さすらいびとの書斎 I
松けびん
火の鳥の世界
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この世で赤い火というのは珍しい。
石にはそれぞれの炎の色がある。
西の火山を超えれば、黄色い炎が燃え盛る鉱山都市がある。
星々は青く燃えている。
目を覚ました火の鳥は、白だった。
火の鳥は雪国で春を迎えたかのように灰から顔を出した。
純白の羽をひろげたとき、地下祭壇は刹那に光と化した。
祭壇をのぞき込んでいた預言者たちから目を奪い去った。
そして禁忌を侵した私の下へ、その小鳥はやってきた。
私は神殿の灯篭をなぎ倒しながら逃げた。
手元のカンテラでは、鈍赤の羽が揺らめいている。
しかし老いた男が一人で神から逃げ切れるわけがなかった。
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「クリス、こっちよ」
火の移ったローブを被り、カンテラを抱きかかえながら倒れていた一人の男は、突然若い女の声を聴いた。女は黒焦げた灯篭を足でどけ、男は最後の力を振り絞り爛れた瞼を開ける。彼はどこかの小部屋に連れ込まれているようだった。細い回廊の中を火の鳥が一直線で迫ってきているというのに、そのフードに身を隠した小柄な女は直立不動のままクリスの方に手を差し伸べていた。
「にげろ」
「私は大丈夫。早く立って」
「何者だ?」
「本物の預言者よ」
鉄の扉に何かがぶつかる音がした。真鍮製のノブの周りが赤く溶け始める。女は腰のベルトからマッチを取り出すと、それを擦ろうとした。
「馬鹿、やめろ! 火の鳥は人間の火を支配するぞ」
「知っているわ」
クリスがローブを掴んで制止しようとするも、女はたやすく赤い火を灯してしまった。瞬間、マッチの先端が青い蝶の姿に変わり、部屋の空気がそこに流れ込んでいくのを感じた。
女はマッチを灯篭の残骸の上に投げ捨てた。顔のすぐ横で蝶から羽毛が生え始めたのを見て、クリスは再び瞼をきつく閉じる。
「もう勝手にしろ」
「聞いて。私が描いた絵は、いずれ真実となる」
男は少しの時間女の言葉の意味を考えて、腑抜けた質問を返す。
「馬鹿らしい。今から絵を描くのか?」
「いいえ。絵はもう描いてる。栞を間違えなければ、すべてうまくいく」
男は、火の鳥が部屋に侵入してからかなりの時間がたったにもかかわらず、二人がまだ生きていることに気が付いた。
「見てごらん」
女に促されるまま、目に張り付く瞼を無理やり開けると、先ほどまでいた部屋が、木製の家具までそのままきれいに残っていた。男が腰を抜かしている間に、女は半分熔けた鉄扉を開ける。膨張した蝶番が鋭い音を立てた。
「待て、なにしてる」
扉の向こうにはもう一枚の扉があった。女がさらにその扉を開けると、さらにもう一枚の鉄扉が現れた。その何重もの鉄板を挟んで、重たい爆発音がとどろく。
「これで火の鳥は暫く入ってこれない」
「何をした?」
「さあ、助かりたいなら黙ってついてきて」
女はマントの内側から何やら描かれた木片を取り出すと、それを裏返して模様を慎重に確かめてから扉のノブにぶら下げた。そして一歩下がり、華奢な指で四角い額縁を作って、それを通して扉を見つめた。轟音が近づいてくる。
「何をしている、早く逃げないと」
「黙ってと言ったでしょ」
女はクリスに肩を貸して立ち上がらせると、ノブをゆっくりと回した。その先に広がっていた光景に男は目を見張った。
「まさかここは、祭壇か」
「そのカンテラ、預かるわよ」
「な、待て、これだけはだめだ」
「死にたいの?」
「俺は司書だ。持ち出せれば、火の鳥も手出しできない」
「あなたをさっきの部屋に戻してもいいのよ」
男は黙ってカンテラを差し出した。女はそのふたを開け、祭壇の上に積もった灰の上に羽を落とした。男は長い溜息をつき、祈るように崩れ落ちる。
「これで火の鳥が許してくれるとは思わない」
女は扉の所まで戻ってしっかりと閉めた。わずかな期待を込めて男は扉と扉の間にいた火の鳥がどうなったか聞こうとしたが、次の瞬間その疑問は畏怖の念に変わった。女が先ほどと同じように扉を開けると、そこには砂漠のど真ん中に位置する神殿にいるとは信じられない光景が広がっていた。夜の冷たい潮風が純白の灰を巻き上げ、神殿の螺旋回廊を舞い上がていく。
「ええ、そうね。でも私なら運命を変えることができる」
扉を開け切ると、夜風が女のフードを剥ぎ取る。黒い髪をたなびかせ顔は見えなかったが、男はそのあまりに儚い雰囲気に彼女がこの世の存在ではないことを確信した。
「私は舞。あなたと、あなたの娘を助けてあげる。その代わり、この世界での大司書クリストファーの顔と名前を私に頂戴」
クリスは自分が気付く前に頷いていた。脚は意思を持たずに扉の方へと引き込まれていく。
「あなたは預言者なんかではない。いったい何者なんだ」
「それは行った先で分かる」
扉をくぐろうとしたとき、視界の隅に神殿の上から、雷のように怒り狂う炎が女に迫るのが見えた。クリスは動けなくなるが、神殿の壁が崩壊しだして火の粉を纏った風が体を押し出す。
「忘れてた!」
木枠がつぶされるように扉が閉まる寸前、女は白い炎柱の中クリスに向かって叫んだ。
「もしそっちで私と同じような人がいたら、その人に伝えてほしいことがあるの!」
石柱が砕ける音で、いったい何と伝えればよいのか、クリスは聞き取ることができなかった。少しの灰が熱風と共に噴き出したのを最後に、読めない文字で飾られた青い扉が何事もなかったかのように閉じた。海苔の匂いがするコンクリートの上で、クリスは意識を失った。
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