Re: I.N.

椹木 游

RE: I.N.

    女子とオカマの長椅子落語



 憎いほど透き通った二月の空。家の中だというのに息は白く、吸い込むほどに喉が痛い。

 玄関先の土交じりの残雪が煩わしく足をすくって歩きづらい。


 「なつ、いってらっしゃいは?」


 母親のか細い声を扉の閉める音で反応する。所謂いわゆる反抗期の……なんてことない事象である。

 しかし私 ‘伊藤 菜摘いとう なつみ’ は、それとは関係なく親が嫌いだった。


 公園に残された長椅子に横たわってだらだらとする午前中。こんな時間帯に人が居るわけもなく、ゴミを漁りにきたカラスが無警戒にトントンと歩き、やがて私のいる場所に集まった。


 ――バタバタッ


 近くにいたカラス数羽が慌ただしく飛び立った。発生した微風に思わず目を強くつぶった。

「はあ、カラスも私を見限ったのかな」

 そのまま仰向けになる。目蓋まぶた越しにもわかる直上の太陽が瞳孔を貫いて涙が滲んだ。涙が接着剤のようになって、このまま目が開かなくなればいいのに。

 さすがに眩しさを遮るために腕を目に乗せた。緑のミサンガが鼻にかかってむずがゆい。

「ちょアンタねぇ。少し詰めなさい、座れないじゃないのよ」

 見慣れない姿が太陽に重なった。薄目で確認すると、真っ先にミディアムショートの黒髪が目に飛び込んだ。サラサラで、それでいて艶やかで、テレビに出ているその辺の女優より髪が綺麗だったからだ。でも顔と声色はまあまあ男のそれだったから頭が余計混乱する。

「ねえ、聞いてるの? 最近の若い子ったら……あちょっと!」

 再び寝返りを打つ。それが私の返答だった。

「ははぁん……ま、いいわ。好きにさせてもらうからね」

 そういいながら、曲げた足の隙間にちょこんと座った。ギリギリお互いに触れていない。

 袋のガサゴソという音と、大きくほおばる音が私の背中越しに聞こえてくる。


 ――ぐう


 空気を読めない私の腹の虫が食い物を求めてぐずり始めた。

「……なによ、あんた。ご飯まだなの?」

「朝はいつも抜いてるの」

「ちゃんと食べないと肋骨見えるくらいガリガリになっちゃうわよ」

「なにそれ、アンタに関係ないじゃん」

「関係ないことないわよ。日本国民はね健康で文化的な最低限度の生活が保障されてるのよ。学校で学ばなかった?」

 一言一言の間に小刻みに食べ物をほおばっている。それに口ではなく腹が代わりに呼応する。

「しょうがないわね。袖振り合うも他生の縁ね……サンドウィッチと蒸しパン、どっちがいい? ちなみにサンドウィッチはハムタマゴかツナよ」

 私は無視をした。余計なお世話だからである。決して知らない人に声を掛けられたらとか、そういうのではない。お腹に目一杯力を込めて、腹の虫が鳴かないように念じた。

 その状態でいくら時間が経っただろう。恐らくだがこのオカマはサンドウィッチと蒸しパンを手に持ち、差し出した状態で待機している。何故なら『どっちがいい』と聞かれてから新たな物音がしなかったからである。

