恢复 ᴚƎƆOΛƎᴚ

柚木呂高

恢复 ᴚƎƆOΛƎᴚ

 夏休み、自由研究をするために学校から持って帰った朝顔の花が膨れ上がって、自重に耐え切れず首からポトリと落ちた。その日僕は大きな病気になって家族は大慌てだった。だけれど、もともと体が弱かったから、両親はいつでも僕の容態が急変した際に対応できるよう準備をしていてくれた。お陰で病院までの搬送は恙無く行われた。僕が担架に寝かされて病院の廊下を移動している間、一緒に付いてきてくれている両親と先生がお話をしているのが聞こえた。


「先生、雅也は大丈夫でしょうか」

「お母さん、お父さん、安心して下さい、迅速な対応であったので命の心配はないでしょう。とは言えすぐにでも手術が必要な状況であるのは間違いがありません。私も全力を尽くしますので雅也くんのことを応援しておいて下さいますか」


 やがて僕は手術室に入って、全身麻酔を受け深い眠りに落ちた。いつもは見るはずの夢が一つも浮かんでこないあっという間の空白の時間。次に起きたときには病院のベッドの上だった。なんだか耳が痒くてたまらなかったけれど、顔には包帯がぐるぐる巻きにされていたから上手いこと掻けなかったし、なんだか掻いたらマズいようにも感じて我慢をした。セミの鳴き声が締め切った窓を貫いて響いて口の中がムズムズする。一週間後、無事包帯が取れて僕は退院し、急いで宿題をやっているうちに夏休みが終わった。



 学校に行くのが楽しみでしょうがなかった。退院してからというもの、僕は元気いっぱいだった。僕は成績は良いけれど目立たないたちだったから、いつも尾瀬くんみたいな人気者が羨ましかった。彼はサッカーが上手くて、スマートフォンも持っていた。僕の家は厳しいからスマホなんて高校生になってからと言われている。高校生なんて遠すぎる。でも今日から僕もしかしたら人気者になれるかもしれないと思うと、ワクワクしてしょうがない。


 チャイムが鳴って昼だった。九月になっても太陽はギラギラと照っていて、校庭は馬鹿みたいに白かった。いよいよ僕の活躍の場だ。給食を受け取って皆で食べ始める。そこで僕はおもむろに揚餃子を取ると、右の耳に箸を持っていって、穴の中に突っ込む。耳の中でゆっくりと咀嚼しながらそして麦ごはんに手を伸ばして、茶碗を耳元に付けてかきこむ。日本人は口中調味という独特の味覚を持っているからご飯こうやって食べるんだ。たまごスープでそれらを流し込んで周りの様子を観てみる。皆が驚いている、持ち上げた箸から餃子が転げ落ちても気付かないやつもいる。どうだ僕のかっこいいところを見たか。すると誰かが確認するように僕に問いかける。


「え、今、耳でご飯食べた?」

「うん、すごいだろ。こんなこと誰もできない、僕だけだぞ」

「きっもちわりぃ!」と尾瀬くんが言った。


 するとにわかに賑やかになって、皆が僕を気持ち悪いだの、化け物だのと尾瀬くんに同調し始めた。僕は何だか恥ずかしくなって顔を赤くしていると、先生が皆を諫めるように言うのだった。


「常磐くんは夏休みに手術を受けてその後遺症で耳と口の機能が入れ替わってしまったんです。皆と違うからと言って仲間はずれにしたり気持ち悪いとか言っては駄目ですよ!」

「だってキッショイじゃん!」

「耳の中にたまごスープ入れてた! おげえ~」


 先生の言葉は火に空気を吹き込んだように教室の喧騒を一層騒がしくした。僕は泣きそうになってしまい、今まさに涙がこぼれそうになった。ところが、バンッ、と机を叩く大きな音がして、教室が静まり返った。音の方を向くといつもクラスの中で浮いている浜本さんだった。


「セミ、入ってきたから潰した」


 そう言って彼女は手のひらにくっつき潰れて汁の漏れているセミの死骸を皆に見せた。まるで不気味なものを見たように皆シンとして、目を伏せて食事に戻る。浜本さんは手にセミを付けたまま、校庭の方を向いていた。窓から風が入って、カーテンと浜本さんの黒い長い髪をなびかせた。


 それからというものの、明確にいじめられはしないけれど、誰もが僕の扱いに困って避けるようになっていた。今日日きょうびの小学生は政治的妥当性というものの教育をほんのりと受けているけれど、いざそういう存在が自分たちの環境に放り込まれると、平等に扱わなくてはならないという教えと、自分自身の感じている不気味さや違和感に板挟みになって、何もできなくなってしまうものなのだ。その気持は僕にもわかる。浜本さんに対して僕もそうだったから。


 クラスの皆は親から「浜本さんはかわいそうな家庭だから」と曖昧な情報を聞かされている。僕は「かわいそうなら優しくしてあげなきゃ」と思って彼女に話を聞いたことがある。


