第7話 いずれ崩壊する虚構

安堂和夫は病棟のある病院を横切ると顔をしかめる癖があった。なにも昔大病をわずらったときの記憶を思い出すという訳でもない。かれはいたって健康で、この五十九年間、病気で寝込んだのは、八歳のときのおたふく風邪ぐらいというのだから、むしろ病院とは縁とおい男である。

 だが、決して無縁ではない。むしろ苦々しい悪縁がある。

 そしてこれもまた、その煤けた濃い鼠色の悪縁の組紐の一本となるべき出来事であった。

「それで容態のほうは」

「神経性のヒステリー、いうなれば軽度の不安障害です」

 ほう、と溜息をつく。

 嘆息のあと次いで出そうになった舌打ちを、かれは髪を撫でつけることで咄嗟に抑えた。クラス担任から外れて二十年近くになる。このまま定年まで担任を持たないまま退職しようとほくそ笑んでいた矢先、予定していた女子教諭が産休で外れたため、自分が新学年を受け持つ羽目になった。

 四月、五月、六月と、猿山に放たれた小猿のように、なにかとキイキイ五月蠅い生徒達を御していたというのに、この七月になってから、どうも生徒の雰囲気がどことなく落ち着きを欠いていた。そんな矢先に三谷百恵の失神、ついで磯谷弥生のひきつけと災難ばかり続いている。――更に厄介なのは、二人ともわたしの授業で不調をきたしたことで、職員会議の席で、暗に校長から生徒管理に不備がなかったか、仄めかされたことだ。

「不安障害というと、具体的にどのような要因で引き起こされるものなのでしょうか。たとえば授業で指名されたり、とか?」

「原因が明確ではないのです」

 三十歳ぐらいの若い医師は、安堂の秘めている不安を嗅ぎとって、穏やかな口調で教授する。

「突如として理由もなく不安に襲われてしまう精神病症のひとつで、人間の恐怖や不安という感情から引き起こされる心拍の増加や呼吸数の変動、発汗などが普通のひとより過度に発生してしまう症状なのです」

「つまり、切っ掛けもなく、突如として、ひとより不安に過剰反応してしまう」

「ええ。そうですね・・・・・・」

 うなずく医師の顔は、どこか歯がゆさを感じているようだった。

「あの、先生? なにか、他にも要因が?」

 医師はすぐには答えず、診察を淀ますフケを掻きだすように、もっていたペンで右の側頭部を搔いた。

「たぶん、彼女のほうは間違いないのですが」

「彼女のほう?」

「ああ、すいません。その、三谷百恵さんのことです。彼女もこの病院を通院されましたから」

「はあ」

 いつからか話題が磯谷ではなく三谷に移っていたらしい。くせのある髪を、方々にワックスで抓んでまとめて、一見、鳥の巣にも見える。病状の説明のときも指先は忙しなく、医者というより研究者という風貌で、心療心理士として責務を果たせているのか、不安に思えなくもない。

「彼女とは中学生の頃からの患者さんでしてね。月に一度ですが、カウンセリングも行っています。知っていられました?」

 安堂はうなずく。クラスを受け持つ際、前年次の担任から引き継ぎする生徒の資料が廻ってくる。今回の受け持ちは新一年生であるので、卒業した中学校からの送付された三谷の資料には、明言はしていないが、もってまわった言葉遣いで、軽度の不安障害があること、それが小学校の頃から端を発して、中学校の三年間で芽吹いたことが記されていた。

「ちょうど、彼女がひきつけを起こす二日前に、カウンセリングを行いましてね。そこから彼女がどのような要因によって不安障害のトリガーを引いたのか、推測できます」

「それは?」

「怪談です。どういう怪談かは、聞き漏らしたのですが、どうやらクラスメイトに悪霊が取り憑いているだとか」

「悪霊ですか。高校生にもなって」

「実例はあります。とある福岡の高校生たちが、林間学校時のかえるバスで、口々に幽霊をみたと証言して、その数日後、生徒達がひきつけを起こして倒れる事件がありました」

 安堂はあんぐりと口をひらいた。

 まさか心療内科とはいえ、迷信とは対極にあるはずの医者が幽霊騒動を持ち出したのだ。

 向かいの医師はつぶさに安堂の動揺と不審を読み取ったのだろう、からからと笑い始めた。

「むろん、これは心霊現象ではありません。集団ヒステリー。軽度の不安障害が起きうる土壌で、まことしやかに語られる心霊現象によって、連鎖的に引き起こされたに過ぎません」