 だんまりを決め込もうと思い無視していたが、いたたまれなくなりやむを得ず答えた。

「サンド、ウィッチで」

「素直でよろしい」

 私は舌打ちで呼応した。反抗期の昼、まったくもって不愉快な出会いである。


 少しばかり、時間が経った。私の荒れる腹の虫も少しは落ち着いたようだ。

「いい? これからはちゃぁんと食べるのよ。反抗期娘ちゃん」

「うっせ、セクハラで訴えっぞ」

「わー怖い。訴えるなら先に三百円返しなさいよ」

「はあ!? 二百六十円くらいだろ。盛んなし」

「なによたった四十円くらいなら安いもんでしょ? たんまりお小遣い貰ってるくせに」

「意味わかんない、あくどっかいけよ」

「はいはい、言われなくても行くわよ……アタシも暇じゃないの。さながらその姿、さっそうと駆け抜ける黒い革ジャンのライダー」

「人呼んで」

「郵便配達のアルバイト」

「だっさ」

「うっさいわよ」

 そういいながらよく見かける配達用のスクーターに乗って行ってしまった。

「ヘルメットかぶってあの髪質維持してるとかヤバ。ってか見た目ダサ」

 不思議と私の口角は上がっていた。気が付いた私はすぐに顔を振り真顔に戻した。

 打って変わって暗くなってくる天気にため息を吐いて、制服のスカートの上に落ちたパンくずを口に放り込んで立ち上がる。

「アホらし、帰ろ」

 カラスがその姿を見送ってから、再びゴミを漁り始めた。



    奇遇にも雨嫌い



 空は黒く、すっかり解けた雪のないコンクリートからは雨の匂いを漂わせていた。

 手紙と気を配達し終えた私は自慢の髪をなびかせながら、さながらランウェイのごとく歩道を歩いていた。程なくして到着したアパート‘オリオン’の一階角部屋、駐輪場前を通って一番奥の部屋が私の家だった。


 ――あ


 その間の抜けた単音を合図に目が合った。理解するのに要した時間は一秒に満たなかった。

「え、なんでここにいんの?」

「それはこっちの台詞よ、アタシの家の駐輪場で雨宿り?」

「あんただけの家じゃないでしょ」

 言葉にいちいち生えた棘が気になるが、それよりも格好が変わっていないのが気になる。

「あんたも暇ねえ」

「好きで暇やってねえし」

「じゃあご飯でも食べる?」

「は?」

「上がってく? って言ってんの」

「な、なんの『じゃあ』だよ。てかお前だろうが、余計な世話焼くなっつの変態」

「はあぁ!? あのねえ、世の中に男と女しかいないと思ったら大間違いなのよこの小娘! アンタみたいなガリガリの不健康そうな女なんて、たとえピッチピチの女子でも眼中にないのよ」

「はあああぁ!? これでも両手で数えきれないほど告られて来たんですけど! お前みたいな中途半端なやつに言われたくないし! これはダイエットですー!」

「へえダイエットねえ……ダイエットにしては美味しそうにサンドウィッチ食べてたけど?」

「あれは別に、おお、お前が折れねえから……」

「ふううんアタシの事を思ってくれたんだ、これはどうもありがとうねー」

「うっせ! はやくどっかいけよオカマ!」

「言われなくても私には帰る家があるんだから、さっきのお誘い後悔しても知らないからね!」

「しねえよ馬鹿!」


 ――バタンッ


 ほとんど外と変わらない冷え切った玄関を閉め、熱くなった喉との温度差を感じながら電気をパチッと付けた。靴を揃えてもこもこのスリッパに履き替える。

 「ただいまー! 人の善意を素直に受け取れないなんて、可愛そうにねー」

 ベッドの上で布団をかぶった状態で待機させておいた犬のぬいぐるみに声をかける。

 暖房をつけて、あったまるまでの間で夜食を作る。

 「さて、今日は……」

 冷蔵庫に張られた献立表(自作)を指でなぞりながら確認する。しかしすぐに止まった。

 ふと、ずっと外にいたであろう口の悪い女子の姿を思い浮かべる。

 「きっとあれから何にも食べていないに違いないわ。ちゃんとコンビニのサンドウィッチの値段を言える子に、悪い子はいない! 口はすっごく汚いけれど!」

 バイト先のおばちゃんから貰ったジャガイモ三個、売れ残って安くなっていたニンジン一本、たまねぎ二玉とかさ増し用のもやし一袋。そして鶏肉を取り出して閉めようとする。

 「あ、いけないいけない!」

 牛乳とシチューのルーを慌てて取り出した。危ない危ない。

 力任せにササっと切り分け、具材を炒めている間に鶏肉を開封しこれも切っていく。そして火が充分に通ったところで鶏肉をそのまま入れる。

 電子ケトルに入ったカルキの抜かれた水道水を程なくして投入し、煮込んでいく。

 沸騰し始めたところでルーを割って入れる。そしてとろみが出たところで牛乳も流し込む。

 じんわり良い香りがしたところで火を止め、百円均一で買った何の特徴もない器に具材多めでいれていく。それを二つ用意するのだ。

 ひざ掛けを肩に巻き、何食わぬ顔を装って私は玄関の扉を開けようとする。

 「あ、いけないいけない!」

 慌てて木製スプーンを器に突っ込んだ。危ない危ない。




 出しっぱなしの舌がこれ以上冷えないように仕舞い、貧乏揺すりをしながら駐輪場の手すりに肘をつく。自分で出した音ははたから聞くと案外大きいんだなと思ったが、すぐに思考は寒さによって支配された。

