第4話 壊れる平穏
こちらに向かってひどく慌てた様子で走ってくる人物がいた。
その様子は二人にとって信じられない光景だ。彼女が走る姿などは見たことはなく、何かあったということを察するには十分すぎるものだった。
「サーシャ、そんな慌ててどうしたんだ!それにメイはどうした!一緒じゃないのか?」
走ってきたのはサーシャだった。普段からマイペースである彼女が走るところを二人は初めて目にした。
「買い物、してたら、村に怪物が……襲われて」
息を切らしながらの途切れ途切れな話し方だったが聞こえてきた「村」、「怪物」、「襲われて」といった単語は不穏な空気を醸し出した。
「メイはどうしたんだ?一緒に出てっただろ?」
「ごめん、一緒にいたんだけど逃げるときに」
「そうか……。って姉ちゃんどこ行くんだよ!」
気がつけば彼女は走り出していた。ジルの声は届いていない。
いろいろな心が彼女をそうさせた。
「きっと村の守人が何とかしてくれるって」
それは一番の年長者としての責任感や日常を失うかもしれないという恐怖心からなるものだ。
彼女は冷静ではいられなかった。
村の中央に着くとそこに日常はなかった。木でできた露店は壊され商品であっただろう果物や織物は踏まれ、潰され蹂躙されつくしている。こんなことは初めて起きた。人々は我先にと村の中央から離れていく、そこに余裕というものは存在しない。
そんな中、ディアナは村の中央に向かっていった。我先にと逃げる人の波を搔き分け「メイ!メイ!」と名前を呼びながら一人の女の子を探していた。
人が少ない村には似合わないこの喧騒の中どこまで声が届くかわからないがそれでも呼び続けた。
奥に進むにつれて人の数は少なくなっていく、そしてそれに出会ってしまった。
全身は黒い毛で覆われていてその姿ははっきりと確認できないがその形から熊に近い動物だろうか?だとするならば、その姿は少しだけ歪と言えるだろう。胴体からのびる二本の腕は丸太のように太く、その先には延びきった三本の爪が存在する。覗く横顔は凶悪そのもので少し開いた口からは何本ものするどい牙を覗かせていた。その大きさはこちらに威圧感を与えるには十分だ。
「お前、なにをしにきた!」
凶悪な生き物の前には剣を構える三人の戦士がいた。鉄のチェストプレート、肘あて、膝あてといった軽装な鎧を身にまとい、両手で剣を握る。
「この化け物はお前が呼んだんじゃないだろうな?」
一人の若い兵士はちらちらとディアナのほうを気にしている。
その顔は怯えているが、怯えの対象は眼前の化け物だけではないように思える。
熊は背筋を伸ばすようにゆっくりと直立する。二本の足で立ち上がるとその大きさがさらに引き立った。こちらを見下ろせるくらいの高さになり威圧感はさらに増した。
そして熊は己を大きく見せながら咆哮する。
「ひっ……。」
若い
村の守りを任されるはずの『守人』であったが村が襲われるようなことが起こったのは初めてであり、命の危機を感じたのも初めてだった。
熊はのっそりと近づき一人の守人に殴りかかった。
「ぐっ……。」
守人剣を盾に攻撃を受け止めようと試みる。機転の利いた動きではあったが相手が悪い。剣は腕の勢いに負け、守人に直撃した。なすがままに叩き飛ばされた彼はそのまま動かなくなる。
守人の一人が切りかかる。
その刃は相手の太い腕を切り落とす勢いであったがそれが無意味であることはすぐにわかった。
キィン……。腕に剣が触れたとき、甲高い音が響く、それは刃が通らずにはじかれたことを指す。その感触に守り人は岩を叩いたのではないかと錯覚した。
傷を負わなかった熊が怯むわけもなく、薙ぎ払うように腕が振り回された。
鎧はあってないようなものだ。彼の胴体に化け物の爪が食い込んでいく。
それは皮膚に傷をつけるだけにとどまらない。上半身はひっくりかえり下半身はその場にとどまった。落ちる半身の軌道を描くように赤が舞った。
その光景を目にしたのは二人。
水が落ち、弾け舞う水滴を綺麗という人間はいるが、これを綺麗と呼ぶ人間はいない。頭の中が真っ白になり、ただ否定したくなった。
化け物は残った二人に対し殺意のこもった目を向ける。
絶望的な状況の中、二人は行動を起こす。
一人は直視した。なにも考えずにゆっくりとした時間を感じながら非日常を眺めた。
一人は走る。叫び声をあげ、振り返ることもなく周りの音と現実を自分の声でかき消しながら全力で駆けた。
どちらの選択が正しかったかはわからない。野生動物に相対した場合は下手に刺激しない方が良いとは聞く。
そういう意味では動かなかった。否、動けなかったミリディアナが正しい。
しかし、すでに刺激してしまった場合は話が別となる。敵からいち早く距離を取ることもまた、選択の一つと成り得ることだろう。
すべては化け物の気分次第だ。
破り捨てた人間をそのままに地面を蹴り、逃げる者へと突っ込んでゆく。
体が大きいからといって動きが鈍いことにはならない。
喰らいつく。鎧はあってないようなもので牙は胸板を、心臓を貫く。守人は呻いた。振り回される。成す術はない。
牙は体に食い込み続け、間もなく絶命した。
それを確認すると、熊は次の標的に狙いを定める。
目が合った。赤い眼だ。口元は赤く塗れており、次はお前だと言っているようにも見える。
瞬間、ディアナは悟った。この化け物は村に迷い込み暴れているのではない。明らかな敵意を持ってここを襲撃したのだ。
それを察しまるで目の前の悪魔のようだと思った。
ふらりと現れて周りに恐怖と死を振りまき混沌に導く。そんな姿がしっくりする。
そんな相手にセオリーなど通じない。結局のところどちらの行動も変わらないという結果が導かれた。
悪魔は恐怖を与えるかのようにゆっくりとこちらに近づく。
ディアナはその足どりをまるで死が近づいてくるようだと感じた。
心臓は今までにないくらいに鼓動し胸が弾けるような感覚があった。しかし、身体は動かない。膝も手も指先も一ミリも動かすことができなかった。恐怖で身体が動かないこんな感覚は初めてだ。
目の前までくると悪魔は腕を振り上げる。巨大な手で押しつぶされるにせよ、爪で切られるにせよ直撃すれば重傷は免れないだろう。
しかし動くことはできない。
なにもできない彼女はきゅっと目を閉じた。そして、そのときが訪れた。
左腕に鋭い痛み、叫ぶこともできずに痛みと声を噛みしめて反射的に傷を抑え込もうとした。
が抑える場所がなかった。腕が身体と引きはがされている。その事実に気づき、呻き、あらためて恐怖する。
悪魔はそれを見て笑う。圧倒的に優位なこの立場が楽しいと言わんばかりだ。
そこからディアナはいたぶられた。
爪で刺される、切られる、刺される。死なない程度に傷つけられた。
そして痛みは次第に感じなくなってくる。当然ながらそれは慣れではない。
霞む視界に映るのは一人の少女、彼女がここにいる理由だ。
自分がこうされている間は危険が及ぶことはないだろう。
「逃げて」
できるだけ遠くに、危険が及ばない場所に、そう願う。
大切に思える、心配できる人がいた。ならば自分の生きていた意味もあったのかなと思えた。
だんだんと痛みを感じなくなり意識が遠のいてゆく。
最後に視界に入ったものは血しぶきと悪魔の首だった。
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