 彼女は日常的に母親から暴力を振るわれていた。父親も居るけれど、彼もまた暴力を振るわれていて、反抗もできないらしいから、浜本さんが殴られても知らんぷりで、なるべく自分に矛先が向かないようにしているのだという。いくつも痣ができて、鼻血なんてしょっちゅう流している、包帯を巻いて登校してくる日だってある。僕は、自分にできることを考えたら何もわからなくて、でも浜本さんは普通にして欲しいって言ってきたから、普通にしようと思ったけれど、自分の家庭と違いすぎて、想像するだけで辛くて、それで避けるようになった。だけど自分がこういう状況に立たされたからわかる、普通にしてって言うのは、寂しいからだ。だから僕はまた浜本さんに話しかけるようになった。そして友達のいない同士、僕らは仲良くなっていった。


 昼休み校庭の脇にある体育倉庫の段差がちょうど日陰になっているから、よくそこで浜本さんと一緒に話をしたりした。校庭では尾瀬くんたちがドッジボールをやっているのが見えた。


「よく見る夢ってある」

「え、夢? うーん、まああるけど、なんか恥ずかしい」

「じゃあ僕から言うね。僕はね、不思議な家の夢。いっつも同じ家なんだけど、トマソンだらけなの」

「トマソン?」

「二階の意味のないところに外に通じる扉があったり、下段だけの階段とか」

「いろんな言葉知ってんのね、さすが学年一頭がいいって言われるだけあるね」

「茶化さないで。それでその家はずっといると徐々に狭くなって行くんだ」

「それで?」

「えっとそれだけ」

「なあにそれ」そう言うと浜本さんはクスクスと笑った。

「浜本さんの番だよ」

「わたしは、えっと、じゃあ内緒話」


 浜本さんは僕にグッと近づいて耳元でなにかを囁いたけれど、僕の耳は口だから何を言ったのか聞き取れなかった。僕は申し訳ない気持ちで「そこ、口なんだ」と言うと彼女は「あ、ゴメン!」と言って、僕の口に唇を近づけてそっと言葉を紡いだ。


「氷の廊下で裸で並ばされるの、一人ずつ順番に奥に通されて行って、その先には一面氷の四角い部屋がある。その部屋の中央にいると壁が迫ってきて、潰されて死んじゃうんだ!」

 

 唇に彼女の柔らかい声と吐息がかかって、それが温かくて僕はドキドキした。



「危ないから降りてきなさい!」

「え、なにあれどうしたの?」

「きゃー」

「やば、TikTokに上げようかな」

「警察! 警察呼んで!」


 ある日の昼休み、トイレから出て校庭の体育倉庫の方へ向かう道すがら、生徒や教師が屋上の方を見てなにやら騒いでいた。顔を上げて太陽の光に目を凝らしながら見ると、屋上の柵の表側に浜本さんが立っている。青空の下、目がさめるような黄色いワンピース。腕をぐんと伸ばして、体が足よりも前に出て斜めに傾いているので、今にも落ちそうだ。


「じゃあ死にますんで」


 そう言うと浜本さんは躊躇なく両手を離した。ふわりと髪が柔らかくなびいて、くるりと頭が下へ向いた。僕は死ぬほど走った、これ以上はないってくらい素早く両手足を動かして、僕が抱きとめられれば助けられる、そんな気がして走った。そして手を伸ばして落ちてくる彼女の体を。ベシャリ。大きな水風船が破裂するみたいな音を立てて浜本さんが地面に落ちた。僕の目の前あと少しのところで。僕はショックで泣きそうなのに声が出なくて、ただ耳の穴からプスーっと変な空気を漏らすだけだった。


「あれ、真っ暗、わたし死んだ?」バラバラになった浜本さんがそう言った。


 僕は周りを見渡して状況を説明しようとした。


「手と足がちぎれてて、両目が転がってる。血がたくさん出てるよ。内臓は出てないけど」

「その声は常磐くん? なあんだ、わたし、死ねなかったんだね」

「なんで、なんでこんなことしたの。僕じゃ役に立てない?」

「ママがね、わたしはママを殺すためにパパが産ませた暗殺者だって言うの。いつか大きくなって、ママを殺すために産ませたに決まっているって言って、パパを折檻するの。パパが一生懸命お金を稼いでるのは、ママを殺す子供を育てるためだって言うのね。わたしはそういうのなんだか嫌だから、わたしがいなくなれば、二人は恋をしたときみたいにまた仲良くなるのかなって。わたし、ママとパパ、好きだから」


 救急車が到着して、浜本さんの体を車の中に詰め込んでいく。何処からか入ってきた子犬が、血溜まりをペロペロと舐めている。皆は「かわいい」と言って犬に群がっていった。先生たちは「昼休みが終わるから教室に戻りなさい」と叫んでいる。僕は走り去っていく救急車をずっと眺めていた。



