ソー・ロング、ミスター・クラブ
つくお
ソー・ロング、ミスター・クラブ
「カニって書ける?」
ミスター・クラブはお決まりの口説き文句を言った。たまたま隣に座っただけの女だった。まだ顔もまともに見ていないが、肌にぴたりと張りついた裾の短いシャツから覗く白い肌がたまらなくそそった。
女はだるそうにこちらを振り返ると、カウンターテーブルに乗った二つの大きなハサミに気づき、わずかに目を見開いた。視線はいったん足元に行き、興味を増しながら顔へとあがってくる。
「カニって書ける?」
ミスター・クラブは相手の関心をひいたところで改めて言った。
女はやや戸惑いがちに微笑むと、黙って首を横にふった。余計な無知はさらしたくないというわけだ。
ミスター・クラブはグラスを傾けてハサミの先端に水をつけると(彼はアルコールは摂取しない)、何も言わずにテーブルに漢字を書きはじめた。一画ごとに固いもの同士が当たるコッ、コッという音が鳴る。
水滴で書かれた文字が浮かび上がる。
蟹。
ミスター・クラブが相手の目を正面に捉えると、女は照れたように笑った。カニという字をどう書くかも思い出したようだった。誰もが思い出すのだ。書かれたものを見れば。
広く奥行きのあるバーは奥に行くほど照明が暗くなっている。突き当たりにはVIP専用の部屋が左右に二つずつ並び、ミスター・クラブならいつでも自由に使うことができた。彼は世界にわずか53人しかいない超人のうちの一人であり(そのほとんどはなぜか日本にいた)、超のつくVIPなのだ。
超人たちは人々のために日夜命懸けで戦っているが、相手が何者かはそのときどきによった。正体が定かではないこともままあった。いずれにせよ、彼らが超人であるということは揺るぐことない真実であり、彼らが超人である限り、人々は彼らに畏敬の念を抱くのだった。バーのVIPルームなど当然顔パスだったし、空きがなければ気の向くままに先客を追い出すことだって簡単だった。
超人たちは常に正義とともにあるが、ときには状況が思うに任せないこともあった。今夜、ミスター・クラブはうまくいかなかった仕事のせいでくさくさしており、暗い気分を振り払おうと芸能関係者も多く集まるこのバーにやってきたのだ。目当ては女だった。相手は誰でもよかったし、名前を聞く気もなかった。
ミスター・クラブは女がハサミに興味深げな視線を注いでいるのを見逃さなかった。彼女はファッションモデルとして少し名を知られた存在だったが、ミスター・クラブはそんなことは知らなかった。
「触ってみるかい?」
女はいいのと言いながらも返事を聞くより前にハサミに手を伸ばした。それは思いのほかひんやりして冷たかった。金属のように硬い表面は、ぷつぷつと小さな突起が集まっている一帯があるかと思うと、車のボディのようになめらかにカーブしているところもあった。短くて硬い毛が生えている箇所もあった。ハサミ片方で女の上半身をすっぽり覆ってしまうほどの大きさがあり、薄いグレーの中にわずかにエメラルドグリーンが溶けたような色合いが咬合部に近づくほど白みを帯びていた。
間近で見ると、まるで宝石のようだった。これが銃撃も跳ね返すと言われているミスター・クラブの有名なハサミだ。はじめにあった恐れは指先からとうに消え、女はうっとりしたような手つきでハサミを愛でた。指の関節で固さを確かめるように叩いたりもした。こうした触れ合いはいつもミスター・クラブを誇らしい、いい気分にさせた。
ミスター・クラブが咬合部をゆっくり開くと、女は吸い込まれるようにしてその間に手を差し入れた。理性ではそれは断頭台に首を乗せるような恐ろしい行為だと理解していたが、なぜかそうしないではいられなかった。女はすっかり陶酔してしまっていた。
蟹のハサミがまるで枝切り鋏のようにじょきじょき切れると思っているものもいるが、ミスター・クラブのハサミにはいわゆる刃と呼べるような鋭利なところはなかった。そこにあるのは先端に丸みを帯びた突起の羅列であり、それはむしろ何かを掴んだり、力で圧し潰したり、ぎしぎしやって磨り切ったりするためのものだった。挟む力はゆうに2トンを越えるとされているミスター・クラブのハサミは、鋼鉄の扉を引き裂くこともできるのだ。
女は腕をハサミで軽く挟まれると一瞬身をすくませたが、ミスター・クラブに傷つける意図がないとわかるとおとなしく身を任せた。もう片方のハサミが、その巨大さにもかかわらず今まで姿をくらませていたかのように唐突に下から現れ、女のちょうど肌が露出している腰のところを横向きに挟み込んだ。これが悪党ならこのまま真っ二つにされるところだ。女はさすがに恐怖を感じ腰をくねらせて逃れようとしたが、一度挟まれたらもう逃げることはできなかった。ミスター・クラブのハサミは、一度挟んだものは何があっても逃がさないのだ。
ハサミは優しかった。それはまるでスローダンスのように腰にそっと添えられたのだ。緊張した腹部から力が抜け、女はハサミに重ね合わせるように手を添えた。そして、どこか思わせぶりな微笑みを浮かべてミスター・クラブを上目遣いに見つめた。ミスター・クラブは、女の下半身が味わったことのないスリルに早くも湿り気を帯びてきているのがわかった。ミスター・クラブは他のどんな超人よりも湿り気に敏感なのだ。
