冥婚
尾八原ジュージ
おかえり
二十三歳の時、死人と結婚することになった。どうやら借金のかたに娘を嫁にやる、というのを親にやられたらしい。元々家庭環境がよくなかったので、私はむしろ喜んで家を出ることにした。いくらお金が動いたのか知らないが、それ以降実の両親とは一度も会っていない。
義理の両親は、ボストンバッグひとつでやってきた私の到着を喜んだ。彼らはきれいなお嬢さんだ、息子のいい供養になると口々に言った。
写真を撮らせてちょうだいと頼まれ、すぐスタジオに向かった。何の心の用意もないまま衣装を選べと言われ、以前殴られた痕が残っていたので肌が出るドレスは断念して、白無垢を選んだ。黒縁の写真立てに入った新郎と並んで写真を撮った。このとき初めて夫の顔を見たのだが、目が魚みたいにキョトンとしていて、美形ではないけど優しそうな顔だった。ひと目見て、嫌いな感じではないなと思った。
新居は夫の実家の近くにあった。まだ築年数の浅いマンションの一室で、こんな部屋を用意できる義両親はお金持ちなんだろうと考えた。ともかくここで新婚生活が始まるということだが、いやな気はしなかった。
五階の南向き2LDKの新居には、家具も家電もなにもかも整えられていた。寝室には小さな仏壇と位牌が置かれており、ベッドの方を向いていた。ダブルベッドでのびのびと眠って次の朝起きると、昨日初めて顔を見た夫がリビングのソファに座っていた。起きてきた私を見て、彼はちょっと照れたように「おはようございます」と言い、片手をあげた。
「おはようございます」
私はあいさつを返した。夫はよく見るとちょっと透けていて、やっぱり幽霊なんだなと思った。
こんなふうにして私たちの新婚生活は始まった。始まったと言っても大層なものではない。私は前から勤務していた会社にそれまでとおなじように出勤し、籍を入れたわけではないので諸々の手続きも必要なかった。念のため上司に「借金のかたに売られて死人と結婚しました」と報告したら、あら~と言われた。あら~と言われるようなことだったのだと認識した。
仕事を終えて家に帰ると、夫が「おかえり」と出迎えてくれた。私が帰ってきたのが嬉しいらしく、にこにこしていた。私はほとんど生まれて初めてといってもいい「おかえり」にどきどきしてしまい、すぐに「ただいま」という言葉が出てこなかった。
買ってきた惣菜をパックのままダイニングテーブルに並べ、夫に食べる? と聞くと「食べられないからいらないんだ。でもありがとう」と言われた。その断り方、特にありがとうと付け加えられたのが心地よかった。
今朝初めて会ったばかりの仲なので特に話すこともなく、私はテレビを点けて漫然とそれを見ながら食事をとった。画面の中では若い俳優が漁船に乗って海に出ており、釣り竿で鮫を釣っていた。画面を見ている夫が楽しそうに見えたので、テレビを点けてみてよかったと思った。
「釣り好き?」
尋ねると、夫は「そうじゃないけど、魚は好きかな」と答えた。
「そういえば魚に似てるもんね。いい意味で」
「いい意味でか。ありがとう」
夫はそう言って笑った。その晩、別に夫婦らしいことをするわけではないけれど、一緒のベッドに入ってふたりで眠った。
私たちの生活は穏やかに続いていった。夫はただそこにいるだけで、ものに触ったり動かしたりすることはできない。生活費を稼ぐのも家事をするのも私ひとりの役目なので、傍から見ると一人暮らしをしているのと大差なかった。朝起きて出勤し、仕事をして帰宅し、一人分の夕食を用意してそれを食べ、入浴して眠る。でも家には夫がいて、私たちはちゃんとふたり暮らしをしていた。
