい化生のものの腕の中で死に、風脈に帰りたいものだ。



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