東京ケーキ
那智 風太郎
Tokyo Cake
それは突然の夕立だった。
大粒の雨と稲光、そして轟く雷鳴に夏祭りの雑踏は慌てふためき、その人波に揉まれている間に僕は妹を見失った。
宵闇が白く瞬くと人々は身をすくめた。
そして刹那のち響き渡る一斗缶を踏み潰すような霹靂にそこかしこで悲鳴が上がる。
あたりは鬱蒼とした鎮守の森で雨を凌ぐ適当な場所もなく、立ち並ぶ屋台の軒先に我先にと逃げ込んだ人たちは互いに肩を寄せ合い驟雨を落とす空を恨めしげに見上げた。
闇に糸を引いて落ちてくる雨粒が石畳に激しく打ちつけて白く煙った。
喧騒は消え、スピーカーから流れる祭囃子と雨音が重なり怪しく響いた。
そしてテントと浴衣の列が両傍にカラフルな線を引くその参道を僕はひとり、妹の名を呼びながら彷徨う。
紺色の
「おうい」
不意に野太い声がして、振り返るとイカ焼き屋台の店先で作務衣を着たおじさんが腕組みをして立っていた。
「あんた、迷子かね」
少し戯けたような、それでいて気の毒そうな声色でおじさんは訊いた。
「妹が……」
上目遣いに呟くと彼は腕組みを解き、それから腰に手を当てる。
「そんなら社務所やな」
「シャムショ?」
「ああ、鳥居を過ぎたら右手にあるけん。迷子や落とし物はみんなそこやから」
そう言って参道の先を差したおじさんの指先に僕は訝しげな視線を向ける。
ふと思った。
そんなところに妹がいるものだろうか。
けれどすぐに藁をも縋る気持ちに責め立てられて、僕はおじさんにちょこんと頭を下げた。
するとそれに応えるように稲妻がピカリと瞬く。
そして駆け出すと追い立てるように雷鳴がどどんと地響きを立てた。
石畳を駆けていくと夜店の並びはすぐに途絶え、祭囃子も背後に遠去かった。
夕立のせいで参拝客の姿は消えていた。
白糸雨が降りそぼる参道を走っていると、不意に得体の知れない魔物に背後を取られたような剣呑な錯覚に囚われた。
また足下を照らす石灯籠のたよりない灯りが、あるいは水たまりを弾く足音の響きが僕をさらに心細くさせた。
不安に苛まれた僕は激しい息遣いの合間に呪文のように何度も妹の名を挟んだ。
そして前だけを見据えて一心に駆けた。
やがて薄闇に大きな石鳥居のシルエットが立ち上がった。
リコ。
掠れた声で妹の名を叫び、鳥居の下を駆け抜けるとそのとき視界がぐわりと揺らいだ。
眩暈のような感覚によろめいて
そして息が整うのを待ち、しばらくして頭を上げるとどういうわけか僕は青白い光に照らされた丘に立っていた。
見上げると雲ひとつない夜空に大きな満月が輝いていた。
目を落とすと眼下に果てしなく広がる草海原があり、吹き渡る風の波が無数に蠢いていた。
そしてその草のうねりの一塊がなだらかな斜面を凄まじい速さで迫り上がってくると、それが一瞬、飛びかかってくる猛獣のように思えて僕はとっさに両手を前に差し出し身構えた。
すると刹那、生温い草いきれの風がひとしきり吹き去っていく。
いったいここは……。
僕は途方に暮れて辺りを見回した。
そこは広大な草原にたおやかに盛り上がった細長い小島のような場所だった。
稜線には白く浮いて見える
僕はふと気がつく。
真後ろ、小径に沿わせて少しばかり目線を遠ざけたところにうっすらとした灯りがあった。
目を凝らしてみる。
しかしその正体は分からない。
遠目にそれはオレンジ色の覆いを纏ったぼんぼりのように見える。
僕は目線を外し、もう一度辺りに目を配ってみた。
けれど目にできるものといえば、やはり月明かりに寂寥と沈む草原と淡く温かなその光だけ。
煌々と輝く満月をひとしきり見上げた僕は、それからさしたる意図もなく夏の羽虫ようにぼんぼりの光へと足取りを向けた。
ときおり谷から吹き上げてくる風が伸ばしすぎた前髪を払い上げた。
そして周囲の草むらが僕を嘲笑うようにザワザワと騒ぎ立てる。
その丘の尾根、糸のようにかぼそく、けれど途切れのない白い小径を朧げに進む自分が群れから逸れた間抜けな蟻のように思えて滑稽だった。
ずぶ濡れになっていたはずなのに、髪も浴衣も乾いているのが不思議だった。
どこか違う世界に紛れ込んでしまったのだと気づいてはいた。
けれど本当はそれがどこでもない、僕の心の中にしかない風景なのだと知ってしまうことが怖かった。
だから僕は歩き続けた。
その小径がせめて狂気以外のどこかに通じていることを僕は切に願った。
やがて現れたのは一軒の縁日屋台だった。