私たちはダイニングテーブルを挟んで、時にはソファに並んで座って、時にはベッドの中で、いろんな話をした。あまり大事な話はしなかった。子供はどうするとか、家を買うのかとか、そういう重大なイベントは私たちには関係がなかった。近くの公園でレトロな竹筒の水鉄砲で遊ぶ子供を見たとか、蝉の声がうるさくなったとか、コツメカワウソはかわいいけどオオカワウソは結構恐いとか、そういう些細なことばかり話していたので、しばらく経つと何を話したのか忘れてしまうことも多かった。時には話すネタがなくなって、ふたりで黙ってテレビや映画を観たり、ベッドの中でぼーっとしていることもあった。
「きみみたいないい人に、ぼくなんかと結婚させちゃって悪かったなぁ」
最初の頃、夫は時々そう言った。
「なんで?」
「だってぼくは幽霊だし、きみに何をしてあげられるわけでもないし、そもそもよく知りもしない男なわけだし」
「私はなかなか快適だけどな」
そう言うと、夫は「よかった」と言って引き下がるのだが、そのうちまた思い出したように「悪かったなぁ」と言うので、とうとう私が怒った。
「私はこの生活を気に入ってるの。だからもう、そういう話は禁止」
勝手にそう宣言すると、夫は「ごめん」と謝った。素直なひとだなと感心した。
それから夫は代わりに「ぼくと結婚してくれてありがとう」と言うようになった。私は「どういたしまして」と答え、そのやりとりは夫婦らしくてなかなかいいなと思った。
結婚して三年が経った。マンションはペット可の物件だったので、わたしたちはなにか動物を飼うことに決めた。犬だと散歩に連れていかなければならず、魚はなかなか世話が難しそうで、迷った挙句猫を飼うことにした。では今度猫を探しに行きましょうと決めた次の日、私は近所のスーパーで貼り紙を見つけた。
「猫の里親を探しています」という文字の下に、かわいらしい毛玉のような生き物の写真がついていた。私はその場で書かれていた番号に電話をかけ、買い物のことはすっかり忘れて仔猫を引き取りに向かった。
仔猫を保護していたのはおばあさんだった。「こんなに早く里親が見つかると思わなかった」と喜び、古いけれどと言って猫のトイレや餌台などを譲ってくれた。「昔飼っていた猫が使っていたものだけど、どうしても捨てられなくて困っていたの」と言い、その顔は寂しそうだけど、嬉しそうにも見えた。
私は猫用品を車に満載して帰宅した。途中で、夫に無断で猫を連れてきてしまったことに気づいた。ふたりで相談してどんな子を飼うか決めるはずだったので、叱られるかもと心配した。幸い、帰宅して猫を見せると夫は喜んだ。ふたりで首をひねって名前を考えたが、いい名前が思い浮かばず、結局仮称で呼び始めた「タマ」が定着してしまった。
こうして、三毛の小さな雌猫はタマという名前になり、私たちの家に落ち着いた。夫はタマを眺めながら「きみと結婚してよかったなぁ」と言った。
「実家では母が生き物が苦手で、飼えなかったから。かと言って一人暮らしじゃ世話できるか心配だし」
「今だって、よそからみれば私の一人暮らしみたいなものでしょ」
私が軽口のつもりでそう言うと、夫は「そうか」と寂しげに呟いた。
私は夫を傷つけてしまったと思って慌てた。私には昔からこんなふうに軽率で、ひとの気持ちがわからないところがあってよくない。なんと言って挽回したらいいか困って「でも
夫はものを持つことができず、私は日中家にいないので、タマは自動給餌機に頼ってすくすくと育った。幸い病気もせず、動物病院はワクチンを打つために行くところのようなものだった。ベッドに入るとわたしたちの間で喉を鳴らして眠り、一年もすれば仔猫ではなくなった。夫のことは認識できるらしく、時々ズボンの裾にじゃれついたり、さし出された指のにおいを嗅いだりした。
タマと遊ぶ夫を見ていると、なんだか温かいものが胸にこみ上げてくるような気分になった。
「あなたと結婚してよかった」
そう言うと、夫は「ぼくも」と笑った。それに続けて、「生きているうちにきみと結婚したかった」と言ってくれたのは嬉しかった。でも、もし彼が生きていたら私と結婚していたかどうかわからない。たぶんしていなかったんじゃないかと思う。私は彼が死んでいることに感謝すべきなのかもしれなかった。
