大和国

葦原中つ国平定

百襲姫①

 大和やまと百襲ももそひめは七歳の頃、初めて『馬』を見た。

 胡服の群れが連れた獣。それは、立派な大樹から生まれたように美しいものだった。

 慈愛に満ちた瞳。品のある曲線を描く四肢。可愛らしいおとがい。柔らかな尻尾。なによりも、蹄の音が心地良いこと。素敵な楽人がくとが木鼓を打つよう。


「なんて、かわいい子たち。早く、この子たちのためのお庭が欲しいわ。広くて豊かなお庭がほしい」

 草香くさかのを見渡すやぐらの上で、百襲姫は独り言ちる。

 巨躯のつかさ布津ふつに抱かれ、らが早駆けに出かけるさまを見つめていた。茶色い背中が、黄金色の陽に照らされながら遠ざかっていく。


 その様に、百襲姫は胸元を押さえた。内側では熱い鼓動が脈打っている。しょっぱい潮風に吹かれるたてがみを瞼の裏に描き、深く深く息を吐いた。


「あの日の約束、ちゃんと遂げてね。阿宜。中つ国を、出雲いずもことむけ、あの子たちの庭を得るのよ」

 彼女は白い歯を見せ、西の空に薄ら嗤う。その面持ちは、あたかも鹿を狙う狼のそれだった。




 春の半ば、二十人の馬飼うまかいらが百済くだらから渡来した。彼らは扶余ふよぞくと名乗り、曰く南の高句麗こうくりとの戦によってあきないが脅かされ、一縷の望みを賭けてやってきたという。


 馬飼の長は阿宜あぎといい、長らしく精悍せいかんな顔つきと岩のような肉体を持ち、腰には異国の長剣を佩いていた。


 百済の商人は僅かながら見たことはあったが、これほどの益荒男は初めて出会った。

 また彼の妻も鋭い眼と鋼の肉体を持っており、まるで戦うために生まれてきたかのようだ。恐らく百済の中でも戦に長けた氏族だったのだろうと、国長の浪速津なにはつひこは推し量る。


 そして特筆すべきは阿宜らと共にやってきた五頭の馬。なんと美麗な背に輝かしき夢を抱いていることかと感嘆したのも百襲姫である。浪速津彦は娘の瞳に色が躍るのを覚え、阿宜は彼女の慧眼けいがんに舌を巻いた。よもや幼子が馬を前にして臆せぬばかりか、彼らが成した馬飼らの日々を支え、倭への道程を支えたことを見抜いたのである。


 阿宜は彼女を気に入り、一二歳の倅、を婿入りさせようと考えた。ところが彼女は言った。


「大和の地は大和の者で治めるべきよ。でも男妾ならば、約束次第で考えるわ」

「姫様」

 阿宜の隣で会話を聞いていた布津が口を挟む。しかし彼は姫君の気まぐれには慣れているのか、諫める声は穏やかである。阿宜もまた官の意を得たりとばかりに話を続ける。


「では、先に礼をさせていただきましょう。宝をいくつか献上します」

 すると百襲姫の目に影が差した。阿宜は少女おとめの眼光に潜むものを見て、瞬く間に呼吸を詰まらせる。粗相をした覚えはないのに冷や汗が止まらない。隣の官すら顔を青くしている。彼は骨からの震えを抑え、どうにか言葉を紡いだ。


「姫様。何か、不都合なことがありましたか?」

 そう問うと、彼女は先とは打って変わって朗らかにわらう。


「えぇ。わたしが欲するものが分からないの? 阿宜。あなた、鈍いのね。――お庭が欲しいの。広々としていて、馬が遊ぶことのできるお庭が。ねぇ、叶えてくれるでしょう?」


 彼女の表情は美しく、しかしその瞳は冬の月のように万物を凍りつかせる冷徹さがあった。この場で倅の婿入りを撤回することはおろか、逆らうことすらできはしない。


「……憚りながらお尋ねさせていただきますが姫さま。お庭とは何処のことでしょう?」

 膝を突く阿宜を案じてか、布津が代わりに問いかける。すると百襲姫は彼の顎先に手を触れさせ、慈しむように撫でつつ答える。


「西に馬を飼うに相応しい大地が広がっていると聞いたわ。名までは聞けなかったけど、あの日確かに感じたの。きっと近くにあるって。そして、いずれはあの土地も私のものにするわ。約束よ、阿宜」

 阿宜はその言葉を聞いて血の気が引かせ、傍らにいる官も眉間を揉んでいる。


 阿宜には分かった。姫のいう土地――おそらく中つ国か、その都たる出雲のことである。中つ国といえば大国主おおくにぬしが統治する大国。その国許は広大にして強大であり、わずかな騎兵では太刀打ちできるはずもない。


「案じないで。あくまで、いつか果たすべき約束よ」

 そう言って微笑む姫に、阿宜は諦めに似た溜息をついた。

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