老婆が飛車を振る話

@moirogue

老婆が飛車を振る話


「えっ?!」

私は思わず大きな声を出してしまい、慌てて口を抑えた。

市役所内の人々は一瞬こちらをチラリとみたが、またすぐ視線を落とし自らの仕事に戻った。

空調の効いたロビーでは市民が列をなし、職員達が応対している。

時刻は昼下がり、初夏の日差しが窓から差し込んでいた。

そして、私の前には小柄な老婆がいた。

今に消え入りそうで、しかしできうる限りの礼儀をもって私と目を合わせてくる。

再度、老婆の口が動く。

「……ほんにすいません。私の代わりに、飛車を振ってはもらえんでしょうか…」


老婆の見やる方向を私も見る。

[高齢者年金受給申請]の案内が天井から吊り下げられている。

そこには寄り付きがたい雰囲気をまとった職員がいた。

私は老婆とともにその受付に近づき、とりあえず職員の顔を覗き込んだ。

机の上にはゴム盤が置かれ、駒が初期配置で並べられていた。

ああ、と気付く。身分証明の途中だったのかと。

「身分証は出したんだけども、そのぉ…」

老婆がおずおずと語る。

日常生活での身分証明といえば身分証の提示で事足りるが、役所のように正式な手続きが必要になるところだと飛車を振る必要がある。

健全な精神の持ち主ならば、当然飛車を振れる。だからもちろん形だけのものだ。

(でもたまに飛車先を突く人がいるらしい。そういう人の持ち物検査をしたところ、テロを未然に防ぐことができたなんて話も聞く)

