第9話「冬休み」

 冬休みと言っても、冬子には特別やることがあるわけでもなく、ぼちぼち課題を終わらせたり図書館で借りた本を読んだりすればあっという間に年末になってしまう。

 年末と言えば大掃除、なんて思って、下宿中を二日かけて掃除してみたりもした。そのままの流れで石川の住む母屋の方も掃除して、年末の準備もほとんど完了。今日が二十九日で、明日には石川の息子夫婦と孫が帰ってくるだろうか。

 年越しは、この下宿に置いてもらうようになってからは毎年一人で過ごすことにしている。石川は毎年誘ってくれるけれど、家族水入らずの時間に割り込んでは申し訳ないから。


 スーパーで買った食材を片手に、日の沈む細道を歩く。いつもと変わらない夕日も、これが今年最後の夕日だと思うと、なんだかちょっと特別な気がしてくる。何より、お蕎麦が特別な気分にさせてくれるのかもしれない。今日は特別な日だから、いつもよりもちゃんとしたつゆを作って、少し値引きされて売っていた鶏肉も、一緒に入れてしまおう。

「たのしみ、だな」

 たかが蕎麦でも、ごちそうはごちそう。それだけで、足も速くなるというものだ。

 それに、今年は年が明けてからの約束もある。高校に入ってから友達らしい友達ができて、一緒に放課後に遊んだりするようになって。恵たちと、初詣に行くのだ。家の目の前の神社じゃなくて、別の場所。


 お湯を沸かして、出汁を取って、調味料を合わせて麵汁。それから、もう一つ鍋でお湯を沸かして、こっちでは麺を湯がく。

 今年ももうあと三十分と少し。することもないから普段はもっと早くに寝るけれど、この日ばかりはせっかくだからと年を越す瞬間まで起きている。

 こういう生活を始めてから、もう四年になる。あと三月もすれば高校一年生が終わって、高校二年生になって、そうしてすぐに一年も終わって、きっとすぐ高校生活は終わる。

「JKでいられるのも今のうち、かな?」

 そんなことをこの間佳恵が言っていた。

 蕎麦をざるにあげて水を切って、器に移しためんつゆの中へ入れる。夕方のうちに仕込んでおいた鶏肉と、増えたわかめ、それから石川から貰った天かす。

「これでいいかな?」

 適当に盛り付けて、それを持って自分の部屋へ戻る。卓袱台の上に乗っていた数学の課題をどかして、そこには時計を載せる。

「…………いつ食べ始めたら」

 少し肌寒さを感じて、布団を引っ張ってきて被る。いつもこんな時間まで起きていないから、やっぱり眠くて、少し目を瞑って、においだけで蕎麦を楽しんで、お腹を空かせる。それはそれで、ちょっと幸せなのかも。

 ――…………。

「……あ」

 はっと時計を見ると、零時五分。目前には、少し冷めて、伸びた蕎麦。

 ずるずるずるずるずるとすすると、ふんわりと口の中にほんのり甘い汁が香る。

 年越しの瞬間は逃してしまったけれど。

「まあ、いいか」

 蕎麦も食べれたことだし。


 元日、朝七時半。冬子は久々に、天宮家の余った一室――昔冬子が寝泊まりしていた部屋で、白の小袖と緋色の行灯袴、長襦袢、それと紐を数本を持って立っていた。

「じゃあ冬子ちゃん、着替えたら社務所お願い!」

 扉の外からそう声が聞こえて、すぐに声の主がどたどたと走り去っていく音が追随する。雅紀の母の声だ。

 それほど大規模な神社というわけではないけれど、昔からこの辺りに住んでいる人は大抵初詣はこの神社に来るらしく、年始はかなり忙しくなる。どれくらい忙しいかと言えば、冬子が手伝う以外にも、アルバイトを何人か募集する程に。

 窓の外からちらりと神社の方を見れば、境内には幾らか町内会の人が出す屋台が出て、お祭りにも似た賑わい方をしていた。

 巫女装束に着替え、やや速足で社務所へ向かう。脇の入口から入ると、そこでは先ほど冬子に装束を渡してとっとと帰っていった雅紀の母が、水干姿で筆を片手に御朱印帳とにらめっこしていた。

「冬子ちゃん奥お願い」

「わかった」

 奥へ行けば、冬子と同じアルバイトで来た巫女たちがひたすらお守りや破魔矢の類と初穂料を受け取っては渡し受け取っては渡しを繰り返している。冬子もその一番端、あいたスペースで膝を折って、その作業に参加するのだった。