 やがて、雪に似た雨もひどくなり一層辺りは暗くなっていく。駐輪場の自動灯が中途半端に周囲のみを照らす。この頃になると周りの家屋からは夕ご飯のいい匂いがしていた。

 お腹が大きく響いた。虫がぐうと鳴くたびに少し恥ずかしい上に、手先がどんどんと冷えて感覚が無くなっていくような気がした。

 

 私は一体何時間こうしているつもりなんだろう。別に喧嘩をしたわけでもなければ、一方的に毛嫌いしているだけなのに、なにかがつっかえて素直になれない。なるつもりもない。

 お父さんは何も言わない。何も言ってくれない。私のことが見えていないのかもしれないと思うほどに、まるでそれが一種の教育方針であるかのように振る舞う。

 「はあ」

 どこからともなくシチューのいい香りがする。吐かれた息は白くなかった。

 いいなあ、きっと家庭ではこんなひねくれた反抗はしないんだろうな。そう思うと急に惨めになってきた。涙も出ない。


 ――ガチャリ


 誰かが出てきた。このアパートの住人だろうか、これ以上惨めな気持ちになりたくない。こちらには来ないで欲しい。そんな思いとは裏腹に、こちらに容赦なくずけずけとやってくる。

「ほら」

 あまりに突然だったため、自分に掛けられた声だとは思わなかった。

「ほうら」

 手すりを掴んでいた手の甲に、妙に温かい湯気立った何かが乗っけられた。

「シチュー?」

「早く食べなさい、冬の寒さはお肌に悪いわ」

「ちょ、何して」

「何って何? まさか食べ方もわからないのかしら」

「ちげーし、別に」

 鼻を啜ってから、お椀を持って中に入っていたスプーンでもって勢いよく口へ放り込む。

「ちょっとアンタ火傷するわよ? ってもう遅いか」


 ——はふはふ


 吐息で湯気がくゆる。熱いという程熱さは感じず、美味しさだけが舌に優しく残る。

「バッカじゃないの?」

「アンタよりかマシよ」

 小刻みの息が続く沈黙の夜。手すりに向かう女子と寄りかかるオカマ。いつの間にか火がつけられた煙草は空中に新たな白煙を作っていた。

「アンタ、そういう顔もできるのね」

「は? どんな顔だっつの。ってか副流煙キツイんだけど。あっち向いてよ」

「ちゃんとあっち向いて吐いてるでしょ、気のせいよ、気のせい」

「変なの」

「アタシもそう思うわ」

 トントンと落とした煙草の灰がぽとりと落ちて、崩れた。

「なにこれ……もやし? シチューにもやし?」

「なんか変? なんにでも合うんだから。の味方よ」

「聞いたことないんだけど」

「あら、やっと笑ったわねえ」

「うっせ、こっちみんな変態」

 いつの間にかオカマは食べきっていたようだ。オカマは片手に器とスプーンを持って、器用に煙草を吸っていた。

「アンタ、なんで家に帰らないの?」

「別に、親が甲斐性なしで愛想尽かしただけ。……なに笑ってんの、そんなにおかしい?」

「いや別に、アタシも似たような時期があったなって」

「おなじにしないで」

「はいはい」

 手すりの平らなところに器とスプーンを置き、懐から灰皿を取り出して消した。灰皿というよりドロップスのような空き缶だった。丁度食べ終わった私はそこに器とスプーンを重ねた。

「いうことは?」

「ありがとう、と……ごちそうさまでした」

「ん、お粗末様でした。なあんだしっかりしてるところはしっかりしてるのね」

「お前、アタシを何だと思ってるのさ」

「ん~反抗期の生意気小娘。絶賛思春期真っただ中ってところカシラ」

「やっぱうざ」

 先ほどより弱まった雨の降る冬の空に、短い悪態が吐き出された。

「やっぱアンタ、そんな顔してた方がずっと良いわよ」



    時代遅れのやり取り



 「ただいまー」

 冬の寒さが続くオリオンの一階、角部屋の自室でご主人の帰りを健気けなげに待つ犬のぬいぐるみに声をかける。毎度返答はないが、それでいい。

 あれからあの小娘と会う機会は無い。しかし代わりと言ってはおかしな話だが、ひょんなことから文通の仲となったのだ。

 事の始まりはあの小娘からだった。あいつは私の家を知っていて、気が向いた時にポストに手紙を入れてくるのだ。私はあの小娘の家を知らないから、ポストに入れていると勝手に持っていくという仕組みだ。

