2 妻でも娘でもないあなたを
控えめなノックで現実に引き戻される。
記念日ともなると、どうしても過去を思い出さずにはいられない。時間は忘却され、記憶は圧縮されるけれど、感情だけは体内で再生産されて苦みも新しいまま。思い出すのではなく、作り出される。だから、時間が経っても後悔は消えないし、心の傷は癒えないのだ。
「荀南……入ってもいい? ちょっと話したくなって」
幼さの残る、耳に懐かしい甲高い声。彼女がアコースティックギターを片手に歌う『Oats We Sow』のカヴァーは、思春期の不安定さと透明さを宿していて、いつだって私をあの頃に引き戻した。
「今さら遠慮することないでしょ。鍵は壊れ、扉はいつでも開かれているわ」
「うん。お邪魔します」
私は彼女の神妙な態度におかしくなって、口元に笑みを浮かべた。十六年も一緒に居るというのに、緊張しているらしい。それこそ、告白を控え、後ろ手に恋文を隠し持っているみたいに。
「もう、今日になったよね。あのさ、今日は何の日か知ってる?」
「もちろん、私が記念日をすっぽかしたことあったかしら」
「ううん。一度も。テニスの試合も見に来てくれたし、学校のキャンプも、時々旅行にも。忙しいなんてちっとも言わないし、料理の手を抜いたこともね。友達のうちは、栄養レーションとか冷食ばっかだって文句言ってた。私の家族はすごくラッキーなんだって……ありがと」
「どういたしまして。でも、そんなのはなんてことないの。確かに当たり前のことではないかもしれないし、人によっては大変なことだけど、私が選択して、好きでやっていること」
「荀南はそういうだろうと思ってた」
私の部屋は広いとはいえない。ベッドに腰掛けるよう促すと、彼女と向かい合った。部屋に備え付けた一人用の冷蔵庫から、冷やしておいた特別なワインを出してグラスに注いでやる。
「もう16歳だから、これもお祝いね。あなたも独り立ちの歳になった。どこで誰と暮らすか、どんな仕事に就くか、すべて自分で選択していい。もちろん進学してもいいし、この家に残っても。大抵の子は出ていくでしょうけれど、保護者の元に残ることを甘えてるだなんて言うつもりはない。その方が私も寂しくならずに済む」
この国では16歳で成人とみなされ、独り立ちの時期だと考えられている。多くは家族の元を離れ、一人暮らしを始めたり、パートナーと同棲を始めたりする。私が緑と暮らし始めたのも16だ。誕生日にワインを飲み過ぎて失敗するまでを含めて、一種の通過儀礼だ。
「私は家計の許す限り、あなたが望むサポートをするわ。それが私からの誕生日と成人のお祝い。さぁ、聞かせてちょうだい。あなたのこれからは、私の楽しみのひとつでもあるの」
彼女はワインを一口飲み、覚悟を決めて話始めた。
「うん……でも、それを話す前に、ひとつだけ確認しておきたいんだ。ここまで育ててくれたのに、荀南の秘密を探るようなこと、信頼していないみたいでよくないと思ったんだけど。私は、本当の私のことが知りたかったから調べたんだ。例えば、荀南が大切にしている親友の遺骨と私の遺伝子配列とか。戸籍情報とか。この部屋が前は誰が使っていたものだったのか、とか。荀南は私に『お母さん』って呼ばせないけど、私が亡くなった親友から引き取った子だっていうのは嘘だよね」
「そうよ」
誤魔化す気はないから頷いた。いつか聞いてくるだろうことは分かっていた。むしろ、そうなるようにそれとなく切っ掛けや手掛かりを与えてもいた。
彼女は、私があまりにもあっさり認めたものだから、勢いを削がれて言葉に詰まる。だから、言葉を引き継いで、彼女が言いたかったことをはっきりと口にしてやる。
「死んだパートナーを体細胞クローンとして私が産み直したのが、緑――あなたよ」
植物状態になった緑の細胞から細胞核を取り出して、私の卵細胞の核と入れ替え胎内に戻す。子供を得る四つ目の方法だった。
遺伝子がまったく同一の新しい彼女に、緑と名付けて育てることにした。私はあの子を産み直したのだ。それが私の選択。
私と誰かの子でも、私と緑の子でもない。私が緑を産んだ。
「クローン……やっぱり、はっきり言葉にされると妙な気分。ねぇ、どんな人だったの? 荀南と緑さんは結婚してたんでしょ。私と似てた? 逆かな、私は似てる?」
緑はほんのりと頬を赤くして、ぎこちなくはにかんだ。前もって知っていたせいだろうか。動揺や落ち込んだ様子はない。空元気とも違うようだ。
私は彼女の内心を推し量りながら、組んだ足の上に頬杖をついた。緑の前ではできるだけ大人っぽく、余裕のある仕草を心がけるようにしていた。
「今のあなたをみていると、同棲したての初々しさを思い出すわ。既視感を覚えることもしょっちゅうだし、自分の年齢を忘れそうになることもある。いいアンチエイジング法になるかもしれない」
