第7話 望む世界
朝起きる。いつも通りに過ごすわけにはいかなかった。
昨日のことを思い出し、妙な引っ掛かりというか問題があることに気づいてしまったからだ。
いま、彼女の目の前にあるのは昨日着ていた服である。泥と血に塗れたそれはところどころ破れておりとても着られたものではない。
服と言われるよりも使い古された雑巾と言われたほうがしっくりくる。
しかし、問題というのは今日着る服がないなどという単純なものではない。
彼女の視線は服の左袖に注がれている。記憶のトリガーであるその部位は彼女にしっかりと存在している。
「なんとかしなくちゃ」
時間は早朝。タルトケーキを切り分け、バスケットにいれると身支度を手早く整え家を出た。
明るくなった今なら村の様子もしっかりと確認できる。板くずや木くずは道に散乱しており、昨日の出来事を物語っている。
陽が出て間もない時間帯であるため外に出ている人間はほとんどいないが家々からうっすらと聞こえる音たちは日常が戻りつつある証拠でもある。
彼女の目的地は村の中でも少し大きめの建物だ。
観光を売りにしていないこの村には、宿泊施設というものは存在していない。
それでも、村を訪れる者がいないわけではないため、ここは建てられた。
宿泊施設でないことから受付やフロントなどというものは存在しておらず誰でも自由に出入りすることができる場所であり集会に使われることもしばしばある。
「いた。」
入ると目的の人物はすぐに発見することができた。男はベッドの上では寝ずに入り口の広間のソファをベッド代わりにして眠っていた。
ソファの長さは男の長身をすべて納められるほどには大きくはなく片足は曲げられもう一本はソファの外へと投げ出されている。
この状態でもフードは被っており、やはり顔は見えなかった。
寝ているところを起こすのは申し訳ないと思いつつもディアナにも急ぎ終わらせたい理由がある。勇気を出し彼のもとへと一歩近づく。
しかし、転んでしまう。
その場には何もなかったが張られた糸にでも躓くように自然な転び方をした。
思いもしなかったことで顔から転んでしまったディアナは顔面を床にぶつけ痛みに悶えた。
「……なにをしている?」
顔をあげると彼が上体を起こしこちらを見ていた。
状況を理解するにつれてディアナの顔は赤くなっていった。
痛みを忘れ立ち上がると、用意してきたバスケットの中から慌てるようにタルトを取り出した。。
「昨日、その助けてもらったみたいで、あの、それのお礼にと思いまして」
「お口に合えばいいのですが」と付け加え中身を差し出す。
ディアナとケーキを交互に見て口を開いた。
「ここで寝てたのは?」
「寝てないです、転んだだけです。」
『ああ、なるほど』と納得したように頷きケーキを受け取り口にした。
「おいしい。」
そのためらいのなさにはディアナは少し驚かされたが偏見なく話を聞いてくれそうな相手の雰囲気にほっと胸をなでおろす。
話の切り出しは考えてこなかった。
どう切り出しても本題には辿り着けないだろうし、ろくな会話になる気がしなかったから、ディアナは直接本題を切り出すことにした。
「私は本当に生きているのですか?」
その言葉に男は固まる。
「昨日のことを私は覚えています。あの悪魔に襲われました。爪で腕を落とされ血がたくさん出たんだと思います。多分……。」
ここで、そんなことはなかったと言われればいい。自分の勘違いで悪い夢を見ていた。
悪魔を見てその場で気絶し気がついたらすべてが終わっていた。
それだけの話、ディアナの秘密もばれてはいない。
「お前は強いな。」帰ってきた言葉は意外だった。
男は麻袋を机の上に置き広げた。
