第二話
しつけ
これはHさんから聞いた話です。
Hさんの家は、どちらかというと「しつけ」に無頓着なほうだったといいます。「ありがとう」と「ごめんなさい」と挨拶さえしっかりしていれば、怒られることなどめったになかったそうです。
けれどひとつだけ、靴をそろえることにかんしては、厳しくしつけられたといいます。とくに「左右を正しくそろえること」を間違うと折檻を受けるほどでした。両親も、父親の両親も、父親の親戚一同も、みんな靴をそろえることにだけは異様に神経質になっていたようです。
だからHさんは幼稚園に入る頃には、左右の区別が完璧にできるようになっていました。
それは、Hさんが小学校に上がって初めてのお正月でした。
年末を母親の田舎で過ごし、元日の昼過ぎには父親の祖母の家に着いたといいます。
よく晴れて、その時期にしては暖かな日だったそうです。時代物のアニメでしか見たことがない立派な門松がHさんと両親とを迎えてくれました。
玄関の引き戸を開けると、広い三和土いっぱに靴が並んでいました。父親の親戚が一同に集っていたために、実に二十組以上あったそうです。
Hさんと両親も自分たちの靴を、整然とした靴の列に加えました。
家主である父親の祖母に挨拶をし──妖怪めいてしおれた父親の祖母が、Hさんはとても怖くて苦手だったといいます──、一泊二日分の荷物を解き、従姉妹たちや伯父叔母、つながりもわからない親族たちに挨拶をして回りました。
そんなときです。
慌ただしくしていたはずなのに、ふっと、急に間ができました。誰からも用事を頼まれず、誰からも話しかけられない時間が降ってわいたのです。
馴染みのない家で手持ち無沙汰になったHさんは、ぼんやりと家を歩き回ったそうです。
そうして気がつけば、玄関にいました。
びっちりと、靴が整列しています。子供靴、パンプス、大きな革靴、草履。あらゆる靴が一様につま先を玄関扉に突きつけています。
出来心、というわけでもなかったと、Hさんは言います。ただなんとなく、考えるより先に手が動いていたそうです。
──パンプスの左右を、入れ替えました。
クリーム色のパンプスでした。少し履き口が広がってくたびれた印象だったために、左右を入れ替えても目立たなかったといいます。
別段、悪いことをしたという意識もなかったそうです。
だから、そのいたずらをHさんはすぐに忘れてしまいました。
騒ぎになったのは、夕食の準備が始まる頃でした。
一枚板の大きな食卓におせちのお重や出前の寿司を並べる中で、遠縁の女性がひとり足りないことが発覚しました。
中学生になる、女性の娘が不安そうにしていたのを薄らと覚えているそうです。
親戚の集まりに嫌気がさして帰ってしまったのだろう、土地勘がない場所だから近所で迷っているのだろう、と誰かが探しに出ようとしたときです。
──クリーム色のパンプスが、びっしょりと濡れていました。
Hさんが左右を入れ替えた、あのパンプスです。整然と並んだ靴のただ中で、その一足だけが、つま先に水がたまるほど濡れていました。
大人たちは、けれどそれを見た途端に、騒ぐのを止めたそうです。まるではじめから遠縁の女性などいなかったかのように食卓に戻り、席に着き、動揺する子供たちに酒を注ぐように命じました。
その遠縁の女性がその後どうなったのか、Hさんは知らないといいます。
女性も、その女性の娘も、二度と親類の集まりに顔を出すことはありませんでした。その女性の夫──Hさんの父親の再従兄弟だそうです──だけが、何事もなかったように、正月や法事の席に来るそうです。
「誰も」とHさんは眼を細めて言いました。「犯人さがしをせんかったんよ。靴の左右を入れ替えたんは誰やて、だぁれもきかんかったんよ」
せやから助かった、と続けたHさんの唇は、弛んでいたように思えました。
じゆうちょう 藍内 友紀 @s_skula
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