昔、櫻島の沼にたいそう立派な野槌が暮らしていた。草祖との間に一所の息女を儲け、井草や枸杞を乳母としたその娘を萱と呼ぶ。


 名親は阿蘇国の后たる五十鈴姫。彼女の寵愛を以て、彼女は宮仕えの薬師となった。


 万物が眠る冬。

 萱は不動岩の天辺で舞を踊った。北気が運ぶ瘴気を清め、万物の健康を守るためである。


 薄く長い布を緩く巻き、蜘蛛糸を編むように風を濯ぐ。


 鋭く険しい岩の上で、柳のような細脚がしなやかに跳ねる。


 裸足で踊っているにもかかわらず、足裏には一本の瑕もついていない。艶やかに舞いながら、萱は己の指先を見て思う。よく見れば彼女の皮膚は僅かに浮いて張り付いていた。


 そろそろ脱皮の時期である。人の姿を採ってもなお、野槌である限り訪れる。


 舞を終え、萱は元の姿に変じて森へ潜った。

 蛇や蜥蜴に似た身体はすっかり真っ白になり、浮いた皮膚を岩に撫でつけると剥げていく。 


 何度も何度も木や岩に身体を押し付け、少しずつ少しずつ剥いでいく。ぐるぐる、ぐるぐる同じところを回り、半分まで脱げたところで口で咥えた。


 年に一、二度の脱皮であるが、上手く脱げるときとそうでない時がある。年を重ね経験を積んでも尚、彼女はこの行為を嫌っている。


 萱は疲れて眠りかけたが、先日鳶に襲われたことを思い出して頭を振った。


 剥けた皮を食べながら、漸く上半身の脱皮を終える。尻尾まで剥けば、あとは咥えるだけ。彼女は飲まず食わずで脱皮を続け、尾を噛んでは吐き出すを繰り返し。


 最後の一枚を呑み込む頃には、月が高く昇っていた。


 疲れ果てた萱は邑へ戻り、畑の畔で水を飲み、大根おほねを齧って床に就いた。


  しばし後、土に埋もれるようにして横たわる萱の側に、鈍色の鉄が突き刺さった。


 それは刃渡り二尺ばかりの刀。天上より除く鋭利な黒目が、雪を欺く肌が、月の逆光を受けてなお輝いている。


「泥棒め。よくも我が主の食い物に手を出したな。只の蜥蜴であろうと、我が地の一部。今ここで切り刻んでくれる」

 女の鋭い声に瞼を開いた萱は恐れ慄き、這いずり回るように身を捩った。


 しかし間もなく地に縫い付けられ、首根っこを押さえつけられてしまう。喉からひゅうと音が鳴った。藻掻くこともままならず、彼女は必死に言葉を紡いだ。


「なんでしょうか。わたくしはお腹が空いていただけなんです」

「盗人猛々しいとはまさにこのこと。其処に座れ。逃げたら今度こそ刻んでくれよう」

 萱は慌てて人の姿になり、女の前に正座する。


 月明りに照るその人は、よく見れば女官の久々知彦であった。五十鈴姫と草部男王の婚礼の折は面紗で覆われていたが、今は北気に闇を流している。望月が如き麗しいかんばせに、萱はついつい見惚れてしまう。


 斯様な惚気など知らぬ久々知彦は、淡々と細い首に刀を添えた。

 萱はひやりとした感触に目を覚まし、蚊のような悲鳴とともに背を伸ばす。



「其方、五十鈴姫が連れてきた新米か。人ならざるものと聞いていたが、噂に聞く野槌であるか」

 久々知彦は無表情のまま問うた。しかし五十鈴姫の名に希望を見出し、彼女は必死に釈明する。


「左様です、左様です。先日五十鈴姫さまに救われ匿って頂いた身でございます。野槌ゆえ、あのおほねの正体は存じませんでした。ただ美味しそうだと思っただけで、他意はありません。本当です。信じてください」

 事実、土の中に住む彼女は人の営みや流行には疎く、礼節の一部を知るのみ。故に盗むつもりはなく、本当に腹が減っていただけであった。


 久々知彦は暫し思案した後、徐に剣を下げる。どうやら許されたらしいとほっと胸を撫で下ろした矢先、その細い手を掴まれた。


「何を安心しているのだ。お前は貴重な食い物を勝手に食した罪を負っている。よって、私と一緒に宮に来てもらう。もし逃げ出すような素振りを見せたら即刻首を斬る」

 久々知彦は白樺の腕で萱を抱え、宮へと向かった。久々知彦は美しい顔を間近にし、萱は盗人の付箋を貼られていることも忘れて舞い上がった。久々知彦は宮へ着くなり萱を柱に括り付け、向き合うように正座する。


「私はこの国の官であり、男王の近侍を務める者だ。お前が盗み食いした大根は、我が国で最も高貴なお方のものである。五十鈴姫の寵するあやかしであれ、それを軽んじた行いは到底許されるものではない」

