野槌

五十鈴姫

 此れは何ごとかしらと、五十鈴姫は目を丸くした。


 ぬばたまの髪が一房、湿気た風に揺れる。天つ空を舞うは灰塵にあらず、降りしきるは手足なき蜥蜴の雨。その鱗は茂賀の浦に広がる瑞穂の海のように輝くが、飛んで移るさまは打ち上げられた魚のよう。


 民草は何ぞや何ぞやとざわめき立つも、誰一人として手を出すものはいない。さてこの蜥蜴の行く末や如何に、と皆息を飲むばかり。


 阿蘇あそのくに随一の鉄の産地にして神の住処。其処が大王の許婚たる五十鈴姫が治める阿蘇山である。


 其の土地柄ゆえ人々は製鉄に長け、北にある女王ひみこのくにのへ優れた尖兵となる。


 斯様な煙の国で起きし一大珍事。曙の空から灰ではなく蜥蜴が降り注ぎ、ぴちり、ぴちりと弾け飛ぶ。似た姿の蛇ならば水の神か祟りであるが、なぜか腹が膨れている。四肢はないが、邪悪さを全く感じさせぬ無垢な瞳の色。よく見ればなかなか愛らしいものである。


「まさか鬼か物の怪の仕業か?!」

「いやいやあれは…………あれはきっと神の御業じゃ」

「何を言う!あれこそは鬼畜外道の所行だ!そうに違いない!!」

 次第に勝手なことを言い合う民を諫め、五十鈴姫は太占を以て天に問う。鹿骨の跡を読むと、吉兆とも凶兆とも出ず。


 その間にも蜥蜴らは川に飛び入り、流れ乗って泳いでいった。


 五十鈴姫は急ぎ鹿に跨り、苔生した渓谷を下っていく。気が薄い阿蘇山の上とは異なり、瑞々しい朝霧に満たされる大地は心安らぎ、頬を撫ぜる風は秋めいている。


 鼠を追う猫の気持ちとはかかるものだろう。蜥蜴を追って走る五十鈴姫の首に露が滴る。朝の営みに出る民草は丸っこい蜥蜴と其れを追う五十鈴姫の姿に仰天して道をあけていった。


 夢中で走った先、蜥蜴らは氈鹿カモシカの背に飛び乗る勢いで萱原へと突っ込む。


 萱原は穂を揺らして、ふわりふわわっと風に舞い踊る。五十鈴姫も鹿から降りて、萱原の中に分け入った。蜥蜴らはきゅう、きゅうと声を上げて飛び跳ねる。


 萱が織りなす帷子の如き萱の中で見たものは、鳥に啄まれたであろう三十寸ほどの大きな蜥蜴であった。膨れた腹から血を流し、苦しげに息をしている様子に胸を痛めた五十鈴姫は手を添える。


「あらまあこの子たちの親かしら? なんと痛々しいこと。すぐに治すからどうか動かないで」

 そう言って五十鈴姫は川の水で傷口を清め、萱を薬と糸に変えて毒を除いた。大蜥蜴はすっかり元気を取り戻し、子らを連れて森の奥へと向かって行く。五十鈴姫が後を追うと、一際太い檜の根元に穴を見つけた。彼らはするするとその中に吸い込まれていく。


 人には通れぬ細さであったため、これ以上は追えぬ。五十鈴姫は仕方ないわと言って、阿蘇へ戻っていった。


 それからしばらくは何事もなく過ぎた。

 国を統べる草部男王との結婚前夜、何者かが五十鈴姫のいるつぼねの前へ来た。朱い火が小さな影を現している。


「夜分遅く申し訳ございません。わたくしは先日助けられた蜥蜴でございます。あの時いただいた命の恩義に報いんと参上仕りました」

 簾の向こうには濡れ鴉の髪を二つ編み、紅椿の頬も愛らしい娘がいた。


 彼女は腕に抱えた包より、芋貝いもがい水字貝すいじがいが連なった鮮やかな首飾を差し出した。南にある島島──琉求では水字貝を護符とするが、これほど目を引くものは多くない。五十鈴姫はそれを手に取り、灯りにかざす。


「其方は何者かしら」

「実のところ我々は蜥蜴ではなく、地に住まう野槌のづちというものにございます。時折草を食むべく地上に昇りますが、あの日は運悪く鳶に襲われたのです。我が使いらはわたくしを助けるべく、尊く優しき方を導いてくれたようです」

 娘は深々と頭を下げて礼を言う。


 阿蘇山から落ちてきたのは、五十鈴姫らの気を引くためであったよう。なるほど確かに釣られたと、彼女は噴き出すように笑ってしまう。なるほど確かに釣られたと、彼女は噴き出すように笑ってしまう。娘を気に入った五十鈴姫は名を問うたが、野槌は持ちませぬと首を振った。


「ならば萱と名乗りなさい。我々の身近にあり、見目も良く優れた緑の名を」

 名は体を表すと言うように、彼女は健気で美しい娘を萱と呼んだ。萱は恩返しした矢先にまた与えられ、少しばかり戸惑った。


 しかし喜びが勝ったのだろう。顔を赤くするなり野槌に戻り、五十鈴姫に促されるままつぼねに泊まったが、翌朝には再びいなくなっていしまった。


 五十鈴姫は落ち込みながらも支度をし、青々と晴れの下で輿入れに向かう。雲一つなくからりとした空に、五羽のこうのとりが飛んでいる。


 宮に到着した五十鈴姫は夫となる草部男王と婚礼の儀を挙げた。彼の顔を見るのは実に八年ぶりのことである。


 祭祀のため滅多に帳から出ぬ男王と手を繋ぎ、宝物で彩られた祭壇の側で舞い始める。隅では王の右腕たる女官の久々知彦が琴を奏で、神に五十鈴姫らの幸を祈っていた。

 

 舞の途中俄に風が拭き、数枚の木の葉が落ちてきた。

 彼らは共に踊るように舞い、歌うように地を掻いている。


 五十鈴姫は看客の中に萱の姿を見た。草木で編まれた着物を纏い、誰に問われることもなく立っている。その様はまるで常にそばにある樹木のよう。


 儀を終えた五十鈴姫は初夜の前に、いそいそと萱のもとへ向かった。そして萱が野槌の姿になって 土に帰ろうとしたところを、捕えて言い放つ。


「恩を売ることも売られることも苦手だった? ならば互いに支え合いましょう、土の子の萱」

 首に下がる立派な貝と同じくらい、五十鈴姫は眩しく微笑んだ。


 抱き締められた萱は顔を熱くして娘となる。陽に照る苔の如き新緑の瞳は、涙を張って揺らいでいた。生まれてから使いとともに地中で過ごしてきた彼女にとって、見初められることは、名を与えられることは奇跡に等しいことであろう。


「人の世とは縁のないことと思っておりましたが、竹の花を見逃すわけにはいきませぬ。不束者ですが、どうぞよろしくおねがいします」

 萱はようやく首を縦に振った。そして落ちてきた雫をよく抱き締め、以来は彼女の女医として尽くしたのである。

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