Lemon

大澤めぐみ

Lemon


 学校に行けなくなってしまった妹を元気づけようと、おれは米津玄師を家に連れて帰った。


 中学生の妹は歌い手が好きだ。学校に行かなくなってからというもの、有り余る時間を歌い手の配信を見て過ごしている。おれは歌い手のことはよく分からないが、それでも米津玄師のことは知っていた。夜更けに電話を掛けてきてどうしたこうしたみたいな歌も、ラジオで聴いたことがある。


 もちろん、おれが米津玄師を家に連れて帰るに至るまでには、さまざまな紆余曲折があった。しかしなんにせよ、あり得ないような幸運が幾重にも重なって、おれは米津玄師に会い、米津玄師に妹の窮状を伝え、そして、そういうことならと米津玄師は快くおれの家まで同行してくれたのだ。でも、そのへんの経緯は妹には関係ないので、今はどうでもいい。これはおれの妹の話だ。


 おれが米津玄師を伴い家の玄関をくぐると、妹は入ってすぐの居間で掘りごたつに足を突っ込み、頭に真っ赤なブルートゥースのヘッドホンをつけアイパッドで歌い手の配信を見ていた。ルーターの電波が弱いせいで、二階の自室ではWi-Fiが届かないからだ。


「ほら、米津玄師がきてくれたよ」


 おれはさぞ喜んでくれるものと考えていたが、妹の反応は微妙だった。


 ヘッドホンをずらして片耳だけを出した妹は、まず「本物?」と、米津玄師に疑わしそうな目を向け、米津玄師が頷くと次に「まあ、べつに米津も嫌いじゃないけど」と言って顔を背け「どうせ連れてきてくれるならゲロのほうがよかった」と、ふてくされた口調で呟いた。米津玄師は曖昧な微笑みを浮かべたまま、居間の入り口に突っ立っていた。


「そうか、ごめんな。兄ちