百襲姫②

 それから季節がいくつか巡り、牝馬たちはそれぞれ一頭ずつの仔馬を生んだ。


 仔馬らはいずれも栗色で、生まれてすぐ立ち上がるほど活発だった。百襲姫は大層喜び、自ら馬丁として仔馬らの世話をする傍ら、馬術の修練にも励んだ。阿宜らは高慢な姫君の意外な一面に驚き、また彼女が子らと戯れる姿に胸を温めた。


「馬と戯れるときの姫さまはとても愛らしい。あの狼のような瞳をしているときと、まるで別人だ」

 汀で馬を駆る彼女の姿を眺めながら、阿宜が呟く。彼の隣に控える布津は苦く笑った。


「我々にもあれほど優しければ良いのだがなぁ……」

 官のぼやきを耳聡く聞きつけた百襲姫は、彼らの元へ駆け寄り、「何か言ったかしら?」と詰め寄る。


 その顔はやはり美しく整っていたが、その眼光は凍えるように鋭かった。阿宜らは縮み上がりながらも、慌てて頭を振って否定した。それを見た百襲姫は訝しげに眉根を寄せたものの、すぐに興味を失ったようでまた馬を駆り始める。


 彼女の馬が遠ざかると、布津は肩をすくめてから話し出す。


「しかし阿宜どの。彼女は国長に働きかけ馬具を作るよう進言したり、出雲までの路を整えている。彼女はただ傲慢で短慮なお方ではないだろう」

 すると阿宜も頷く。


「あぁ。分かっておりますとも。姫さまは私と交わした約束を忘れてなどいないからこそ、よくお膳立てをしてくださっているのだ。しかし我が息子の阿巳とは反りが合わず。この間なんか河豚ふぐが吐いた水を被ったとか、激しい交尾の末に溺死したかわずを見せられたと言って腹を立てていたよ。まったく、女心というものは理解に苦しむものだ」

 百襲姫の悪戯は女心と無縁のものである。

 布津がそう言わんとしたとき、再び蹄の音が聞こえてきた。


 顔を上げると、百襲姫が喜色満面の顔で駆け寄ってきた。髪や衣の裾には小枝や葉がくっついていたが、そんなことを気にする素振りは一切見せず、少女は無邪気に笑う。


「見て!こんなに大きな虫を捕まえたの!」

 少女の手の中で暴れているのは、体長三寸はあるだろうかという巨大なかぶとむしであった。


 阿宜はその姿を見て震え上がる。

 長く伸びた角は悍ましく、その大きな口は人の肉すら容易く噛み千切るだろう。布津はあまりの大きさに呆然としていたが、我に返るなり声を荒げた。


「姫さま、どうかお下げください。そのような得恐ろしいものに触れるなど、もってのほかですぞ」

 すると少女は拗ねたように頬を膨らませた。


「だってこの子は私たちの大事な馬の友達になるかもしれないでしょう。仲良くしたいと思うのは当然のことじゃない」

 彼女は愛馬に甲虫を差し出すと、大きな鼻がすんすんとお腹を嗅いでいる。強者の余裕というやつか噛むこともなく、ただ撫でるように舐めていた。


「それにしてもなんて大きさなのかしら。これだけ大きいのだから、逞しい種を宿しているはずよ。帰ったら、一番大きな雌と番わせましょう。きっととても強い子が生まれるわ」

 百襲姫は目を輝かせ、甲虫の背中に唇を落とした。


 甲虫は身を捩らせて逃れようとするものの、少女は構わず、長い脚の一本を指先で掴んで持ち上げた。そしてそれを自分の頭上に持ち上げ、じっくりと眺めている。まるで遊び物を扱うような仕草に、布津たちは息を呑んだ。

 風与ふと、百襲姫は阿宜らの背を睨めつけた。

 阿宜らが振り返ると、櫓の影から細い影が覗いている。蟻のように小さな目が、こちらをじいっと見つめている。


「阿巳よ。今日は鍛冶の修練があったはずだが?」

 そう言うと、影──阿巳は慌てて頭を引っ込めた。亜宜は肩を落とし、ため息をつく。


 阿巳は百襲姫より五つ年上だが、元来気が弱く、また身体も小さかった。そのため少年期から虐められ、大和国でも百襲姫に振り回されっぱなしだった。


 そんな彼を放っておけなかったのか、浪速津なにはつひこは彼に鍛冶をおしえるよう官らに命じていた。今日も家事に勤しんでいるはずであったが、一体何故こんなところにいるのだろうか。


「ただの休憩です、父上」

 阿巳はゆっくり姿を現すが、百襲姫を恐れてか野良猫のように寄ってこない。


「巳よ。お前はそうだから百済でも苛められたのだ。せめて責務は全うせよ。それが親孝行というものであろう」

 阿宜は息子を叱責するが、彼は黙ったまま俯いていた。

 間もなく百襲姫が宮へ戻りましょうと宣った。


 阿巳も渋々と踵を返した折、馬上から百襲姫が声をかける。


「本当に休憩なら、そういえば良いでしょう」

 妙なことにその声は、阿巳にしか聞こえてはいないようである。事実、父らはまるで気にする素振りを見せない。阿巳が驚いていると、彼女は懐から蜈蚣むかでを取り出した。うにょうにょと蠢くそれを摘まみ上げると、すっと彼の襟元へ忍ばせる。


「……っ!?」

 阿巳は驚いたはずだが、悲鳴さえ彼女に奪われていた。


「ふふふ。稲生いなせみたいに卒倒はしないわね。じゃ、これからものははっきり言いなさいね。さもなくばその子に噛まれるわよ」

 百襲姫は悪戯っぽく笑うと、馬の腹を蹴って駆け出す。阿巳が呼吸を整えた頃には、既に姿が見えなかった。

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