愛するときは目を瞑れ

志村麦穂

1 環境と選択と愛情と

 リュとの口論は、この数年まったくと言ってよいくらいに進歩がない。いつだって彼女の要求を、私が却下することで始まる。回りくどい切り出しのヴァリエーションと、表現のニュアンスが違うだけで、内容も結論も変わり映えがしない。学生時代は話を聞いてくれたとか、昔は優しかったとか。時折、初めて耳にする罵倒が飛び出すから、その点は刺激的でもある。

 そう、スリリングだ。たった一言でも、私たちの関係を引き裂ける程度には。

 だから、私は努めて冷静に、筋道立てて言いくるめようとした。

「この件は何度も話し合ったはずでしょう。緑の『お願い』は、私たちが結婚して取り決めた約束を踏み越えているの。お互いの領分を守りましょうって、それだけの約束を。一方的に負担を負うのも私だし、ふたりの家庭だったとしても、私の身体とキャリアがかかっている。答えはノーよ。何度聞かれても同じ」

 仕事帰りのパンツスーツ姿のまま、椅子には座らずテーブルに体重を預ける。取引先との折衝、長引いた打ち合わせに、押し出される形でまるごとスライドして残業。終電に駆けこまずに済んだのは、持ち帰った仕事があるからだ。適当に緑の晩の残り物を摘まんで、家で終わらせようと思っていたところだったのに。在宅作業が主で、時間に融通の利く緑は、私の生活時間への想像力が足りない。彼女のクリエイティブは頭の外には飛び出さないらしい。

「終わった話にしないで……一方的に理屈を並べ立てて、荀南ジュンナが勝手に出した結論でしょ。ふたりの気持ちじゃない。こういうのって理屈じゃないでしょう? いつもそう。先生みたいに喋らないで。勉強を教えてもらっていた、あのころとは違う。分からないわけじゃないの、私は解ってほしいのっ」

 あの晩に限って緑は引き下がらなかった。ウェーブのかかったモカブラウンを震わせて、抱き締めたクッション越しにこちらを伺っていた。

 私はというと、壁掛けの時計ばかりを気にしていた。口論は平行線。時刻は日をまたぐ。持ち帰った仕事は手つかず。まだメイクも落としていない。なのに目の前の女は楽なゆるい部屋着で、話を終わらせる気配がない。

「前にも言ったじゃない。時期じゃないって。私だって頭から否定したいわけじゃない。子供を持つことだって、私が産むことにだって、結果的には賛成なの。どうして今すぐじゃなきゃいけないの? あと数年待つこともできない?」

「数年って? いつまで待てばいいの? 私はもう何年も待ったよ。ずっと待っているのにっ」

 緑は子供をはやく持つことに拘った。その要求は、私たちが同棲し始めた16のときには、折につけ願望を口にするようになっていた。18で結婚して、今年で結婚八年目。私は大学院にいったから、働き始めてまだ二年だ。妊娠すればどうあがいてもキャリアは中断せざるを得ないし、緑に子育てが務まるとも思えない。

「緑……あなたちゃんと理解しているの? 私はあなたがやったみたいな、誰とも知れない男の冷凍精子を買い上げて、誰とのかもわからない子供を作るのは嫌だって言ってるの。作るなら、あなたとの子供じゃないと。あなただってそうでしょ? そのためには精子バンクなんて目じゃないぐらい費用がかかる。もちろん、育てるのにもね。私やあなたの稼ぎでは、今日明日ってわけにはいかないでしょう」

「お金の話は言い訳じゃないっ! 子供が大学に行くまでの、子育ての総額を全部貯めてからじゃないと産んじゃいけないの? それっていつ? 何十年先のこと?」

「どうしてそう極端にしか考えられないの。かかる費用も大事なこと。私たちだって生活していかなきゃいけないのに」

 同性のカップルが子供を作るのは簡単ではない。男女のカップルのようにセックスすればいいというものではないからだ。愛では補えない、技術的な支援が必要になる。

 同性間で子供を得る方法は三通りある。ひとつには孤児を引き取ること。技術的な問題はないが、の子供であることを重視する関係上、この方法をとることはない。

 ふたつめは精子バンクから冷凍精子を買うこと。解凍した精子を、自分の卵子と体外受精させて、胎内に戻す。購入者は登録者情報と値札から精子を選別することができる。オークションされるような有名人のものから、身元のあやふやなものまで。提供者のプロフィール、遺伝形質など、引き継がれ得るあらゆる情報を知ることができる。しかし、産まれる子供は、やはりの子ではありえない。よって、却下。

 緑が子供欲しさから、黙って精子を買い上げていたときには、怒りのあまり言うべき言葉も見つからなかった。挙句、生来の虚弱さと、ストレスから流産。緑は二度と子供を望めなくなった。私に反対されるとわかっていたせいか、取り返しのつかない所まで隠そうとしていた。あの時期、ストレスで気が狂いそうだったのは緑だけではい。

 そして、多くの同性カップルが望む手段は、の子を産む方法。どちらかのIPS細胞から精子または卵子を培養する。男性同士ならば代理母の必要もあるが、女同士ならその手間はいらない。どちらがどちらを作ってもいい。重要なのはの遺伝子を持つ子を、私が産むということだ。そうしてはじめて、の子供といえるのではないか、と私は考えている。私と緑の間に、余計なものが挟まって欲しくないのだ。

 私ができる最大限の選択。緑はその意味を理解しようとしてくれない。

 パサついた前髪を払いのけて、歯の隙間から息を吐いた。どう言ったら、彼女は引き下がるだろうかと思案する。可及的速やかに、私の血圧をあげない範囲で。瞼の筋肉をもみほぐし、瞑目した。