「とろちゃん! やっほ! あけおめ!」

 はたと流れ作業を止めて声のした方を見ると、佳恵がカメラを持って立っていた。結構大きな一眼レフで、首にベルトで提げられている。

「あけましておめでとう」

「似合うねえ」

 佳恵はそう言って、軽くパシャリと冬子の写真を撮った。それから、佳恵の持つお守りを受け取る。

「そうかな……。六百円お納め願います」

「休憩とかある?」

「どうかな、ちょっと落ち着いたら、あるかも?」

 紙袋に入れて、手渡す。

「その辺に居るから、もし休憩あったら教えて、撮影会、やろう」

「わかった」

 佳恵とそんなやり取りをしてから十分ほどで、休憩を貰えた。本当に佳恵は社務所のすぐ近くに居て、その辺にいる人に声をかけては写真を撮って、色々楽しんでいる様子だった。

「そういえば、なんかとろちゃんの巫女服だけちゃんとした奴じゃない?」

 パシャリ。

「そうかも。あんまり考えたことなかった」

「あはは、らしいね。はい憂えげな表情ちょうだい!」

 ――憂えげな表情って。

 なんだろう。


 三が日が終われば、少しは初詣ラッシュもいくらか落ち着いてくる。連日の激務もほどほどに、冬子は自分の部屋で下宿の前を通る参拝客を眺めていた。

 今日は初詣の約束の日で、十時くらいに恵の父が車で迎えに来てくれることになっている。

「でもちょっと、早く起きすぎたなぁ」

 視界の隅にある時計はまだ午前七時を指したばかり。まだ時間までは三時間もあるのに、冬子は既に準備万端。と言っても大した準備があるわけでもなく、着替えと財布くらいしか持っていくものもない。

 財布とティッシュ、ハンカチくらいを入れた鞄は卓袱台の上に、冬子は窓から外に出てみる。

「あけましておめでとう」

 丁度、冬子が部屋を出たそこへ、石川の孫にあたる大聖たいせいが歩いていくところだった。大聖の両親、つまり石川の息子夫妻には一日に石川に挨拶をするのと一緒に挨拶をしたのだけれど、丁度そのときも大聖は出かけていて居なかった。

 これ幸いと、冬子は新年の挨拶をして、近づく。

「冬子か。あけましておめでとう」

 軽く手を振って、大聖はそのまま外へ出ていった。考えてみると、声をかけたはいいものの何を話していいのかよくわからないから、助かったかもしれない。


 窓を開けて外に足を出してぼんやりしていると、高そうな車が下宿の敷地に入ってくるのが見えた。目を凝らすと、車の助手席から見覚えのある顔が笑顔で両手を振っていた。

 ――すごい邪魔そう。

 ぶんぶん振り回される恵の手は、運転する恵の父親の目の前を何度も横切っている。やや迷惑そうな顔をしながらも、無事車は適当な場所に留まった。

「とろ―――っ! あけましておめでとう‼ 今年もよろしく‼」

 車を降りた恵が走ってきて、窓辺の冬子を押し倒す。

「ぐえ」

「なにやってんの」

 後ろから呆れ顔で歩いてくるのは、美紀。さらにその後ろから、佳恵がカメラを構えてじりじりと寄ってきていた。

「あけましておめでとう」

 恵に押しつぶされながら、冬子は頑張って声を出す。首だけ持ち上げると、丁度そこに佳恵のカメラが見える。

「あけおめ!」

「ヨッシー、さっき元旦にとろと会ったって言ってなかった?」

「会った! 会ったけどもっかい言う!」

「はあ…………あけおめ」

「あけましておめでとう」

 何とか恵を押しのけながら、美紀の方を見る。

「あれ? 首どうしたの」

 首に、小さな楕円形の痣が見える。一つではなくて、五つくらい。

「おいおいおいおい聞くな聞くな聞くな察してやれって‼ やっと先に進んだんだぞ‼」

 冬子に覆いかぶさっていた恵が慌てたようにじたばたして、とろの顔の横に手を付いて身体を起こし、そのまま見下ろしてくる。

 ――これが、床ドンというやつ。

「いいか、あの女は年越しを彼氏と共にしたんだ。いいか、夜通し、彼氏と一緒に居たんだ。何も起こらないはず! ないだろ‼ おい‼ 風紀‼ 風紀委員を呼んでこい‼」

「ところでそろそろ……」

「ヨッシー! その女のキスマーク、ばっちり写真に収めただろうな! なあ‼」

「ばっちりよ」

 ――……!

 大人だ。

「でも、キスマークなら洗ったら落ちるんじゃ、ないの?」

 冬子がそう呟くと三人が一斉に冬子の方を見る。それはなんというか、ぎょっとしたような目だ。

「キスマークは、吸って付けるの……」

「え、そうなの」

「口紅じゃないんだよねー、あれ。痣なの」

「そうなんだ……」

 じーっと美紀の方を見る。

「……いやその」

 美紀の顔がみるみる赤くなって、視線がきょろきょろと動くようになる。その後ろを――

「女の子って元気でいいわね~」

「ですねぇ」

 石川と、その息子の嫁が通り過ぎていったのだった。

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とろ 七条ミル @Shichijo_Miru

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