 なお、いまだにお互いの名前は知らない。ただ、なんとなく性格が読めるようになったくらいだ。そうしてわかったが、あいつは私にどこか似ている性分をしているようだ。

 今日も半ば日課のようにポストを覗いたが、私が書いた手紙が入りっぱなしだった。

 「変ねえ、いつもならもう入っててもおかしくないのに」

 普通なら三日程で返答があったくらいの頻度であったのにも関わらずここ二週程やり取りが途絶えている。差し詰めなにか環境が変わったのだろう。人間の活動の性質上、環境が変わる事なんてごくごくありふれたことなのだから。

 「さて、今日の献立は……」

 いつぞやのように冷蔵庫に張られた献立表(自作)を指でなぞりながら確認する。しかしまたすぐに止まった。なぜならシチューだったからだ。

 向こう数ヶ月、同じような周期で組まれた献立は再びシチューの日を表示していた。

 思い出が強烈なだけにあの光景が浮かんでくるようだった。

 「アタシの隠された母性がうら若き乙女の安否を心配しているワ!」

 しーんとしているが、特にツッコミがあるわけでもないのは重々承知のため何食わぬ顔でシチューを作り始めていた。

 やがて完成したシチューを片手におもむろに外へと向かっていた。


――カーカー


 雪が少し積もった季節の夜に見るものなど特に無く、ただ何かを知らせるために鳴くカラスの動向くらいしか見るものが無いためじっと眺めていた。

 「こんな寒い季節にご苦労ねえ」

 そんなことを呟きながら、淡々と口に運ぶシチューは相変わらず美味しい。

 特に喋ることもなく、すぐに食べ終わって一服をする。鼻を啜りながら口から白い息を吐く。

 ゴミを漁るカラスを見ていると、ふと疑念が沸いた。

 「そういえばこんな時間に出るゴミってなにかしら」

 時間で言えばもうゴールデンタイムに近いころだ。こんな時間にゴミを出すなんて、教養も素行もあったもんじゃないわね、と思いながらただ見ていた。回収忘れかしら。

 カラスが街灯の下にそれを持って来た時、もちろんゴミも一緒に照らされるのだがそのゴミの中に見覚えのあるものがあった。とはいえこの距離では『まさかね』の域を超えることは無い。

 しかし相手はお節介を自負する変人。手すりに器を置いて恐る恐るゴミに近づいていく。

 そしてこういう時は何故か予感が当るものでその『まさかね』が『嘘でしょ!?』に変わったのである。そこには緑のミサンガと手紙が捨てられていたのだ。

 馬鹿げたことをしているのはわかっているものの、結ばれた口を解いて中から取り出す。

 「やっぱり、そうよね! 凄いわアタシ!」

 見慣れた雑紙の便箋、宛先のないそれには見覚えがあった。

 しもやけた手でもう一度結び直して手紙とミサンガを抱え家の中へと運び入れた。

 手すりの上に置かれた器は既に凍り始めていた。




 「ただいまー」

 最悪な住処へとまた帰って来た。ここしばらく反抗する力は抑えられている。それは手紙のやり取りのおかげだったかどうかはわからない。

 ただいまといっても帰ってこないのがこの家だ。ぬいぐるみと喋っている方がまだ利がある。

 私はリビングを通らずに二階の自室へと向かっていた。

 そこには書きかけの手紙が置かれていた。もう何度書き直した事だろう。書いて消してを繰り返した結果、黒くなり過ぎた場合は新たな紙に書きなおしているがすでに十回目くらいだった。

 二週間程前、私は聞いてしまったのだ……両親の会話を。

 あの甲斐性なし達が何の話をしていようが関係ないのだが、それ以前に深刻そうな会話をしているようだったので珍しくて聞いてしまった。

 内容は『離婚』だった。お母さんの方がもうやっていけないらしい。所謂精神的限界という理由だ。お父さんは否定することも肯定することもなく、ただ静かに聞いていた。時折、反論していたように聞こえるが、母優勢であることが変わることはない。

