逆光の樹影、ガラスのリノウ

錦魚葉椿

第1話

 青いネモフィラの花が風もないのにふわふわと揺れている。

 ラベンダーの香りもする。

 一面の青い花畑はなだらかな丘陵を覆いながら地平線へと続いていた。

 太陽は地平線に一本だけそびえる木の丁度向こう側にあって、朝焼けかあるいは夕焼けのように紅色に空と雲とを染めている。


 見たことのない美しい景色。

 私たちはずいぶんと遠くに来てしまったようだ。

――――― 帰らなくては。


 小さな弟が私の手を引っ張ってニコニコしている。

「お姉ちゃん、リノウさまがいるよ」

 ユーリは止める間もなく私の手を放して、その人に飛びついていった。

 父さんよりちょっと若いぐらいの男性で、髪はとても長くて、レースのカーテンを巻き付けた上から茶色の毛布をかぶったような変な服を着ていた。でも、彼はとても優しい笑顔で弟を抱き上げ、頭を撫でる。

 知らない人だった。

 街にも、外にも出られない4歳の弟が、どうして私の知らない人をしっているのだろう、とぼんやり疑問に思う。


 まばゆい虹色の蝶が数えきれないほど降りてきた。

 蝶たちは弟がまるで薫り高い花かなにかであるかのように順番に近寄っては離れ、また近づく。蝶のとんだ軌跡には紫色のひかりがぼんやりと消え残る。

 ユーリが蝶に手を差し伸べると、小さなユーリのふくふくとした体はリノウさまの腕の中からふわりと浮かんだ。


「ユーリ、何処に行くの。帰らなくちゃいけないわ。父さんも母さんも心配するでしょう」

 まるで風船のようにふわふわと所在なく浮いている。私の声は悲鳴に近かったが、ユーリはにこにことご機嫌に笑っていて、私の声が聞こえないみたいだった。

「お前の父親もそこにいるよ。イリーナ」

 リノウさまは花畑のすぐそこを指さす。

「私たちの父さんは、遠くの地で敵と戦っているの。故郷を守るためよ」

 ああそうだ。

 少しだけ頭がはっきりしてきた。

 父さんは銃を手に取って戦いに行ったんだった。

 リノウさまは無表情で左手の指をそろえ、すうっと空間をぬぐうように空気を振り払った。





 父さんは銃を構えていた。

 何かをブツブツ呟きながら、敵なんか誰もいない花畑の中を彷徨っている。

 父さんと、呼びかけようとして、私は思わず口を押えた。黒ずんだ爪、血まみれの髪、憤怒の形相。その人は多分、「父」ではなかった。

「この美しい花畑が見えないのだ。彼の魂は命を落とした時のまま、地底にいる」

 押し殺したため息とともに、彼がこぼしたのは独り言。

「戦争で命を落とした者を連れていくのは大変なんだ」

 攻めた者も攻められた者も憎しみのうちに沈み、冷たい最後の地にこびりついてしまう。誰も彼も自分が悪いと思っていない。

 だが、誰かの父であり誰かの子であり誰かの夫であり誰かの兄弟であるかえがたい存在を殺した罪は自ら背負わねばならない。国も宗教も独裁者もその罪を負ってくれるわけではない。自分が背負うのだ。その償いがたい大きな罪を。

「だったらどうしたらいいというの」

 戦わずに滅び去れというのだろうか。

 リノウさまはただただ悲しげに、私を見つめた。

 たぶん、彼はきっと何度も何度もそう問いかけられてきたのだ。

 そしてリノウさまもその答えを持っていない。

 私たちは互いに途方に暮れて黙り込んだ。




 空は闇色に近づいていく。太陽の位置はやはり木の丁度向こうで、マグマのような激しいオレンジ色の光を放射線状に放っている。確かさっきまで豊かに葉を茂らせていた大木には一枚の葉もなく、冬枯れの木が樹影を空にむき出しにしていた。

 オレンジ色に光り渦巻く向こう側へつながる、裂けた世界の亀裂のようだ。


 白い流星がいくつもその亀裂に向かって墜ちていく。

「魂となったら等価の光なのだよ。その死に際にあらゆるものを持っていても、なにひとつ持っていなくても―――――惜しまれた人だとしても、打ち捨てられた人だとしても」

 リノウさまはそういうと私をぎゅっと抱きしめてくれた。

 ふたたび目を開くと、世界は最初よりもずっと明るかった。

 明け方のように澄んだ空気を深く深く吸い込む。小鳥の鳴き声が聞こえた。

 花畑はうっすらと朝霧をまとっている。

 遠くには故郷の山が見えて、青一色だった花畑は白や桃色や黄色の花も開き始めた。

「お姉ちゃん、行こう」

 弟は私の左手を握ってふわふわと浮いている。

 頷いた瞬間、左手がずるっと抜けた。

 ユーリは、私から分離した小さな女の子と手をつないで、小鳥のように飛び立っていってしまった。


 リノウさまは弟が飛び去ったのと反対の方角を眺め、顔をしかめた。

 そして、かわいそうに、とつぶやいて私のこめかみにキスをした。






 刹那。

 焼けつく痛みと、たくさんの人の歓喜の声が聞こえた。



 直撃したミサイルの着弾点のすぐ際にいて、まさに奇跡的に私は一命をとりとめた。

 だが弟と、弟と手をつないでいた左腕を失った。

 私の左腕を皆、惜しんでくれる。

 でも私の左手は弟と一緒に先に天国に行ったのだから、何も惜しむことはない。


 母さんは父さんの無事の帰還を信じて、戦場の町に残ると決めた。

 多分生きて帰ってこないことを私は知っている。




 弟が通っていた幼稚園は半分ぐらい破壊され、倒壊していてすっかり廃墟だった。

 それでも爆発炎上してしまったわが家に比べればまだ燃え残っているから、母さんは我が子の痕跡を探しに訪れた。

 爆風で割れた窓ガラスに先生の誰かが手作りで作ったらしいシールが貼られていた。とても空を飛びそうにない鷲、魚とパン、羽のついた牛。

 絵心のない人が、何かを模写して作ったらしいそれはひどく滑稽で悲しかった。

 そして「リノウさま」を見つけた。

 リノウさまは真正面を向いて犬っぽい羊を一匹ずつ両脇に挟んで、不機嫌そうだった。


空は青いけれど。

―――――戦争はまだ終わらない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

逆光の樹影、ガラスのリノウ 錦魚葉椿 @BEL13542

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