「・・・・・・それが、三谷に?」

「はい。御友人の三人と楽しげに共有していたようです」

 医師はニコニコと笑いながら、

「つまり三谷さんは心霊を見たのですよ」

 は、と乾いた笑いが漏れた。だが、さっきのように頭ごなしに彼の論を否定する気にはなれない。彼は医師であり、カウンセリングを診察のひとつに取り込む身の上だけに、ひとを話しに引き入れる話術を心得ているのだ。

「その心霊に、先生は心当たりがあるんですね」

「ええ。無論。正体は、これです」

 そういって彼は自分の口元を指さした。

「マスクですか?」

「御明察。彼女が目撃した、そして御友人達と共有していた心霊の正体は、おそらく、このマスクによるものです」

「マスクがお化けに?」

「ご理解を深めるには、彼女達が語っていた心霊現象について語る必要があるでしょう。三谷さん曰く、最初はふたりの生徒が語り始めたそうです。曰く、授業中、顔が変ずる人が居る、と。その貌はいちいち見えない席の生徒で、また必ず授業中に現れ、また授業が終わる頃に消えるというものでした。

 僕はそれを聞いたとき、なぜ怪異は授業中にだけ現れるのか、それを考えました。授業中だけに現れる、見知らぬ貌。するとふと符合するものがあったんです」

「それがマスク?」

「ええ。彼女達が見たのは、授業中、暑さにマスクを外した生徒の横顔だったのではないか、とね」

 安堂は、はっと思い出した。流行する伝染病対策として生徒にはマスクの着用を義務づけているが、夏時は汗がたまり、高騰する電力事情により、省エネを敢行されている教室の冷房は二十八度という生ぬるい環境となっている。

 マスクは唾液の飛沫防止であることを鑑み、こと筆記や見聞を主体とする授業の最中ではマスクの着用をとかく咎めることはなかった。

「彼女が『みしらぬ貌』を目撃したのは、梅雨があけて、日差しのきつくなった今月。さらに彼女達が観察していた際、けっして幽霊やお化けなどが出てくるようなジメジメとして肌寒い天候でなく、日差しがつよい夏日や、西日がきつい夕方でした。つまり、あまりの暑さにマスクを外した、その貌が、今までずっとマスクを着用している顔しか見ていなかった彼女等に異なる印象をあたえ、ひどく新奇に、ともすれば怪奇に映った」

「生徒達はその理屈に気づかないから――」

 医師は首肯する。

「怪異として解釈した」

 安堂は、は、と、この子供だましの手品の種に、笑いが漏れた。

 マスクは顔の下半分――鼻梁から顎までを覆い隠す。顔を構成する要素の半分が防疫用の布で覆われて、そこにひとは不可視の輪郭を無意識に描き出す。安堂だって教育実習生として赴任してきた学生のひとりに、目元の涼やかな男が入ってきたが、彼がふとしたときにマスクを外し、汗をぬぐっていたその顔は、面長で、ハンサムのイメージを損ない、ともすれば別人か、親戚の男性と入れ替えたって分からないだろうと苦笑したことがある。

 学生やそれに準ずる若者たちは、その期待と失望を『マスクマジック』という言葉で表現するが、自分や中年の男達には何度か、口元をかくす風俗の『パネルマジック』で痛い目をみた経験もあって、苦々しく頷くしかない。

 そう考えると、人間の印象は目元よりも、その下の鼻梁から口、そして顎の輪郭によって強く印象づけられるのかもしれない。欧米では、マスクはひとの感情すら隠すといって新型コロナの流行当初は忌み嫌っていたことからも窺い知れる。

「彼女たちは『マスクマジック』を『悪霊憑き』として解釈した。これが、三谷百恵さんと彼女たちが怯えていた怪異の正体です」

「正体見たり枯れ尾花、ですな」

 自分の責任ではないことが分かり、肩の荷がおりたと笑顔を零す安堂だったが、若い医師のほうはまだ語り足りないのか、ふたたび側頭部をかく。思い起こせば、かれは三谷百恵の失神について推理をしただけであり、もうひとり、磯谷弥生については発言していないのである。