「許されぬというのであれば如何様に罰するのでしょう?わたしに出来ることがあるならばなんでもします」

 萱の言葉に久々知彦は少し思案し、息を吐いた。


「新米とはいえ我が友、五十鈴姫の使い。直ちに極刑にはできぬが、何か相応の報いは受けてもらわねばならぬ」

 そこで、と言い淀んだ彼女に嫌な予感を覚えるも、それを打ち消す言葉もない。恐る恐る次を待つしかなかった。


「其方は薬に明るいと聞いている。丁度良い。我が君の夜に一味加えるべく、媚薬を作れ。三日後までに遂げれば、今回の件は不問とする。だがもし不手際があれば、その時は承知せぬぞ」

「こ、これは大変な任務を任されてしまいました。ですが必ずやご期待に応えてみせます。お任せくださいませ」

 萱は二つ返事で了承し、深々と頭を下げた。


 彼女や野槌らはあらゆる草木の効能に精通しており、薬草探しにも困らなかった。眷族である野槌らと共に数多の薬草を煎じ、一晩で作り上げた。それは一口飲めば忽ち身体が火照り、二口目には心まで虜になるというもの。次の晩には出来上がった薬を携え、萱は再び久々知彦の部屋を訪れた。


「こちらが、野槌としての知恵を詰め込んだ自慢の一品にございます。是非ともお納めくださいまし」

 彼女は懐から小さな壺を取り出し、恭しく差し出した。久々知彦はそれを受け取り、蓋を開ける。ふわりと香った甘い匂いに一瞬眉をひそめたものの、早速毒見と称して一口含んで見せた。ごくりと喉が鳴るのを確認し、彼女は笑みを浮かべる。


「いかがでしょうか。欲を掻き立てる薬草や香りをふんだんに用いたものです。これで次の晩、陛下はより熱い夜を過ごせることでしょう」

 萱が得意げに話す一方、久々知彦は顔色一つ変えずにいた。


 まるで効果が無いのかと思いきや、よく見れば呼吸は浅くなり頬は紅潮している。どうやら鉄の理性で、必死に欲を抑え込んでいるらしい。


「お気に召して頂けませんでしたか?」

 不安そうな顔をする彼女に、首を横に振る。


「いや、これほどのものを作り出せるとは大したものだ。只人であればとうに狂っているところであろう」

「そうですか、喜んで頂けて嬉しい限りです。では、これで先日の粗相は水に流していただけると」

「あぁ、寛大な処置に感謝するといい。本来なら極刑でもおかしくないのだ。私の慈悲深さに感謝するがいい。ただし五十鈴姫には私から伝えておく。人ならざる官の教育不足だとな」

 久々知彦はそう言うと席を立ち、壺を抱えて出ていった。


 残された萱はひとまず命拾いしたと胸を撫で下ろし、地面を通して彼女の跡をつけていった。


 向かう先は五十鈴姫の夫、草部男王が籠る局。久々知彦は彼に媚薬を献上すると、一言二言言葉を交わしたのちに退室していった。萱は二又の舌をちろちろと動かし、久々知彦の身が先よりも火照っていることを確かめていた。


 そして宮の外側にある局へ着くと、萱はするりと忍び込んだ。床の隙間から覗き込むと、久々知彦は既に顔を朱に染めている。


 男王らのためとはいえ、毒見したばかりに身悶えるさまは萱の目を奪った。墨染の貫頭衣を脱ぎ捨て、寝具の上に横たわる美しい人。月明りだけが輪郭を照らし出し、扇情的な姿態に目が離せない。萱は堪らず飛び出し、下半身だけ野槌のまま這い寄った。


「久々知彦さま。野槌の皮膚には薬効を取り消す力がございます」

 藤のように、尾を腰に巻き付ける。その体温は低く、今の久々知彦にとってはこの上なく心地良いもの。


 彼女は再び人の姿をとるなり、口移しで己の皮膚を呑みこませた。口内に広がる薬草の苦みと甘さが混ざり合い、澄んだ香りが鼻腔を通り抜けていく。途中、何度か押し退けようとしてきたが、あの力強さはどこに行ったのか。

 やがて諦めたように腕を下ろすと、一矢が萱の真横を掠めた。


「ひゃっ」

 髪が一房、久々知彦の肩に落ちる。

 恐る恐る顔を上げると、簾の隙間から覗く眼光とぶつかった。それはとても見慣れたものでありながら、いつにないほど恐ろしいものであった。


「この、泥棒猫」

 艶やかな生足など気に留めず、五十鈴姫は簾を蹴破ってきた。

 萱はとっさに剣の一閃を避け、そのまま部屋の隅で土下座をする。土遁の術を使って罪を重ねれば、今度こそ処されるであろう。


「誤解です、五十鈴姫。私はただ久々知彦さまにお薬を飲んで頂こうとしただけで……」

 問答無用と、言い訳の途中で後頭部に一撃。

 萱はそのまま意識を失い、目覚めると野槌姿で投獄されていた。


 久々知彦が弁護したお陰で罰は軽く済んだが、その後三晩は終日ひもすがら女医及び官、また人間としての法や徳が叩き込まれた。


 次に日の下へ出たときには疲れのあまり、人の姿に戻れずにいた。


 また次の日は五十鈴姫の顔が妙に艶やかである一方、久々知彦が腰を押さえていたのは別の話である。

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