百襲姫③

 丁度馬飼らがやってきた春頃。

 彼女は阿宜率いる騎兵隊と、稲生率いる歩兵隊を率いて出雲へ攻め入った。あらかじめ整えられた路は星の如く大和軍を出雲へ導いた。

 げに恐ろしきは馬の力と、百襲姫の執念である。


 大和軍は瞬く間に中つ国の都、出雲を制圧した。

 あまりの呆気なさに、阿宜らは拍子抜けのていであった。


 国長の大国主、官の宿儺すくなは宮の前に並ぶ百を超える首に、背筋を凍らせる。

 無論、いずれも中つ国のつわものである。重く湿った鉄の臭いに、近衛このえすら顔面蒼白となっていた。


 一方弓張月の下、五十狭狭いささの小汀おはまにて、一人の大男が地に伏せた。

 彼、大国主の次男南刀みなかたは身体中から血を流し、息も絶え絶えに這い蹲る。中つ国の民草を守るべく臨んだ一騎打ちだが、稲生という怪力乱神を前にしては為す術もなし。


 百襲姫は平伏す彼を見下し、稲生を背から抱き締めた。武人にしては小柄な身に、雷の如き闘気がある。


 おんな武人もののふの稲生は布津の腹違いの妹で、百襲姫の親友である。


 彼女を女子供を侮った南刀に、百襲姫は容赦しなかった。柳のような手が、稲生が佩く十束とつかのつるぎの一本を抜く。そしてこれを振り上げ、南刀の右腕を叩き切ろうとした。


 しかし、刀は宙を切った。


 風を割いた一矢が、くろがねを弾いたのだ。


「何の真似かしら? 阿巳」

 彼女の左から、焦燥を帯びた男の声。わざわざそちらを向かずとも、誰かなど明らかであった。


「姫。この者はもう戦えません。これ以上の殺戮は何も生まない」

「ええ、そうね。でも私は私より強い雄が良いの。だから邪魔しないでくれる?」

 彼女は振り返ることなく言う。その声は波のさざめきのようにあり、それでいて底知れぬ沼のように深い。しかし猶も、阿巳は食い下がる。


「貴方の庭はもうじき手に入る。わがままなだけならまだしも、血塗れの暴君に誰が従いましょう。これを正さねば、貴女はいずれ天罰を受けるでしょう」

 彼は必死に訴えるが、姫に届いた様子はない。寧ろ天罰など承知とばかりに、莞爾と笑ってみせた。


「姫さま。憚りながら申し上げますが、まずこの場を片付けてはいかがでしょう」

 稲生が口を挟むと、彼女はようやく顔を上げた。その視線は星辰に向けられ、赤い舌が口端を舐めた。


「そうね。喋ってたら夜が明けちゃうわ。稲生たちはこの負け犬とその兄を捕縛し、大国主に届けなさい。騎兵隊は宿と厩の確保を。わたしも身を清めてから向かうわ」


 百襲姫は指示を出して、剣は稲生に返した。

 張り詰めた殺気が霧散すると、其処に立つのは美しい手弱女たおやめ。民は堪らず額づき、兵すら膝を突く。やがて彼らは稲生らに縛られ、引き摺られるようにその場を去っていった。


 その晩、阿巳は百襲姫が休む宮へと訪れた。

 夜の番に勤める布津は何用かと問うた。彼は姫と話したいと正直に話すと、稲生がいる場を選ぶよう助言する。


 阿巳はこれに従い、稲生と共に褥へ訪うた。

 簾の隙間から、鈍い光が漏れている。稲生の丸い横顔を、油皿に乗る燈火が照らしている。彼女が一声かけると、すぐに許しが下る。開いた帳の先で、姫は天鵞絨びろうど葉巻はまきを愛でていた。


「蜈蚣が効いたようで、喜ばしいわ」

 姫の温顔が阿巳に向けられる。はじめから訪われるとこなど知っていたとばかりに、彼女の笑顔には艶があった。


「何度も噛まれれば、嫌でも治ります」

「荒療治ってやつね。もう外しても問題なさそう」

 襟から出てきた蜈蚣に、稲生が身震いした。百襲姫は可笑し気に笑い、天鵞絨びろうど葉巻はまきを剣に乗せた。いかにも重々しい両刃剣は、大国主から得た天叢雲剣あめのむらくものつるぎである。


 中つ国一番の宝たるそれは、大国主の父祖が八岐大蛇を討った際に体内から取り出したとされる神器。その格は稲生が持つ十束剣に勝るとも劣らない。


「其方の中にいた狼は目覚めたわ。現に其方は兵三人の頸を刈った。稲生と比べたら足下に及ばないけど、悪くないわね」

 ずるりと、布が擦れる音がする。姫は土の匂いが残る身体で、稲生の矮躯に抱き着いていた。


 稲生は抵抗することなく、ただじっと彼女の舌を受け入れる。この世で最も美しく、それでいて最も危険な花に触れられるのは此方にてただ──幼馴染たる稲生一人だけ。


「姫。今宵は話したいことがあって参りました」

 危うく蚊帳の外にされた阿巳が口を挿むと、百襲姫は不満げに彼を睨んだ。灯に染まる赤い舌が、薄い唇から覗いている。


「わたしの口は一つだけよ。言いたいことがあるなら蟻の足より短くして」

 彼女はそう言って、蜈蚣を太い首に巻き付ける。大きな顎が、無数の脚が小刻みに動く。阿巳は背筋に冷たいものが走るのを感じた。


 だが同時に己の心中に眠る雄に火が点いたのも事実だった。

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