不完全燃焼

カフェオレ

不完全燃焼

 坂上涼太さかがみりょうたは散々な生活を送っていた。

 就職を機に都会へ出たが入った会社は安月給のブラック企業。田舎ならまだしも物価も家賃も高い都会での一人暮らし。出費はかさむ一方だった。

 恋人はおろか友人も出来ていない。夢や目標があればこんな生活でも満足出来ていたであろう。しかし、この街を選んだ理由は多くの人間同様、漠然とした都会への憧れのみだった。

 地獄のような日々。やりがいもなく、孤独でただひたすらに忙しい。絶えず何かに追われているようだった。

 残酷な現実。

「こんなはずじゃなかった」

 いつしかそれが彼の口癖になっていた。

 その日も涼太は狭いアパートで一人安い酒を飲みタバコをふかしながら不満と不安に押しつぶされていた。

「なんであんなクソ上司に頭下げなきゃいけねーんだよ!」

 彼はそう叫ぶとボロアパートの薄い壁を目一杯殴りつけた。

 涼太の上司は自分を切れ者だと信じて疑わない人間のようで、仕事が出来ない自分の無能さを棚に上げて、部下に対して理不尽な命令や叱責をすることが己の使命だと思っている節がある。涼太はその標的になっているようで彼が泥酔した時の独り言はこの上司に対する不満が大半だった。

「おい! うるせーぞ!」

 涼太のあまりの狂乱ぶりに隣人がそう叫ぶ。

「うるせーのはてめーだ! ぶち殺すぞクソ野郎‼︎」

 そう叫ぶと涼太は部屋を飛び出す。この時、畳に放り捨てたタバコの火を消し忘れていることに涼太は気付いていなかった。

 隣人も同じことを考えていたようでアパートの廊下で二人は相対する形となった。

 二人の男の雄叫び、そして拳のぶつかり合う音がアパート中に響く。

 勝負はあっさりと着いた。

 酔っ払った涼太は手も足も出ず、殴り倒され廊下にうずくまって情けなく泣いていた。

 それを見兼ねたのか別の部屋の気の良さそうな中年女性が出てきて涼太の肩に手を置いた。

「あんな派手に喧嘩しちゃって。大丈夫? みんなも怖がっちゃうからさ、とにかく部屋に帰りなさいよ。それとも救急車でも呼ぼうか?」

 女性は優しい口調で涼太に語りかけた。

 しかし涼太はその優しさを無下にするような鋭い視線で女性を睨みつける。

「なんだババア! 偉そうな口叩いてんじゃねーぞ! 俺はなぁ、地元では出来るやつだったんだよ。それがなんだ、ここに来てからは毎日クソだ!」

「そっか毎日大変なんだねぇ。でもきっといいこともあるからさ」

 女性は涼太を慰める。

「お前に何が分かる⁉︎ 死に損ないのアバズレが適当なことほざいてんじゃねーぞ!」

「あら、随分な言いようだね。こっちは心配してんのにさ」

 女性の顔に明らかな侮蔑の表情が窺える。

「そんな目で俺を見るんじゃねぇ! てめーもぶん殴るぞ!」

「ぶん殴られてたのはあんたの方だろ! いい加減にしないと警察呼ぶよ!」

「なんで俺が警察の世話にならなきゃいけねーんだよ!」

「当然だろ。こんなボロアパートじゃなくていっそ豚箱にでも入んな! そっちの方がお似合いだよ青二才のクソガキが!」

 そう叫ぶと女性は涼太の尻を蹴飛ばし部屋へ戻っていった。

 うわーん、と情けない泣き声をあげながら涼太は部屋へ駆け戻った。

 ボロボロの畳に倒れ込む。ふと何かに気付き畳の隅に目をやった。

 何ということだろう。消し忘れたタバコの火が畳に引火していた。

 火災報知機は壊れていたのか、それとも検知出来るほどの火ではなかったのか、鳴っていない。

「ハハ、火事か。いいじゃねーか。あの隣のジジイもお節介のクソババアも道連れにして死んでやるよ。じゃあな、地獄で会おうぜ……」

 そう弱々しく言うと涼太は眠りについてしまった。

 廊下の騒ぎに気を取られていたのか、私はこの時ようやく火に気づいた。

 あまり派手に動きたくはなかったがそうも言ってはいられず、何枚かタオルを拝借し、水に濡らして畳の燃えている箇所に被せた。

 幸い火はすぐに消えてくれた。少し焦げ臭いが火事にはならずに済んだので良しとしよう。

 危なかった。ほっと胸を撫で下ろす。

「涼太、私は知ってるよ。あなたはいつも頑張ってる」

 そう言うと私は涼太の頭を優しく撫でた。すると心なしか彼の表情は和らいでいた。

「あんなゴミたちと死ぬのなんかダメよ。あなたは私とずっと一緒にいなきゃいけないんだから」

 この言葉をいつか直接……。いや、私たちに言葉はいらない。いつか涼太は私に気付いてくれる。今は心に余裕がないだけ。きっと涼太は私を求めてくれるはず。

 私は涼太を抱きしめたい衝動を抑え、立ち上がった。今はそっとしといてあげよう。起きた時彼はきっとびっくりすることだろう。そして生きていることに感謝もするだろう。

 タオルは洗濯機に放り投げ、窓を開けて換気をした。畳の焼け焦げた跡はどうしようか。そう思ったが涼太なら自分で鎮火したが酔っ払っていたせいで忘れたのだと思ってくれるだろう。

 それは全部私のおかげ。

 彼には私が必要なのよ。

「涼太、ずっと見てるからね」

 そう言うと、私はいつものように押入れの中へ戻った。

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