 皆が上着を着て登校するようになってから、浜本さんが帰ってきた。手足は無事にくっついて、リハビリはしなくちゃ駄目だけれど、寛解かんかいしてある程度普通に歩いたりものを扱ったりできるようになった。ただ、目は後遺症が残って、天地が逆に見えるようになったらしい。


 彼女は図書室で本を借りるときに上にある本を取ろうとして下に手を伸ばしたりする。だから僕は「どの本が取りたいの?」と聞いて彼女に本を取ってあげる。「外を歩くたびに空に落ちていきそうで、お腹の辺りがヒュンとする」と彼女は笑って言っていたから、「落ちないように捕まえておいてあげる」と言って、彼女の手を握って一緒に帰るようになった。


 浜本さんが入院している間、彼女の父親は母親に対して「お前のせいだ」と怒りをあらわにして殺害したという。そのあと自首して今は刑務所の中にいる。父方の親戚が浜本さんを引き取って世話をしているらしい。親戚の家も元の家と近所だったから、彼女が転校をしなくて済んだのは僕にとって嬉しかった。でも彼女は後遺症のことで悩んでいるんじゃないかって思って心配だった。


 帰り道、日が短くなった空は橙色に染まっている。僕は彼女の手を握って歩いている。あの日セミを潰した冷たい手。商店街でたくさんの風船を持ったピエロが、通りがかる人たちにそれを渡そうとしているけれど、誰も受け取ろうとしない。


「視覚について色々調べたんだ」

「へえ、どんなこと」

「幾何学的錯視や非ユークリッド幾何学的視覚は未来を知覚するために必要な現在の正確な知覚を得る際に発生するらしい」

「天地が逆になるのを治すのは?」

「わかんない……。ただ網膜は一度逆にした像を捉えて脳で捉えてから正の状態として知覚するから、慣れたらきっと上手く生活できるようになるか、それか脳そのものが知覚を修正するかもしれない」

「ふうん」


 彼女はなんだかつまらなそうに下を向きながら歩いている。そうしていると空の景色が減って、地面に足をつけている感覚が強くなるのだろうか。


「ねえ、常磐くんは耳と口が入れ替わっちゃって嫌だなって思ったことある?」

「えっと、正直言うとかっこいいと思ったんだ、人と違って。僕は勉強ができる以外目立つところがなかったから、やったぞ、これで僕はヒーローだ、って思ったんだよね。でもなんか気味悪がられるし、かわいそうがられるし、なんだかちょっと悲しくはある」

「ねえ、知ってる? 常磐くんが喋ると、両方の耳から声が出てきて、なんだかステレオみたいなの。それが楽しくてわたし好きよ」


 前を歩くお姉さんがカバンからスマートフォンを取り出そうとしてお財布を落としてしまった。それを拾おうとしたピエロが足を滑らせて転ぶと、色とりどりの風船が一斉に空へ飛んでいく。


「風船が空へ落ちていくわ。屋上から飛び降りるとき、わたしもあんな風に見えた? 黄色いワンピースが空に差し色みたいに光って見えたらいいなって思ってたの」

「僕はキミを抱きとめたくて一生懸命走ってたから、ちゃんと見てなかった」


 すると浜本さんは急に走り出して、ピエロの背中に乗って跳躍した。花がらのワンピースがはためいて、伸ばした手が風船の束を掴み、体がふわりと浮く。僕は急いであとを追ってピエロの背中からジャンプして彼女の手を取る。僕ら二人の体重では、この沢山の風船の浮力には勝てず、徐々に空中に浮かんでいく。僕は彼女に引き寄せられて抱きしめるような格好になってしまった。彼女の顔が近くて僕はドキドキした。


「ねえ、内緒話なんだけど」


 そう言うと彼女は僕の耳に唇を重ねた。水が一滴落ちるような微かな音が響いて、彼女の甘い吐息が耳の中に広がっていく。僕は真っ赤に赤面した。


「わたし――ぐちゃぐ――家族みんな――たの。そうしたら――天国――。でも失敗しちゃった。」

「浜本さん、その、そこ口だから、よく聞こえなくて」


 言い終わるよりも早く彼女は唇を僕の口に重ねて、両手て僕の両耳を塞いだ。


「知ってるわ。だけれどガッカリはしてない、今は常磐くんと一緒なら、空に落ちちゃっても大丈夫な気がするから。これからもずっと手ぇ繋いでてね」


 僕らはゆっくりと夕日の空を登っていくピエロとお姉さん、他の通行人たちが僕らを指差し、一生懸命に何かを言っているようだけれど、僕は浜本さんの唇で口を閉じられていて何も聞こえない、彼女のかすかな息遣いと時々囁く僕の名前。地上からどんどん離れていく。でも何だか悪くない気分だった。

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