「ねぇ、私たちって、ちゃんと愛し合っているの?」

 だしぬけに緑が呟いた。

「なんだって?」

 それはたった一言で私の堪忍袋の緒を寸断し、思考を暴発させた。

「だって、そうでしょう。荀南は理屈ばっかりで、先延ばし、先延ばし。自分のなかでの道理を優先して、私の気持ちは置いてきぼり。お金とか仕事とか、問題ばかりを持ち出して、少しも感情の話はしてくれない。荀南にとって、子作りは消化すべきタスクのひとつなの? 違うでしょ。私は必死に、私たちの愛を証明しようとしているのに!」

 子供は愛情の証明。子供は愛の結晶。

 緑の口からステレオタイプな価値観が飛び出したことに、私は少なからず動揺し、落胆した。それらは反政府団体が標榜する家族計画そのままだったから。元々影響されやすい子だとは思っていたが、想像以上に深く根を張っていたらしい。

「選ばされた環境のなかで、自分の意志を証明するにはこれしかない。政府が同性同士で結婚させて子供を作りにくくさせようとするなら、たくさん子供を産むことで、生産調整計画から逃れられる。環境に反する行為だけが私の意志を表現する。私たちの愛が、選ばされたまがい物でないことを確かめられる」

 ひと世代前なら陰謀論で片付けられた話だろう。現在の、この国の情報統制に限って言えば、彼女の言うことは決して間違っていない。

 選ばされた環境。しかし、私たちが選んできた環境でもある。

 かつてはトラッキングと呼ばれる追跡により、個人の興味関心に従って広告を載せる機能があったが、この国の現状はまるで正反対だ。個人が政府の意向に沿う行動を選択するように、個人の手元には意図的に偏った情報が集まるようになる。情報だけではない。隣家の住人から、クラスメイトの配置まで。環境型情報統制と呼ばれている。

 私たちの場合、強く反映されたのは『生産調整』だった。古く言えば一人っ子政策、その発展型だ。同性婚を支持することで、子供の生産ラインそのものを削減することにしたのだ。

 両親ので隣に越してきた緑。毎年のクラス替えも、進学先も同じ。映画やドラマでは同性愛をテーマにしたものが流行し、同性婚も珍しくなくなった。そんななかで、私たちが結婚に至ったのは自然なことかも知れない。でも、決して『選ばされたから』でも、『他に選択肢がなかった』からでもない。

 環境型情報統制は洗脳や強制ではない。情報がまったく閉ざされていたわけではないし、選ばなかったからといって罰則があるわけでもない。自分の意志で逃げることも、選ばないこともできたのだ。お膳立てされた状況だったとしても、私は自らの意志で緑を選んだのだ。

 彼女は選ばされた状況を重視し、私は選んだ意志を重視した。

「緑は私を選ばされたんだ?」

 この問い返しは、私のボーダーラインだった。

「仕方ないじゃない。だからこそ子供を作って、この愛は本物だって証明しなくちゃいけないって。解るでしょう?」

 日が悪かったといえば、そうかもしれない。私は仕事で疲れていて、あんなことを言うつもりではなかった。彼女が私の選択を、緑を確かに愛しているという事実をないがしろにした理解のない発言に、いい加減頭に来てしまった。

「だとすれば、あなた踊らされているんじゃない? 私たちの手元には政府が誘導したい情報が集まってくるのよ。あなたの元には反政府、反生産調整的な意見が集まったのでしょう? 『生産調整』なんだもの。産ませない時期があれば、産ませたい時期もあるはずだわ。どう? これってあなたのいう自分の意志なの? 愛している証明になるかしら?」

 私の選択した愛は緑に否定された。私が愛していないと言われたようで、頭に血が上っていた。意趣返しなんて子供みたいな真似、普段ならしないだろう。怒鳴るなんて、したこともなかったのに。

「子供は愛のための道具? だったら、その愛もあなたを満足させるための道具にしかならないわっ」

 手応えがあった。緑の心の芯を、言葉で殴りつけた感触だ。

 すっかり気が立っていたせいで、私は気が付かなかった。声もなく涙を流した彼女をみて、また機嫌を取らなければならないと草臥れてすらいた。

「……荀南の気持ちは、よくわかった」

 消え入りそうな声でそれだけ告げると、緑は自分の部屋に閉じこもった。私はソファに体を投げ出して、眠ることで忘れようとした。私が選んだ愛はこんなものではないはずだと言い聞かせた。

 疲れと共に、後悔が押し寄せる。彼女を怒鳴ったことへの後悔だったか、自分がした過去の選択への後悔だったのか。今でははっきりと思い出すことができない。

 その晩、緑は自殺した。

 手首の肉がひき肉になるまで切りつけられていた。

 私が気付いて緊急通報をした時には、すでに心停止して時間が経ち過ぎていた。なんとか一命をとりとめることができたが、植物状態は免れなかった。医者は脳死を宣告したがっているようだった。

 状況と選択だ。

 人間はなんでも自由になると勘違いしがちだ。それが自然なものであれ、政府が用意したものであれ、私の過ちが引き寄せたものであれ。どんな状況にも制限が付きまとう。それは人類が草原や森で生活していた頃から変らない。与えられた環境の範囲内でしか、自分の意志は反映できない。

 私は選択した。

 置かれた状況のなかで、与えられた環境のもとで、私の意志を示す為の選択を。

 これが愛のある選択だったのか。私には未だ判断できない。

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