1 想像した通りの顔の男

 私は例年通り、クリスマスイブの昼過ぎに目を覚ました。いつも通りインスタントのコーヒーを温め、ベッド脇のスリッパを履いてベランダに出る。ゲーテ通り、壁が朽ちて石がむき出しになったアパートは、ボイラーもしょっちゅう止まる。しかし観光客が少ないうえ、旧市街を一望できるこの立地は執筆に最適なはずだった。


 コーヒー片手に庭先まで出てみる。どの家の前にも雪の積もった車が止まっていて、丘の向こうで小鳥が鳴いている。リンゴ売りの夫婦も今日は休みだ。玄関に溜まった雑誌類を確認していると、買った覚えのない文芸雑誌を見つけた。訝しみながらぱらぱらとめくると、折り目のついたページが自然と開く。


「ソフィアか」


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 Frohe Weihnachten!

 まずは入選おめでとう!

 本職の方はどうかしら。勤務先は決まったんだっけ?

 どうせあなたのことだから返答しない間にポストをとられているんでしょうけど。もしクリスマスが1人なら、ひさしぶりに「作家の宿」に顔でも出しなさい。

 父から伝言を預かってるの。私たちに合わせたい人がいるって。カールと私は今年はデンマークでクリスマスを過ごすって言ってるのに


 どうせ大学の後輩とかだと思うから、ハンスがよければ行ってほしい。きっと喜ぶわ。なんたってあのハンス・ロックストロームに会えるんだから

 

 P.S. 新作の感想はカールの実家からみんなの分送ります


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 雑誌には彼女の子供の写真が挟まっていた。補助輪のついた自転車にまたがって運河沿いを走っている生き生きとした少年だ。写真はまだ趣味で続けているようだ。学業においても才能があったソフィアは、大学を出てすぐに証券取引所に勤めた。忙しいとはいえ短編の上に直接万年筆で手紙を書くのはどうかと思うが、彼女らしい。


 大家が塩を撒きに玄関まで出てきたので、私は軽く挨拶を交わし、紙の束を抱きしめて暖気の残る螺旋階段を上った。

 

 仕事を持ち帰るまいと決めていたはずの部屋に戻る。2つ縦に並んだベッドの上に、段ボールの中に積まれた大量の論文や、ホチキスで留めた文献のコピーで溢れかえっている。これまでコンテストに提出した原稿なんかは逐一捨ててきた私だったが、今度の荷物はなかなか整理できずにいた。


 私は1月前に職を失った。正しくは、ソフィアの言うようにイタリアの大学から声がかかっているのだが、どうもこの町を離れる気にはなれなかった。


「合わせたい人か」


 クリスマスに家族が揃わなくて寂しがっているソフィアの父の顔が思い浮かんだ。そして思わず、その背中の影から、クリスマスのサプライズだと笑いながら不意に姿を現す舞の姿を想像する。淡い期待を抱いたところで落胆するのは自分なのだが、たとえ舞がいなくとも、ソフィアに代わって挨拶に行くのは悪くない。


 期限の迫った書類の山から逃避するように、私は外出の準備をすべて玄関で済ませた。ポケットの破れたコートを羽織って、柄の落ちたマフラーを首にかけ、白紙の雇用契約書が貼り付けられたドアを閉める。私はブーツが塩を踏む音を鬱陶しく思いながら、積雪の眩しい外を数日ぶりに歩いた。




「こんにちは......」


 市役所広場の一角にひっそりと佇む骨董屋のガラス戸を開ける。古本屋の店名は誰にもわからない。看板は朽ちて外され、入り口に無造作に立て掛けられている。板に彫られた角張った溝はかつて立派なひげ文字が書かれていた名残だ。ここの上階は下宿になっている。私を含めて、数々の小説家や劇作家を輩出してきたものだから、お世話になった人は皆尊敬の念を込めて「作家の宿」と呼んでいる。鍵は空いていたが当然客も店主もいない。暖房も効いていない。


 下宿に繋がっているレジ横の急な階段を見上げる。人の気配はない。留学生の1人くらいクリスマスでも残っているだろうと思っていたが、電話の一本でもかけてから来るべきだったか。


「ヤンソンさん......ハンスです。いらっしゃいますか?」


 返事はなかった。

 鹿の剥製にマフラーをぶら下げ、コートは着たまま、軋み音を立てないようにおそるおそる階段に足をかけた。廊下を覗き込むと微かに明かりがついている。誰かいるとわかって数段登ると、一気に石壁から冷気が滲み出してきた。店の入り口は閉めたはずだが。


「誰だ?」


 なんの前触れもなく、耳のすぐそばでしわがれた声がした。変な声をあげて足を踏み外すと、力強い手が私の背中を支える。


「ヤンソンさん?」


 ソフィアの父ヤンソンは無邪気な人だ。装本作業を繰り返す中で分厚くなった皮膚が私の手をがっしりと掴んでいる。


「ヤンソンさん、お久しぶりです。ハンスです」

「ハンス?」

「ソフィアから手紙を貰ったので......今まで顔も見せずすみませんでした」

「そうか、ハンスか」


 私たちは1階まで降りてきた。ヤンソンはまだ私の手首から手を離そうとしない。


「ヤンソンさん、あの、そろそろ」


 その時私の目線の先で、中庭に通じる白い扉が風に煽られて激しく開いた。


「ハンス! 久しぶりじゃないか。急にどうした」


 薪を片手に、背の丸くなったヤンソンがブーツを履いたままこちらに歩み寄ってくる。


「......え?」

「何してるクリストファー、彼を離してあげなさい。君の待ち人だよ」

「クリストファー?」


 彼がソフィアの言っていた後輩かと、私は手が解放されるや否や振り向いて無礼を詫びようとした。しかしそれはその男の顔を見た瞬間に恐怖の感情へと変わり果てた。


「悪かった」


 男は私の方に手を差し出す。私は棒立ちのまま言葉を失っていた。無表情にこちらを見つめてくるその大男の顔をよく知っていたからだ。左耳から首にかけてできた火傷痕、黒く油っぽい髪、漆喰のように霞んだ瞳、それらは全て想像した通りの顔だった。お互いに、相手を見定めるように距離を取る。


「ヤンソンさん、彼は一体」

「君はよく知っているだろう」


 クリストファー。私は確かにその名前をよく知っていた。これはクリスマスのサプライズだろうか。しかし彼の容姿は、白髪の房まで私が想像していたイメージと一寸違わず一致していた。


「ハンス、俺は別に貴方に復讐しにきたわけではない」


 復讐?

 私は脳が冷静な判断力を失っていくのを感じながら、物語の中で彼にした仕打ちを思い出していた。


「許してくれ」


 男は眉ひとつ動かさない。ヤンソンに助けを求めるが、彼はいつのまにか売り物のソファに腰掛けていた。再び男を制止しようと目を合わせるが、その生気のない顔を直視できなかった。気がつけば私は壁に張り付くように立っていた。男はにじり寄ってくる。目を瞑ると、先程は気にならなかった煤のような香りが近づいてくる。


「私の願いはひとつだけだ」


 私の手になにやら細い金具が押し付けられる。何もわからずにそれを握りしめた。目を開けるとそこには万年筆があった。間違いない。舞が家を出ていく前、原稿と一緒に捨てたはずのものだった。


「私の物語を完結させて欲しい。貴方自身の手で」


 クリストファー。彼は私が学生時代に執筆していた未完の長編小説、「書斎を燃やせ」の主人公の師であり、主人公の最後の敵となる男。それが今、私の目の前に立っていた。

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さすらいびとの書斎 I 松けびん @botan14matsu

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