復仇(六)

 江戸の夏というものは、人が多い所為でございましょうか。昼夜常に蒸し暑く、四方八方へ伸びる水路からは、大量の蚊が唸り生ずるような土地でございました。

 その日、非番の午後、私はいつものように悪処へとまろび歩いておりました。すでに三合ほど飲んでおりましたので、川風に涼もうと墨田堤辺りを拾い歩いていた時にございます。

 不意に、おのれの名を呼ばれました。振り返ると、若い武家の妻女がおりました。幼い四、五才の男児を連れております。

 それが貴方様の、六郎殿の姉上でした。かつて、橘三郎様のご新造であった春様です。

 私は驚いて、どうされたのかと訊ねる間も無く、春様とお子の身なりに気付きました。

 くたびれた旅装束に白い襷掛け、お子も幼いながら袴を着付け、脇差を帯び、額に白い鉢巻を巻いておりました。

 その時、どれだけ私の背筋がぞっとしたか、六郎殿はお分かりになりましょうや。

 春様は、申しました。

──橘三郎、あれが父上様の仇です。しっかりご覧なされ。

 私を指差し、朗々と告げたのです。

 江戸の下々は、物見高いものでございます。声高な春様の宣言に、土手にいた老若男女が見る間に寄ってきました。あっという間に黒山の人だかりでございます。

──皆さま、これは仇討ちでございます。どうか、どうか武家の倣いにて、ご静観下さいませ。

 そう言う春様に、私は一度機に酔いも吹き飛びました。

──仇討と申されるか。

──あなたは夫の仇ございます。

 春様は思い定めた、夜叉のような形相でございました。目は血走り、痩せて、到底正気とは見えません。国許を出奔したなどと思い至らず、私はまず落ち着けようと、禁を犯してはならぬ。お子を大事になされよ──そう言おうとして、ふと、躊躇いました。

 禁とは、当然ながら復仇またがたきでございます。仇討ちを連鎖させぬ為の、犯してはならぬ禁でございます。しかし、春様は承知の上で追ってきたのでございましょう。睨むその眸に瞬間悟り、さらにこうも思いました。

 ならば、討たれて進ぜよう。

 本当に、心底から、その時はそう思ったのでございます。お子の手に掛かり絶命すれば、橘三郎様もきっとお許し下さる。この屍のような日々も漸く終わり、穏やかな夜がやって来る。そのように思い至ると、安堵さえして参りました。

 同時に、ならぬ考えが蛇のように首を擡げます。お二人は私を討ち果たしたのち、咎人となりましょう。町方が天晴ともて囃そうと、復仇は重罪でございます。子諸共、死罪は免れますまい。

 なんと愉快なことか。あれ以来、悔恨と嫉妬が私を燃やし続けておりました。炭になってもその炎は消えず、ちろちろと熾火となって炙り続けているのでございます。そんなおのれに、ほとほと嫌気もさしてもおりました。

 私は草履を脱ぎ、下緒で襷をかけ、股立ちを取りました。大刀を抜いて上段に構えます。

──いざ。お父上の仇を、見事討たれい。

 幼いお子は、震えながら身の丈に余る小太刀を構えています。春様は懐剣を手に、お子を庇うように立っておりました。

 私は隙だらけです。碌に道場へも行っておりませんので、なまくらも鈍。町人相手でさえ、打ち合えるかどうかという為体ていたらくでございました。

 なのに、世の中は、まったく先のわからぬものでございます。往々、親切心はあだになるとか申します。

 最初の一投は、誰だったのか。母子を哀れと思ってのことでございましょう。

 人垣から投げられた石が私の額に当たり、血が流れました。目に入ったそれを拭おうとしたその瞬間、春様が全身で飛び込んで参ったのです。同時に、四方八方から石礫が降り注ぎました。小石ばかりではございません。拳ほどの石までが、私目がけて投げつけられました。

 その一つが、春様の髷に当たりました。あっと頭を押さえ、お子を庇って抱き込もうとしたその瞬間、なんとお子の構える小太刀が春様の肩口に入りました。間の悪いことに、驚いて握った柄が、さらに刃を母親の身に押し込むことになったのです。お子は叫んで手を離し、母親に縋って泣き出します。春様は蒼白の面持ちで我が子を嗜め、投げ捨てた小太刀を拾い、私に打ち掛かって参りました。すべてが、一瞬の出来事です。

 私は、本当に討たれるつもりでいたのです。

 なれど、人の本性は卑怯、怯懦にございます。

 その瞬間、私はおのれの刀で小太刀を払っておりました。無心で刀を返し、斬り下げていたのでございます。

 辺りが、しんと鎮まり返りました。

 足元には、二つの屍。虫の息の奥方は、手を上げ、指を曲げ、お子の名を呟き、果てました。

 途端、私は刀を捨て、川の流れを目指して走り出しました。その場をとにかく離れたかった。水を掻き、潜り、広い広い墨田川の流れへ泳ぎ出し、息が続く限り、掻き続けたのでございます。皮肉にも、かつて橘三郎様より手解きを受けた、水練の技が役立ったのでございました。


 夜半、お長屋へ戻りました。騒ぎは届いておらぬようで、誰も私を責めることはありませんでした。

 そもそも復仇でございます。責めるも咎めるもありません。

 私は討手となった春様を殺し、幼いお子をも手にかけたのです。

 誰も責めませぬ。誰も咎めませぬ。誰にも罰せられぬまま、おのれが生きているのか死んでいるのか、薄暗闇にいるようで定かではございませんでした。

 私は、此処で一体何をしているのでございましょう。

 長い間、青い刃文を見つめていたのを憶えております。やがて刃先を立て、先鋒きっさきを頸にずぶりと沈めました。ひゅうと虎落笛が鳴りました。噴き出す我が身の血で手が濡れた時、感じたのは穏やかな虚無でございます。幾度問われようとも変わりません。あれは、虚無でございました。闇を闇とすら覚えず、嬉しいも悲しいも怒りも妬心もなく、おのれさえ在らぬ虚無でございます。

 はい。、何を感じたのか、どのように思ったのか。それを知りたいとそう申されるのですね。幾度お尋ねになっても答えはひとつ。それでもまだ、お聞きになりたいとそう申されるのか。

 構いませぬ。時は無限。それは六郎殿も同じでございましょう。

 さては、この哀れな馘による馘物語り。最初から語り返しましょうぞ。




(了)





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馘物語 濱口 佳和 @hamakawa

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