その中に入っていたのは腕だった。白くて細い。毛が生えているわけでも歪な形の爪を持ち合わせているわけでもない。普通の人間の腕だ。やわらかく、しなやかな印象を持つこれは男ではなく女のものだろう。
「私の腕……。」
漏らすようにつぶやいた。
男は頷いた。
やっぱり現実だった。その事実に落胆する。
自分の腕が目の前にあるという非現実的な状況に頭がどうにかなりそうだった。
それでも自分にはやらなくてはならないことがある。ふらつく思考を抑え込んで彼女は懇願する。
できるだけ真摯に、情に訴えかけよう。それが私のできる精一杯。
「お願いします。このことは誰にも言わないでください。」
この一言のために彼女は来たのだ。秘密を守るために自分にできることは相手にお願いをすることくらいしかなかった。
「私にできることは何でもします。これがバレたら本当の意味で暮らせなくなってしまいます。」
自分の今の生活を守るためにできることはこれくらいしかなかった。
「自分が人にお願いできる人間でないことはわかっています。でも、」
そこまで夢中に話して、初めて目が合った。底がしれないくらいに黒い瞳だ。言葉がひっこんだ。
首を横に振った彼は「誰にも言わない。」と言った。
これは、彼女にとって願ってもないことだった。家庭も職も持たない彼女のできることなんてそこが知れている。それこそ金銭的なことを迫られてしまってはどうすることもできなかった。
しかし、彼女はそれを手放しに喜べるような性格をしてはいなかった。
予想外の反応に困り顔を浮かべてしまう。
それを見かねてかはわからないが男は一つだけ願いを言うことにした。
「少し話を聞いていけ」
ディアナは黙って頷き、男はフードを脱ぎあらためてディアナと向き合った。
その顔を見た時、ディアナは言葉を失った。
痩せ気味ではあるが輪郭は確かに人のものである。人のものではあるのだが顔を構成するパーツの様々な部分が人とは異なっていた。
まず目にはいるのは口の部分、頬の辺りまで裂けている。
耳は丸いというよりは長く先端は尖っていた。人らしい鋭い目はふたつ存在するが、額辺りに存在する六つの丸く潤っている部分も瞬いて見えた。
「この顔を人に見せるのは本当に久しぶりのことだ。なんだか恥ずかしいよ。」
「い、いえ……。」
否定とも取れない返事をしたディアナは実際のところ驚いていた。いや、どちらかと言うと恐怖のほうが大きい。同じ言葉を使っている、話が通じる相手だ。冷静になろうとはするがさっきと同じ目で彼を見ることができない。
今すぐ逃げ出したいという思いが強くなる。足が震えて止まらない。しかし、ディアナの心はそれを許せなかった。
それに、少しの親近感のようなものを彼女は彼に感じていた。
「本題に入るがお前みたいなのはそんなに珍しくもないんだ。」
聞かされたことは彼女にとって驚くべきことであったが目の前の彼と見比べても真実なんだろうと疑うこともしなかった。
話すことが苦手なのか彼はぶつ切りに話し出した。
「俺はずっとお前のようなやつを探して旅をしている。」
なぜだろうか
「旅をしていてわかったことだが、お前みたいに不思議な力を持ったやつらの扱いというものはどこに行っても変わらない。どんなものかはお前ならわかるはずだ。」
それを想像するのはディアナにとって容易なことだ。自分に対する周りの視線や対応が思い浮かぶ。受ける視線はいつだって痛く、対応はいつも腫れ物に触るかのようだ。
黙って彼の言葉に頷く。
「俺は……。なんというか、それが悔しかった。彼らはきっと何も悪くない。」
「そうだろ?」と問われ、また頷く。
「助けたいと思った。見かける度に庇ったりもした。まあ、この顔だからそのあとに怯えた顔をされて逃げられることのほうが多かったが……。」
笑いどころだろうか?