 親権は私が母に。妹が父に、と言った具合に分かれるらしい。離婚したらどうなるのだろうか、苗字が変わったり引っ越しをしなければならないのだろうか。どちらにせよ金銭面を天秤にかけても離婚に踏み切った母の考えが正しいかどうか、それはやってみなければわからない。

 あのオカマにどうやって伝えようか。いや伝えるべきだろうか。そんな考えが頭を支配して止まず今に至っている。いっそ雑談で終いにしようと何度思ったことか。


――はあ


 ため息ばかりがこの部屋に沈殿していくようで、すっかり息がしづらくなっていた。

 肝心の話は直接両親から聞いていないためこちらも何も言えていない。ただ機があるとするなら四月の新学期だろうか。

 「あー、あほらし。なんか書こ」

 そう言って書こうとするもやはり集中できない。悩みを相談するような書き方になってしまうのもしゃくに障る。手首に付いたミサンガを引っ張ったりねじったりする。ぼーっとするときはよくこういうふうにしていじっているのだ。

 このミサンガは(元)彼氏から貰ったもので、『切れたら結婚しようね』とまで言い合った仲だったのだが、今では思い返すだけで体中が熱くなるほど馬鹿げていると思う。

 なお不登校気味なのもそれが原因だったりするのも赤面ものだ。

 きつく締め過ぎたあの時の私を恨むというものだ。しかし、いじり過ぎてもう取ろうと思えば取ることができるのだが、こうなったら切れるまで着けておこうという気になったのだ。

 ピンと、私の中にいいアイデアが出てきたのだ。すぐさまペンを持ち打って変わってすらすらと書いていく。口元はほころび口角が上がっていた。

 「アタシって天才!?」



    I.N.



 透き通っていたら気持ちがいいだろうにそんなことはなく、三月の早朝より少し前の時間帯のため空はまだ暗い。そして暖房のせいで喉が乾燥して痛いという最悪の朝だ。

 水をぐっと飲んでヘルメットを持って玄関に行く。片手にはミサンガと新たに返答を書いた手紙を持っていた。すでにしわができている。

 昨日の夜に読んだ手紙には、引っ越すかもしれないことやもう会えないかもしれないといったことがつらつらと書かれていた。そして最後には『I.N.』と書いてあったのだ。

 「何が『この手紙を読んでいる頃には私はこの街にいないでしょう』よ、ドラマか映画の見過ぎじゃない? 見つかりたいのか、見つかりたくないのかはっきりなさいよねっ!」

 玄関先に並び置かれた鍵の中で、自転車と家の鍵だけを持って駐輪場に急ぐ。ぶしょったい大きなカゴの付いた自転車のスタンドをガシャンと上げて、自転車を腰に寄りかからせてカゴに入れていたヘルメットをかぶる。

 「アタシの休日返上は高くつくんだから」

 そうしてオカマは独り『I.N.』というイニシャルを頼りに、おおよそ望みが薄い中ではあるものの片っ端から引っ越しのトラックめがけて自転車を走らせるのであった。




 目が覚める。すでに引っ越し業者は来ているようだ。何度か妹が起こしに来た気がするが、その顔を見ると行きたくない感情が爆発しそうになったために無視をしていたのだ。緊張とそういうのが相まって、最悪の起床となった。

 引っ越し業者と言っても母と私が出ていくだけなのでそこまでの荷物は無い。滞りなく進むかどうかの不安より、あのオカマに届いたかどうかの期待の方が大きかった。

 お母さんは前よりずっとげっそりしており、昨晩は妹とずっとなにか話をしていた。私はというと、妹の連絡先は知っているからそれで連絡を取ろうということで話は付けていたのである。

 「おはようー」

 いつもを装って起きるもやはり家の中は、まるで合宿をしているように片付いており、とてもリラックスできるような空間ではなくなっていた。そんな雰囲気をそっくりそのまま写したような空模様であった。どっちつかずの曇天。