「先生、磯谷も同じヒステリーじゃないんですか」

「はい」医師は澄んだ回答を寄越す。「彼女の場合、パニック障害ではありません。おそらく彼女は最初からこの怪異の真相を知っていた。それであえて利用していた」

「利用?」

「さきほど彼女とのヒアリングをして、おおかた見当がつきました。三谷さんから怪異の話しを聞いていましたから、それとなく『彼女達の怪異』を仄めかし、匂わせる質問を投げかけましたが、それに恐怖する反応は乏しく、わたしが述べた『マスクマジック』の解釈を聞いても尚、すでに知り得ていた様子でした」

「だが、彼女はあんなにも怯えて」

「ええ。ですから彼女は怯えているフリをしていた。有り得ない怪異があるように妄想し、それに被害をうける自分という役割を演じていた」

「なんのために」

「マスクを脱がないために、です」

 安堂はこの医師と会って、たびたび驚かされ、困惑させられて、情動がぐしゃぐしゃに掻き回されているが、今回は更に途方もなく胡乱なことを言い始めた。

「彼女の心理は、探偵小説的にいうところの異常心理に近いもので、これを丁寧に辿っていったとして到底余人には計り知れないものでありますが、それでも作者の意図に読者が触れようとするように、いくつかのヒントを得て、憶測をたてることはできます」

 彼はそう前置きを述べて、安堂にたずねた。

「安堂先生は、学生名簿などで、彼女の顔写真を見たことがあるはずです。そこに著しく外見を損なうような傷や変形などは見られましたか?」

 安堂は首を横にふった。中学からの申し送り資料などで、彼女の顔写真は目を通した覚えがある。そのとき、安堂は彼女の顔に対して大した印象を抱くことはなかった。美人と賛美する程ではないが、不細工だと暗に憐れむような面貌でもない。

 いたって平凡な学生のひとりだった。

「それでは良く思い出してください。彼女のここ、右唇の上辺りに小さな黒子があったのを記憶されていますか」

「あった、と断言するには心許ない記憶だが、よくよく思い起こせば、そのような箇所に黒子があった気がする。だが、それが何だと?」

「なんでもありませんよ」朗らかに医師はいう。「少なくとも彼女以外には」

「まさか虐待の痕か?」

「まさか。ただの黒子です。ですが、彼女にとっては忌々しい黒子でした。それこそ精神疾患の病名を得るほどに。彼女は強迫性障害、それも醜貌嫌悪症を患っているとみて、矛盾はないでしょう」

「醜貌嫌悪症っていうと、その自分の顔に難があって陰鬱となるという?」

「厳密にいえば、自分の顔に難があると強く思い込む症状です。ですが安堂先生が仰られたように、他人からみればとるに足らない部分。けれど本人にとっては一生を過ごすには重すぎる汚点。そう思い込む脅迫的観念。それが醜貌嫌悪症です。彼女はそれをマスクの中に隠していた。マスクが唯一の防御策だった。

 おそらくは高校に入学する以前に、クラスメイトなどからひどいからかいを受けたのでしょう。それが彼女のコンプレックスの種となり強迫観念を植え付けた。だから尚更、マスクをつけた顔しか知らない高校のクラスメイトには見られたくなかった。昼食もマスクを外す恐れから、いつも一人で人目のない場所で食べていたそうです。だが、その想いも長くは続かなかった」

「気温、ですか」

 医師はうなずく。

「彼女は周囲がマスクを外すようになって、つよい強迫観念をおぼえました。マスクを外したくない、だが皆がマスクをはずして自分だけしていれば、いずれ注目をあつめ、薄々マスクで隠している口元にコンプレックスがあるのだと悟られる。だがどうすることも出来ず、悶々としてた頃、友人から『しらない顔の怪異』を聞いた」

「だが、それがマスクを取らなくていい理由になりますか?」

「無論、なりません」

 若い医師は云う。

「彼女もいずれマスクを外すことが来るのは分かりきっていた。屋外での運動や持久走、あるいは水泳の授業になれば、かならず外す必要がある。だから彼女はこの怪異話に飛びつかざるを得なかった。――この怪異、マスクを外せば『知り合いが別人の貌になる』という怪異に」

「ま、まさか」

「そうです。彼女はつまりこう内外に言いたかった。自分は怪異に取り憑かれたから、まったく違う貌になった。だからマスクを外したわたしは、わたしじゃない」

 安堂はぽかんと口をあけた。

 彼は心底呆れかえった。もちろん、この若手医師の妄言染みた診察もさることながら、それが或いはこの学生ふたりの異常なヒステリーを紐解く回答に違いないと納得してしまっている自分自身に、である。