しかし、この老婆はなにかしらの事情で飛車を振れないのだ。

「……成人証明の飛車を振るという手続きって、省略できないんですかね?」

愛想なく佇んでいる職員に私は声をかけた。

「規則ですので」

返ってきた答えは短かった。

なんと冷たい職員だろうか。この老婆はしっかりとした身分を持ち、(今はちょっと申し訳なさからか萎縮しているが)受け答えだってしっかりしている。

自分の意志で正常な判断を下せる成人だ。

たしかに、その、飛車を振れないというのは問題があるかもしれないけれども。


コホン

職員は短く咳払いした。

「身分の証明には、身分証の提示、飛車を振ることの2点が必要です」

そんなことは知っている。

「ただ、身体に障害があるなどの理由で飛車を振るのが困難な場合、代理人による飛車振りが認められています」

もう一度老婆を見やる。歳相応に腰は曲がっているものの、動作に支障はないように見受けられる。矍鑠としたご婦人だ。

飛車を振るのに身体的障害などありはしない。

いったいどういうつもりだと職員にまた目を向けたところ、彼女はじっとこちらを見ていた。

老婆が申し訳なさそうに口を開く。

「……わしは、居飛車しか指せんのです」

私はようやく気づく。

この老婆は飛車の振り方自体が分からなかったのか、と。

いまや日本の識振率は100%といえど、昔はそうではなかった。農村部などでは教育が行き届いておらず、居飛車しか指せない人も少なくなかったという。

「ええと、身体に障害があるなどの理由で飛車を振るのが困難な場合、代理人による飛車振りが認められているのですね」

私は改めて職員に尋ねる。

職員はこちらを一瞥し、ようやく分かったかという顔をしつつ、「はいその通りです」と答えた。

なんのことはない、最初から職員は助け舟を出していたのだ。

規則の体裁を保ちつつ、老婆に身分証明してもらう方法を。

そもそも最初から老婆は私に代理を頼んでいた。

私が事態を理解できず空回りしていただけだった。

老婆の介添えをすることにして、私が振ればそれでまるく収まっていたのだ。


私は老婆に、ゴム盤の前に座るよう促した。

「その、わしは……」

「いえ、どうぞ座ってください。手は私が添えますから」

にっこりとほほ笑むと、老婆はようやく覚悟したのかゴム盤の前に腰を下した。

老婆の右側には私が立ち、そして対面には職員が座った。

振り駒の結果、老婆の先手に決まる。

老婆は私のほうを見上げ、やや自信なさげな、ただし指しなれた手つきで7七の歩を持つ。

私は静かに頷き、無言で促す。

ピシッと良い音が響き渡った。老婆の初手、7六歩だ。

職員は一拍間を置き、3四歩と指した。

「いつもはここで2六歩と指すんだども…」

老婆は口ごもる。飛車先を突くのだって立派な手だ。幼稚園ぐらいの子ならば。

ただ、やはり野蛮、無教養の誹りはまぬかれないだろう。

身分を証明するならばもっと洗練された手を指さないといけない。

老婆はやや迷うような手つきで6七の歩を触った。うん、大丈夫。

私は無言で力強く頷き、老婆と瞳を合わせた。

老婆の3手目、6六歩だ。

職員は8四歩と返す。さあ次だ。

「……ここまでは指せるんだども……」

老婆はこちらを見上げ、戸惑っていた。ここから先が本当に分からないのだろう。

今では誰だって飛車の振り方を知っている。しかし、ご年配の方には極一部そうでない人もいると聞く。

ご老人を辱めるのはしのびない。

私は自分の右手をそっと老婆の右手に重ねあわせ、そのまま2八の飛車を持たせた。

「いい、お婆さん?こうやって飛車を持ってね…」

そうやって私は老婆の右手を6八の地点まで動かした。

「そう、ここ」

パチリ、と小気味よい音を立て、老婆の指は6八に飛車を置いた。

6八飛。まごうことなき振り飛車だ。美しく、知性と高潔さに満ちた局面が、盤上に現れていた。

「これが、これが飛車を振るってことですか……」

自分で飛車を振れたことが、本当にうれしいのだろう。

老婆は慈しむように、6八の飛車を撫でていた。何度も、何度も。

「……はい、ありがとうございます。これで申請は完了です。書類は後日ご自宅まで郵送されますので、失くさないよう保管をお願いします」


「ほんに、ほんにありがとうございます」

市役所を少し出たところで、老婆に深々と頭を下げられた。

時刻は14時半、私はもう少しこの老婆と話がしたくなり、喫茶店へと老婆を誘った。

そして老婆からいろいろと話を聞かせてもらった。

自分は貧乏な生まれでロクな教育を受けられなかったこと。

ちょうど戦争が始まり、生きていくのに必死だったこと。

結婚してからは夫に振ってもらっていたが、昨年先立たれてしまったこと。

ほんとは振り飛車を指したかったけども、恥ずかしさからついぞ言い出せなかったことなどだ。

「お婆ちゃん、今からでも遅くないよ。飛車を振れるようになろう!」

気づいたら私はそんなことを言っていた。

老婆は目を丸くしていたが、先ほどよりもさらに深く頭を下げられてしまった。

今度の土曜日に振り飛車の指し方を教える約束をとりつけ、老婆とは別れた。

去っていく老婆の顔は溌剌としており、生きる活力に満ちていた。

私は自分にできる善行を積めて、ちょっと誇らしい気持ちになっていた。


ああ、それにしても最初大声で聞き返してしまった自分が恥ずかしい。

老婆はもっと恥ずかしい思いをしただろう。

勇気をもって私に声をかけてくれたのだ。

老婆の思いを無駄にすることにならなくて良かった。

そして私は、過去の戦争のことを思った。

戦後久しいが、いまだにこんな形で傷は残っているのだな、と。

戦争と貧しさが老婆から振り飛車を奪った。

老婆から教育の機会を、尊厳を奪ったのだ。

燦々と降り注ぐ陽光を浴びながら、私は改めて、人類は戦争という愚行を繰り返してはならないと思った。

何人たりとも、飛車を振る自由を、飛車を振れるようになる教育の機会を、飛車を振ることのできる誇りを、奪われてはならないのだと。

交差点では人々が行きかい、セミの鳴き声が満ちていた。

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