百襲姫④

「私はやはり貴方の残忍さを好きになれない」

 稲生は彼を宥めることなく見守りながら、小さく嘆息した。一方百襲姫は彼に構うことなく、稲生の首筋を甘噛みしている。


「ですが、私は貴女を侮っていた。父上すら怖気づいていた中つ国制圧を見事に果たしただけでなく、臆病な私を変えてくれた。私の負けだ」

 阿巳は百襲の手を取り、熱い接吻をした。


 彼女は驚いたように目を丸くしたが、やがてその相好が崩れた。漸く稲生から離れた姫は、その巨体を引き寄せて、頬を寄せあった。


「そうでしょう?だってわたし、強いもの。強くて美しいわたしには何人たりとも逆らえないの」

 無垢な笑顔を湛えながら、頬を撫でる。


「父上は先払いとして神獣鏡をお渡ししました。しかし男妾よりも、これからの馬飼らを支えていただきたく存じます。私はそれで十分ですので」

 阿宜が献上した神獣鏡は、魏王より譲られた一族の宝。その価値は推して知るべしである。


「そうね。庭も得たことだし、ちゃんと応えなきゃね」

 手が首を、背を撫でる。細い腕が広い背に回り、褥まで引きずり込んでいく。


 互いの布が擦れる音に、蛾達が一斉に舞い上がる。稲生は黙って簾を下ろし、素早くつぼねから去っていった。


 翌る朝から行われた和議の末、大国主は国譲りを認めた。


 彼は国長の座を降り、倅らと共に杵築に隠遁。反大和の残党は布津と稲生にみなごろしにされた。隣の出雲の支配下にあった吉備国も無血で降伏し、まもなく讃岐国と並び製塩業などで大和を支えた。


「倅は本当に図太くなりました。よもや貴女を諫めるなど、死にたいのかと思いました」

 中つ国平定の最中、阿宜は呆れ果てた様で言う。


 二人の前には、各々の愛馬たちが並んでいる。特に百襲姫の愛馬は、栗毛から葦毛に生え変わっていた。戦の後始末はまだ済んでいないが、戦勝の立役者たる馬たちをまず労わねばならない。


 此度の戦で、二頭死んだ。彼らに報いねばという使命感が、百襲姫にもあった。


「中つ国、馬たちの広い庭を得た。阿巳も強くなった。私が結ばせたあの日の約束は、全て果たされた。ひとまず満足したわ」

 姫は満足げに微笑む。あの飢えた狼のような笑顔でなく、太陽のような愛に満ちた笑顔である。女神を見たと、阿宜は思った。


「では、次はどうされますか? とりあえず大和に帰りましょうか」

 そう言うと彼女は首を横に振る。


「いいえ。吉備の商人から聞いたの。もっと西には筑紫つくしのしまという、もっと馬たちに優しい洲があるとね。しかも、そこでは二つの国が争っている。ならば、漁夫の利といこうじゃない」

 百襲姫は西の空を見た。嘗て出雲を欲した日のように、その目は青く、爛々と輝いていた。


「覚えているかしら? 昔、とても大きな甲虫を捕まえたの。あの子、案の定雌に大人気。強い子どもにも恵まれたわ」

 唐突な話題に、阿宜は目を丸くした。

 あの大きな甲虫のことは覚えているが、今になってその話をするとは思わなかったのである。


「強い雄がより多くの子を残すように、上に立つものは強くなくちゃね。そして素質がある子は、どんどん鍛えないと。馬もいずれ、我々の国を大きく変える。──革命を起こすのよ」

 豆が増えた手で、彼女は愛馬の頤を撫でる。すると愛馬は、心地良いと目を閉じた。


「筑紫洲を制すまで戻らぬと誓いましょう。幸い、向こうには父上がいるもの。それに稲生、布津、阿の父子がいればどこまでだっていけると信じてるわ」


 この言葉通り、後年大和国は中つ国以南を征し、筑紫洲北部を支配した女王ひみこのくにを滅ぼした。女王国の台与とよは呪力を奪われ、流刑先で身罷る結果となった。


 かくして残るは南の阿蘇あそのくにさくらのくに。阿蘇国は草部くさかべの男王ひこみこが祭祀を担い、男装の女官久々知くくちひこまつりごといくさを司るという。


「久々知彦は美しい女と聞くわ。ふふ、楽しみね。強い子を挫くのは、いつだって気持ちいいもの」

 百襲姫は絹衣すずしを翻し、夏の夜空を見上げた。天は向こうまで澄み渡り、雲一つも見えはしない。手を翳すと、先に眩い陽が灯る。


 祖神の祝福のもとで、彼女は狼のように嗤っていた。

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阿蘇 大鯰 水狗丸 @JuliusCinnabar

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