「にわかには、信じがたいが」

 ひきつった口角の隙間から、知恵熱の残り火から立ち上がる煩悶の煙が、もうもうと立ち上がるようだった。ただ彼の中に見知らぬ感情が芽生えていくのが分かった。その感情は凝っていた筋肉をゆるめ、ふかく息をつかせるに足るものだった。

 安堂はその医師に礼をいうと、第二診察室から出て行こうとした。

「あ、安堂さん」

 女性看護師が退室する彼を促すようにカーテンをひいた間際だったので、虚をつかれて肩を驚かせた。

「済みません。驚かせてしまって。ただどうも見る限り、安堂さんもひどくお疲れのようで、よければ診察を受けられませんか?」

「申し訳ない。今日はあとから保護者や教頭に詳しく説明しなければいけませんから。ですが、そうですね。先生と話すのならカウンセリングも悪くないかもしれない」

 そういって、安堂は一礼すると踵を返した。



(人生に於いて、あまりにも奇異なことにも理屈がある)

 安堂はそう心で口にして、数日前、あの若手医師から聞いた奇談をあたまに思い描きながら、黒板に淡々と板書していた。

 彼は見事に異様な連鎖ヒステリーに対して、理知的な解釈を与えてみせた。

(ただどうも見る限り、安堂さんもひどくお疲れのようで――)

 そんな医師の助言を聞いておくべきだったかと、今になって後悔していた。

 自分は疲れている。年のせいか、身体が重い。

 昨日から降り出した雨せいか、今日は妙に頭痛がひどい。低気圧が頭痛をもたらすというから、あるいはそれかもしれないが、風邪をひいたのか、どこか寒気がする。こんな寒暖差の激しい日は、軟弱な風邪ッぴきが欠席の連絡をならし、朝方の職員室では間歇泉のごとく外線がなる。

 しかしながら、わたしの担任するクラスは、自宅療養している磯谷以外、みな全く身体を壊さず登校している。或いは根性を振るって投稿したのかもしれない。となると昔カタギの自分としては素晴らしいと褒めそやしたいが、どこか、今日のクラスには厭に鬱々とした雰囲気が、背中にじんわりと汗をかかせるのだ。

 無論、冷や汗ではない。だんじてないのだ。

 あの医師が言ったように、生徒達はくだらぬ怪談におびえ、そして異常な心理状態に陥っていただけだ。

 マスクのせいなのだ。七月の初旬から、つねに後ろに感じていた、重々しい気配もなにもかも――。そうマスクを脱いだ生徒の顔を、とおい昔の生徒と見間違えたからといって、なんら怪奇的な原因ではないのだ。

(ああ、そういえば、今日はやけに私語がないな)

 普段なら携帯のケースを開閉する音や、囁き声にしては大きすぎる小声で談笑している者がいるなかで、なぜか今日だけ、みな、一様に口を閉じている。

 ノートを書き写す筆記音すらない。

 ただ、じっと前を向いている。

 黒板ではなく、わたしを、じっと。

 二十九人が――。

(ちがう、あれは事故だった)

 諭すように念じる。

 あの日、わたしも止めようという気はあったんだ。だが、お前達が楽しみにしていると思って、それで。それは些か強引で、嫌がる者も居たかも知れない。だが最終的に決をとったとき、おまえたちは皆、了承したじゃないか。

 板書の手がとまる。

 持たれるように黒板にてをつく彼を、生徒達は一切言葉をかけない。

(たしかに、なんどか引き返すタイミングがあった)

 だが、いくと決めたからには男児は不退転の決意で成し遂げるのが男児であり、それを引率するのが教師の役目だとおもったから、だから。

「・・・・・・それとも、おまえたちを見捨てたのが、いけなかったのか」

 返答はない。

 だが、二十九の貌は、音もなく近づいている。

 足元をみて、安堂は喉を詰まらせた。

 足が見えた。いくつもの足。

 遠い昔を思い起こさせる旧可錆高校の校章が入った上履き。

「ああ、ああああ」

 安堂は黒板に鼻梁をおしつけ、目の周りを掌でおおった。

 貌をみないように。

「ああ、すまない。すまない」

 震え、おののく。



 その後、安堂和夫の姿を見た者は誰もいない。

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誰も見てはならぬ 織部泰助 @oribe-taisuke

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