茶化したつもりだったが、彼女は真剣な眼をしていた。あの子と同じ遺伝子であることが緑にとってどう影響するのか、まだ計りかねていた。
「そっか、よかった」
緑は小さく呟いた。
「私ね、受け入れてもらえるかわからないんだけど、荀南とパートナーになりたいと思ってる」
それは紛れもなく告白だった。
「私はね、自分が緑でよかったと思ってるんだ。クローンでよかったって。だって、荀南に必要とされる存在だってわかるから。私がきちんと緑になれているなら、嬉しい。すごく嬉しいことなんだ」
言い終わって、一気にグラスのワインを飲みほした緑。
「そう……あなたはそう選択するのね」
私も彼女に合わせてワインを飲んだ。酸味が胸いっぱいに広がり、昔の後悔に染みた。結局、こうなるのか。
選択だ。与えられた環境と選択。
「愛しています、荀南。親としてじゃなくて、ひとりの女性として」
おっかなびっくり伺う視線は潤んでいて、私の記憶と瓜二つだった。
私にとって緑のクローンを産むことは実験だった。あの子が死ぬほど思いつめた愛への実験。
あの子は言った。選ばされた愛はまがい物なのだと。生産調整の施策で作られた感情なのだと。だから、異なる手段をもって証明しなければならないと。彼女は選ばされた環境を嫌い、環境に抗おうとしていた。私を愛そうとしたが故に。それすら作られた反意かもしれないと気付けずに。
この子は私を選んだ。私がそうなるように仕向け、環境を整え、育てたから。自分がクローンだとわかった時点で、好意を抱くように育てられたことは理解したはずだ。それを理解して尚、私を愛しているという。その点において、この子とあの子は決定的に異なる。
緑は作られた愛を自明のものとして受け入れた。
選択だ。あの時の私と同じように、与えられた環境のなかで、自分の意志で愛することを選んだのだと、誇らしげに。
「愛って、なんだろうね」
私はその空虚な問いを、空のグラスに投げかけた。
「え?」
「気にしないで。選んだなら、ここから先は知らなくていいわ」
この愛が本物か、否か。
作りものか、まがい物か。
操作された環境のなかで、意図的に与えられた情報のなかで、誰が判断できようか。どれが本物で、どれが偽物なのか。なにがつくりもので、なにが自分のものなのか。誘導? 強制? どこまでが自分の意志で、自分から生まれた感情だと言えるのか。
判断なぞできるはずもない。解るはずがないのだ。疑い始めたらきりがない。愛への疑いには底がない。きっと、愛を煮詰めて
見よ、この歪さを。私たちの愛の結晶を。
「さぁ、ベットに横になって。瞳を閉じて。今日はいっしょに寝ましょうか。そうしてくれる?」
緑の背中に手を添えて、ゆっくりと押し倒す。まだ未成熟な彼女に、寄り添うように身体を重ねた。
「うん……うん、もちろんだよ。ワインのせいか、すごく眠いしね」
静かに彼女の額に口付けを落とした。
私も四十を過ぎた。十分に大人といっていい経験と諦めを手に入れた。幸せに生きることにも、愛に素直になることにもコツがいる。今ではそれを知っている。
目を瞑ることだ。私たちは目を捨て、初恋のように盲目になるべきだ。考えず、疑わず、敬虔な信徒のように今ある愛を妄信する。
眼を見開いたそこに愛はない。ただ疑いのみが漂っている。真実や本物をみようとすれば、霧はより一層濃く、深さを増すことだろう。
「……荀南」
緑が不満げにこちらを見上げていた。額のキスでは、愛には相応しくないと言うように。
「わかった、わかった。ほら、もう一度。目を瞑って」
期待と確信に染まった頬。ちょっと突き出した間抜けな唇。モカブラウンのくせ毛。あの子と同じであの子ではない彼女。今手の中にあるこれは、もはや愛とは呼べない。
私はこの歪さを呑み込むには、経験と後悔を重ね過ぎてしまった。
口に含んだカプセルを前歯で挟んで、それから割った。
彼女の望み通り、触れ合わせついばみ、舌に合わせて呑み込ませた。私は彼女が話にくることを見越して、すでに服用していた。私には遅効性、彼女には即効性。この十六年、歪さを煮詰めて濃縮した、愛の劇薬だ。
つまるところ、あの子はどっちだったのだろうかと朦朧とした頭で思う。
結局のところ、私はどうだったのだろうかと自問自答する。
選択だ。最後に私は選んだのだ。あの子と同じように拒絶することを。
愛というものが、真に純粋であることを望んだが故に。
私はこの歪さを抱えては生きていけない。
私に愛は重すぎる。
愛するときは目を瞑れ 志村麦穂 @baku-shimura
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