それは茫漠とした月夜の草原にはおよそ不似合いなオレンジ色の光を煌々と放ち、また黄色い布地に東京ケーキと墨字で書された暖簾をバタバタと風にはためかせていた。
しばし唖然としたがなんとか気後れを拭い、店先まで足を進めた僕はそこでまたしてもたじろいでしまう。
片手で暖簾を除けると大きな鉄板を挟んでヒグマのように大きな体つきの動物が二本足で立っていたのだ。
「やあ、いらっしゃい」
威勢よく言い放ったそれは額にくっきりとしたハチワレ模様が目立つ巨大な猫だった。
パンダのような白地に黒のまだら模様。
屋台テントの天幕に届きそうなほどにピンと立ち上がった三角の耳。
いくつかぶら下がった白熱電球の光を受けてきらりきらりと輝く黄金色の瞳。
耳のすぐ近くまで裂けたピンク色の薄い口唇。
その異形に僕は竦然と立ち尽くした。
けれど猫はそんな僕の素振りなどお構いなしとばかりに「ちょっと待っといてや。すぐ焼けるさかい」と関西訛りで畳み掛けてくる。
僕は怯みながらも曖昧にうなずいて見せた。
すると猫は先の尖った数本のヒゲをまるで傘の骨を開くように持ち上げた。
その得体の知れない形相に後退りしそうになったが、一瞬後にどうやらそれが猫なりの笑み顔であると気がついて、僕はあわててぎこちない愛想笑いを返す。
そしてさりげなく視線を落とすと、僕はそっとため息をついた。
どうやらまたしても僕は狂気に導かれて、あらぬ世界に迷い込んでしまったらしい。
いつも、そうだ。
妹を見失うと僕は決まってどこか別の世界に入り込んでしまう。
けれど結局、なにも見つけられないまま、なにもない元の世界へと舞い戻るのだ。
諦観とともに鉛玉のような虚無感が胸に沈み込んでいく。
そのやるせない感情にうつむいたまま奥歯を噛み締めていると、そのうちにガチャガチャと金属が擦れ合うような音が聞こえてきた。
鼻白んだまま顔を上げて見遣ると、猫は右手にトロフィーのような形をしたステンレス製の調理器具を携えていた。
ふくよかで大ぶりな肉球。
短い指と尖った爪。
そんな手でよく物を持ち上げられるものだと呆気に取られていると、猫はその器具を傾け、次いで凹凸のある鉄板の上にぼたぼたと白い生地を落とし始めた。
それは全く無造作な手つきで、けれど生地はひとつひとつ窪んだ穴に吸い込まれるように収まっては静かな焼き音を立てていく。
そのときだった。
僕のすぐそばで唐突に耳覚えのある声が上がった。
「わあ、上手だねえ」
顔を振り向かせると大きな花柄の浴衣を着た妹がそこにいた。
「リコ」
大きく目を
「ん、どうしたの」
リコの怪訝な声と同時に雑多な音が耳に乱れ入った。
見渡すとそこは夏祭りで賑わう夕暮れの参道だった。
宵闇に所在無さげに灯る電球。
立ち並ぶ、色とりどりのテント屋台。
家族連れ、カップル、友達同士、それぞれの肩を避けながら行き交う人々。
スピーカーから流れる音質の悪い祭囃子。
そして僕たちの前では法被を着た若い男が慣れた手つきでベビーカステラを焼いている。
ねっとりとした甘い匂い。
憶えている。
これは去年の夏祭りの記憶。
「こっちでは東京ケーキっていうんだって。なんだかおかしいね」
そう云って無邪気な笑みを向けてくる妹を表情を固くしたまま見つめていると突然、前触れもなく胸に狂おしいほどの焦燥が燃え盛った。
リコに触れたい。
匂いを嗅ぎたい。
体温を感じたい。
突き上げてくる衝動のままに僕は妹へと腕を伸ばす。
するとその矢先、キイキイと脳髄にまで響くような不快な金属音が鳴った。
顔をしかめて音に目を向けるとそこにはハチワレ猫がいて、鉄板の横のハンドルレバーを無造作な手つきで回転させていた。
風がビョオと音を立てて背後から吹き抜けた。
慌てて見返すと妹の姿は消えていた。
僕は肩を落として胸底に溜まった空気を吐き切るようにため息をついた。
そして
夏祭りからの帰り道、僕たちは短い橋の袂で産まれて間もない仔猫を拾った。
くたびれた段ボール箱に入れられた三匹は、けれどすでに二匹が死んで硬くなり、その遺骸に挟まれたもう一匹の体も冷え切って虫の息だった。
僕たちは仔猫を祖母の家に連れて帰った。
両親には叱られた。
祖母は困った顔をしたけれど、泣きじゃくる妹に根負けして玄関だったら置いてもいいと許してくれた。
僕たちは夜遅くまで一緒に看病をした。
目蓋や鼻にこびりついた瘡蓋を取ってやった。
温めた牛乳を少しずつ飲ませた。
濡らしたタオルで汚れた体を拭いてやった。