正直に言って笑えなかった。こわかった。
「そんな旅を繰り返すうちにある村を見つけた。村の規模はそこまででもないんだが、そこには本当の意味でいろんな人がいる。獣の腕を持つ者だったり、背に羽を持つ者、火を噴くやつもいたはずだ。もちろん赤髪も例外ではない。そいつらはいがみ合うでも敵視しあうわけでもなく、ただ純粋にそこで共に暮らしている。」
これが本当のことならば驚くべきことだ。あまりにも現実離れしているし、おとぎ話でも聞いているようだ。馬鹿げている。
もしも、この話を売りに旅をしている吟遊詩人ならばただのほら吹きとして有名になれることだろう。
でも、もしその話が本当なら
「そんな場所なら少なくともここよりは暮らしやすいだろうな。」
最後の言葉でディアナは今、自分の手、全身が震えていることに気がついた。
そのときには既にそこでの暮らしを想像してしまっていたからだ。
自分の髪色が普通ではないから、自分が普通でないから普通に生活することができない。
周りは普通でない自分とは遊んでくれないし、話もしてくれない。
世界の隅での陰口は絶えることなく、同年の子から石を投げられたこともあった。
そんな子供時代。
誰もが自分を認めてくれるであろうその場所の存在に胸が揺れていた。
『この化け物はお前が呼んだんじゃないだろうな?』
『赤毛ですよ?』
謂れ《いわれ》のない言葉たち
今が違うかと聞かれればそうではない。
(髪さえ黒ければ普通に生活ができたはずなのに)
そんなことを考えることが多々あった。
(でも、本当にそんな場所があったら……。)
普通でないことが当たり前になる。
自分の考えとは真逆のもの、自分は自分のままでその場に馴染むことができる居場所。
「そこで暮らしてみないか?」
普通に暮らせると目の前の彼はそう言っている。
ディアナは少し考える素振りを見せたが、両の手を結び強く握ると首を横に振った。
「理由を聞いても?」
彼女はできるだけ平静を装い、唇を震わせながらこう言う。
「旅人さんは知らないでしょうけど赤髪は不吉なんですよ。私は昔からそう聞かされてきました。災いを呼ぶだとか、変な病気を持っているとも言われています。旅人さんの故郷はどうか知りませんが少なくともこの辺ではそうなんです。今回の件も村の人たちは私のせいだとなんとなく思っているはずです。」
自分で言ってて悲しくなった彼女は息をひとつ吐き、こみ上げるものを飲み込んだ。
男はただ、「続けて」と促した。
「もちろん、私は今回の件も知りません。私と暮らしている人たちはみんな健康です。」
当前のことを泣き声に混ぜて話す。
その様子は神に罪を懺悔する罪人に似ている。
「……そんなことを言われ続けてきた私はそちらに行ったところで馴染むことができないと思うんです。周りが良くても私自身がそれをきっと認められない。」
新しい場所に行って、なにもない状態から前を向いて始め直す、そんな自分を想像できないでいる。それに場所を変えたところでつらかった過去は変わらない。私は思い出し、ずっと引きずることだろう。そんな状態で、いったい誰を頼れと言うのだろうか?
「でも、ここにはそんな私を慕ってくれている人がいます。一緒に食事をして笑ってくれる人たちがいます。こんな言い方おかしいかもしれませんけど、その人たちを見捨てるような……。いいえ、私が離れることができません。」
そんなリスクを背負って外に行く必要なんてない。ここにだって信頼できる人たちがいる。
私の世界はここだけで十分。育児院とその敷地内にある畑だけだ。
男は「そうか」と頷き。
「うまくやれよ。」と一言だけ。
「ありがとうございます。」
しかし、ディアナにはとても心強いエールに聞こえた。
あたりまえは普通でいい。ディアナはあらためてその現実を握りしめる。
ディアナは育児院へと帰った。
「あー、お姉ちゃんがタルト食べてる!」
「見つかっちゃった。」
朝から元気なメイが大きな声で指摘する。
「待ちきれなくて……。ごめんね。」とはにかんだ。
「いいよ、おいしい?」メイはそれに対していっぱいの笑顔で答えた。
「うん、おいしい。」
体に染みる甘さが嬉しかった。
「食べる?」「うん。」
次第に椅子は埋まり、机の上には皿が並ぶだろう。
今日の朝食は果物がいっぱいにのったタルトケーキだ。
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