超人に惹かれる人間の女は多いが、特に性的な意味においてはそうだった。女たちは、超人たちがそれぞれ特有の能力と身体でいったいどんなセックスをするのだろうと、いつだって興味津々なのだ。上半身が人間、両腕と下半身が蟹の姿をしたミスター・クラブの場合、事情は更に特殊だった。蟹の雄には生殖器が一対あるからだ。ミスター・クラブが腹部の殻を開帳すると(正しくは胸部だがミスタークラブには人としての胸部もあるのでここでは腹部とする)、そこには一対の生殖器がしまわれている。そして奇妙かつ興味深いことに、その生殖器の形は人間男性の生殖器と同じなのだ。つまり、アレが二本ついているのである。
ミスター・クラブの楽しみ方は決まっていた。彼はハサミと他の複数の足を使って女たちの手足を掴んで宙に浮かせると、おもむろに二本の生殖器を露出し、それをかわるがわる女性器に挿し入れるのだ。あるいは、少し相手の角度を変えるだけで前の穴と後ろの穴を同時に責めることもできた。女たちは泣きながらもっともっとと懇願し、ミスター・クラブの気が済むまで快楽の沼から逃れることができないのだ。
ミスター・クラブはそのまま女を抱きかかえてVIPルームに連れ込むつもりだった。そこなら他人の目を気にすることなく、心ゆくまで楽しむことができるからだ。それに、この暗がりなら部屋までの道のりを横歩きで進んでも醒められることはないという思惑もあった。まれに、彼の蟹ならではの横歩きを面白がって雰囲気をぶち壊しにする愚かな女もいるのだ。
ミスター・クラブは地点Aから地点Bまで進むのに、直進しないでジグザグに進むことがあった。人の目が多いところなどでは特にだ。直進するとなれば、下半身が蟹であるという身体的特徴ゆえに、どうしても横歩きせざるをえないが、ジグザグに進むことであからさまに横歩きをしないで、前向きに進んでるように見せかけることができるからだ。少なくとも、ミスター・クラブ本人はそう信じていた。
実は、わずかな距離をゆっくりとなら前に歩くことも不可能ではないのだが、緩慢でぎくしゃくした動きがまるでリハビリ病棟の患者を思わせるため、これから事に及ぼうというときに相手に見せたくはなかった。
ミスター・クラブは手はじめに女を壁に押しつけると、ぐっと顔を寄せて相手の唇を奪った。女の薄い唇は思いのほか肉感的で、ミスター・クラブはそれを強く吸った。舌を出して唇を舐めると、女もそれに応えるように舌を出し、舌と舌が絡み合った。ミスター・クラブの腹部で一対の生殖器がむくむくと膨らみ、彼はこの女はもう思いのままになるとほくそ笑んだ。
唇を離し、一呼吸置いて熱く見つめ合う。ふいに、女が何かに注意を奪われ、その視線がミスター・クラブの顔から逸れた。視線の先にはバーの壁にかけられた大型テレビがあり、先ほどまでスポーツ中継を流していたはずの画面が臨時ニュースを伝えていた。
海岸に打ち上げられた男の死体についての速報だった。遺体は先ごろ世間を騒がせた沈没事故の乗客の一人で、胴体で千切れた上半身だけが見つかったという。音量が小さくて現場レポーターが何を言っているのかは聞き取れなかったが、事件の衝撃を伝えようとする表情は読み取れた。何がそれほどショッキングなのかはすぐに分かった。挿し挟まれたテロップと映像から、その遺体の切断跡がミスター・クラブのハサミの刃型と一致するという警察の公式コメントが出ていることがわかったのだ。
ミスター・クラブはハサミの中の女の体が急に強張ったのを感じた。ミスター・クラブは説明を試みようとしたが、こちらを振り返った女の顔はすっかり恐怖に青ざめており、どう言葉をかけたらいいかわからなかった。女が逃れようと必死にもがくと、ミスター・クラブはハサミを離すより他なかった。
女が店内の明るい方へ逃げていくのと同時に、他の客たちの視線がミスター・クラブに集まった。もともとミスター・クラブの存在に気づいていたものもいたし、その視線の動きに反応してミスター・クラブがいることに気がついた客もいた。彼の存在に遅れて気がついたものは、テレビのニュースとミスター・クラブを見比べてすぐに状況を理解した。
店内の空気がさっと変わった。恐怖が伝染するように広がり、警戒心がフロアを支配した。ミスター・クラブがちょうどメインフロアの客たちと向き合うような体勢でいたため、誰もその場から動けなかった。ミスター・クラブが超人の中では決して戦闘能力が高くないことは周知の事実だったが、それでも並の人間が決して及ばない力を持っていることは事実であり、誰しも自分たちはここで皆殺しにされるのではないかという恐怖が脳裏をよぎった。
超人であれば例外なく、強い力を持ち過ぎたものに対する差別や偏見を経験するものではあるが、それに慣れることはない。ミスター・クラブはどう対処していいかわからず、しばしその場で立ち尽くした。彼には彼の言い分があったが、テレビから彼に関する衝撃的なニュースが流れているこの状況で人々を説得することなどできそうになかった。
ミスター・クラブはその場から立ち去ることを選んだ。彼は客たちから顔を背け、足早に、しかし例のジグザグ歩きで、店のドアへと進んだ。八本もある脚のおかげでどんな悪路もへっちゃらのミスター・クラブだったが、客たちが自ら進んで彼の行く手からさっと退いたので、ドアまでは広く平らな一本道だった。カタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタ。尖った足先が堅いフロアを突く、すばやいリズムがフロアに鳴り響いた。本人はうまいこと前進しているように見せているつもりだったが、傍から見るとどこからどう見ても蟹歩きであった。
ソー・ロング、ミスター・クラブ つくお @tsukuo
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