思えば、私たちの関係は彼の死を前提としている。ちょっと透けている私の夫は、仕事も家事もできないし私に触れることもない。それでも私にとってはじゅうぶんだった。当たり前の夫婦でないとしてもかまわなかった。私はタマをなでながら「私が死ぬまでここにいてね」と言った。
「ちゃんといるから安心おし」
夫はそう応えた。その言葉が裏切られるなんて思ってもみなかった。
結婚して七年が経ったある日、夫が難しい顔で「ぼくはそろそろ、きみとタマにさよならを言わなければならないのかもしれない」と言った。
時間が止まった。私は何も言えなくて口をポカンと開けていた。タマはキャットタワーの一番上から私たちをじっと見下ろしていた。
「なんで?」ようやく口からそれだけの言葉が出た。夫は俯いたまま、「うまく言えないけど、そういうことになったってわかるんだ」と言った。
「そうなの」
私たちの間の言葉は途切れた。そうなの。それ以上の言葉が出なかった。夫の様子から、彼にもどうしようもない領域で物事が進んでいるということがわかった。夫は覚悟を決めたようにうなずくと、私の顔をまっすぐ見た。
「たぶん何かに生まれ変わるから。それで、生まれ変わったら会いに来るから」
「そんなの、私にわからなかったらどうするの」
そう言った途端に涙があふれて止まらなくなった。普通の夫婦ではなかったけれど、この人のことは愛していたんだとわかった。
「大丈夫、わかるようにするから。できる限り何度も来るから」
「よくない」
よくないよくない、と言って私は泣きじゃくった。よくない。私が帰ってきたとき、あなたがここにいて「おかえり」と言ってくれるのでなければ全然よくない。
わんわん泣きながら、もう薄くなり始めた夫の手をとろうとした。私の手はやっぱり、いつものように彼の手をすり抜けた。
「きみと結婚してよかった。ありがとう」
夫が言った。
「お別れみたいなこと言わないで」
涙で何も見えなくなった。タマがにゃあと大きく鳴いた。涙を拭いて前を見ると、もう夫の姿はなかった。
私たちの生活はこんなふうに突然終わってしまうものなのだと、今まで考えたことすらなかった。夫は幽霊なのだから、私が死ぬまでずっとこの家にいるのだろうと思い込んでいた。でも後でやってきた義両親によれば、結婚生活によって魂が満足したから、夫はあの世に行ってしまったのだという。
ならあの人と結婚なんかしなければよかった。初めて本気でそう思った。満足なんかしないで、ずっとこの世にいてもらえばよかった。
結婚して十年、夫がいなくなって三年が経った。
私は今も同じ部屋に住んでいる。一人ではない。タマが一緒だ。夫は今はいないが、たまにやってくる。わかるように来ると言っていたけれど、本当にわかりやすくて笑ってしまった。
はじめは窓枠の下から朝顔が生えた。ここはマンションの五階なのに、どうしてこんなところからって言いたくなるような場所だった。朝顔はひと夏で枯れてしまったけれど、夏の間は毎日、私にいってらっしゃいとおかえりを言ってくれた。
鈴虫になって窓からぴょんぴょん入ってきたので、虫籠に入れて一緒に暮らしたこともある。タマは夫が生まれ変わったであろう小動物をいじめたことは一度もない。ただ不思議そうな顔をしてじっと見つめていることはある。
最近では、夫が帰ってくるのがわかるようになった。エレベーターを下り、玄関のドアに鍵を差し込んだとき、ふと懐かしい気配を感じる。私はひとつ深呼吸をし、乱れていた前髪を整えてから鍵を捻り、玄関のドアを開ける。
「ただいま」
冥婚 尾八原ジュージ @zi-yon
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