お湯を入れたペットボトルで体温の下がり切ったその体を温めた。
そして日付が変わる頃、仔猫は静かに呼吸を止めた。
あの猫はハチワレ模様だっただろうか。
うまく思い出せない。
ただ夜店で買ったベビーカステラを三つ、仔猫たちの亡骸を埋めた場所に供えたことは憶えている。
再び大きな音がして鉄板の蓋が開くと、焼き色の付いた丸い玉が整然と並んでいた。
そして咽せるほどの甘い蒸気が僕の鼻腔を刺激した。
細いヘラを手にしたハチワレはそれをリズミカルに弾いては奥の深い溝に転がし入れていく。
その流れるような手捌きを目で追いながら僕は何気なく訊ねてみる。
「ねえ、キミはあのときの猫なの」
けれどハチワレ猫は答えることなく焼き上がったベビーカステラを金属のスコップで無造作に掬い上げては次々と厚手の紙袋に放り込んだ。
そして最後に袋口を折るとそこにクリップを挟み、鉄板越しにそれを差し出す。
「あったかいうちにお食べや」
少々ためらい、ぎこちなく紙袋を受け取った僕は袋口のクリップを見遣って思わずハッと息を呑んだ。
そして指先でそれに触れると、またもあの夏の夜の記憶が甦ってくる。
「欲しいなら買えばいいよ、それ」
銀細工屋台の店先で妹が見つけたのは透き通った羽を広げる蝶を模した髪留めだった。
あまりにもジッと見つめているものだから僕は苦笑まじりにそう勧めたのだった。
リコはすぐに首を振った。
「こんな大人っぽいの似合わないよ。高いし」
たしかにそれは小学生が使うには少しばかりシックで、また値段も屋台の品にしては高価だったけれど、僕は短く逡巡した後、財布を取り出した。
「だめだよ、お兄ちゃん。無駄遣い」
慌てて僕の飛白の袖を引くリコに僕は笑顔でうなずく。
「大丈夫。おばあちゃんにお小遣いもらったから」
買って手渡すと彼女は拗ねたような顔つきではにかんだ。
「ありがとう」の声がやはり遠慮気味で、けれどリコはそれを包んだ白く小さな紙封筒を大事そうにいつまでも手に持っていた。
紛れもなくこれはあのときの髪留め。
僕は震える手で優しくそれを握り、顔を上げる。
するとハチワレ猫は照れ臭そうに耳を寝かせてこちらを見つめていた。
秋が深まる頃、リコは交通事故で死んだ。
葬儀が終わり何日かして妹の机の引き出しを開けるとその紙封筒があった。
そこには拙い鉛筆書きで『お兄ちゃん』『プレゼント』と書かれていた。
しかしどこを探しても髪留めは見当たらなかった。
母に聞くと事故の時にどこかに飛ばされてしまったのかもしれないと泣き崩れた。その場に居合わせた父もメガネを外しそっと涙を拭いた。
僕だけが涙を流せなかった。
どうやって悲しめばいいのか、それが分からなかった。
ほどなく僕はリコの幻影を見るようになった。
あるときは横断歩道の向かいに。
あるときは夜、真っ暗な部屋のガラス窓に。
またあるときは月命日参りを終えた帰り、後部座席の僕の隣に。
妹は横髪を束ねたその蝶の髪留めを指先で撫でながら虚な瞳で僕をじっと見つめ続ける。
そして触れようとすると陽炎のように消えてしまう。
その儚い幻影を繰り返すたびに僕の心は少しずつ崩壊を進め、やがて中学校に行けなくなった。
さらにはリコの姿を求めて夢遊病者のように街中を彷徨うようになり、その奇行に困り果てた両親は転地療養という名目で四国にある祖母の家に僕を預けた。
気がつくと僕は雨上がりの参道に立っていた。
振り返ると鳥居がのっそりと闇に影を浮かべていた。
遠くに雷鳴が響き、空を見上げると朧げな月が雲間に覗いていた。
髪も浴衣もぐっしょりと濡れて、肌にまとわりついていた。
ふと感じた。
右手になにかを握っている。
そして恐るおそる拳を開くとそれは……あった。
仄かな月光を受けた髪留めはその透明な羽がいまにも羽ばたき飛び立ってしまいそうで、僕はふたたびそれを優しく握った。
不意に目蓋から涙がこぼれた。
それは温かい雫となって頬を伝い、やがて顎から滴り落ちた。
僕は声を詰まらせて泣き、ようやく哀しみに浸れた自分に喝采を贈った。
踵を返し、また月を見上げた。
それはあの草原で見上げた満月だった。
リコはもういない。
胸が引き裂かれるほどのその狂おしさが青白い月光にやわらかく溶けていく。
参道の先に屋台の光が見えた。
そして僕は東京ケーキを買って帰ろうと心に思った。
東京ケーキ 那智 風太郎 @edage1999
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