 「お母さん、もう出る?」

 「あら、おはよう。もうすぐ業者さんが家に向かい始めるから……そうねあと三十分くらいに出るわ。それまでに身支度、できる?」

 「ん」

 そんなやり取りをしてから洗面所に向かう。

 「洗顔は置いてくんだ」

 歯ブラシはいつぞやの使い捨て品だった。自分のはもうトラックの中だろうな。

 「あ、お姉ちゃん。おはよ」

 「うん」

 「連絡取れなくなるわけじゃないのに、寂しいね」

 「ん」

 「すぐ、会える?」

 「わかんない。けど会お」

 「うん!」

 下を向いたまま水が温かくなるのを待つ中で応答をする。今自分の顔を見るのが怖い。

 「じゃあ私……友達の家行ってくるね」

 「いってらっしゃい」

 妹は気を使ってわざわざ今日、友達と遊ぶ約束を取り付けてくれたのだ。別れのその瞬間……妹はともかく、私が耐えられない。

 山場を一つ越えた私は、ここで座って待つ余裕などなくただうろうろとしていた。しかし体は疲労を訴えてくるため一先ず壁に寄りかかった。

 携帯で引っ越し先の情報を調べる。それくらいしかすることがなかった。どんな部屋なのかもわからない。どこか怖くて聞いていなかったのだ。

 ササっと着替えて寝間着を洗濯機に入れる。妹の名前が書いてある寝間着だ。私のは言わずもがなである。

 そういえば苗字は変わらないようだ。婚氏続称こんしぞくしょうというらしい。手紙に書いたイニシャルは変わらないからきっと届いていたら、目印にはなるだろう。

 「あいつ、いい奴だったな」

 その声を合図にしたように、ポツポツと冷たい雨が降ってくる。そして最後のトラックが新居へと向かった。間もなく母が迎えに来るだろう。

 この家ともお別れだ。浮かない顔をしているのは鏡を見なくてもわかる。


――キキーッ


 けたたましいブレーキ音が鳴り響く。朝からうるさいなあとイライラしながら玄関先へ出る。

 こんな寒い時期に、自転車を猛スピードで走らせるなんて命知らずか物好きか、どの道変人であることは間違いないだろうなと思う。

 家の前付近に止まった母の自家用車に向かう。視界の端で、覚えのある何かをみた。


——さっそうと駆け抜ける黒い革ジャンのライダー


 認識する前に口がそう呟いており、まさかと思っていながらもその方向を見た。


 「ああん! 見つけた!」


 低い声に反してさらさらとした髪をなびかせて、カゴにヘルメットを入れたオカマが私を指差して叫んでいる。

 「ヘルメットかぶってそのサラ髪ヤバ。ってか見た目ダサ」

 「うっさいわよ……それよりこれ、アンタに返すわよ」

 「手紙、と私のミサンガ?」

 「あのねぇ、見つかりたいのかそうじゃないのかはっきりなさい、はっきり」

 「いちいちうっせ! なんだよわざわざ来てまで小言かよ!」

 「いいえ、そこにはアタシの住所と電話番号が書いてあるわ。いつでも連絡してきなさい。嫌になったらうちに来なさい……そう言いに来たの。言いたいことだけ言ってバッドエンドなんてアタシは絶対に嫌。だから来たのよ」

 「んだよ、それ」

 雨は強くなってきていたが、頬を伝うそれが涙かどうかがわかるのはこのオカマだけだった。

 「そんな顔もできるのね」

 「今まで我慢してた分が出たんだよ。こっちみんな馬鹿、変態、オカマ」

 「はいはい、どーとでも言いなさい小娘が。……はいハンカチ」

 「ん」

 「ほら雨が強くなってくるし、寒さは乙女の大敵よ。それにお母さんが心配するわ」

 「だな、母さんにアンタを説明するの面倒だもん」

 「アンタね! ぜんっぜん減らないお口ちゃんね!」

 ポカポカと笑い合う二人。結局お母さんが気になって出てきてやっぱり面倒なことになったのはご愛敬ということで。

 後で気が付いたけれど手紙にはちゃんと『Re:I.N.』と書かれていた。律儀な奴。

 ちゃんと電話番号からお友達登録したのはここだけの秘密で。


 アパート‘オリオン’の一階。駐輪場の手すりに置かれたまますっかり忘れ去られた器には雨水が少しずつ溜まってきていた。その雨水を飲みに、カラスが一羽止まって鳴いていた。

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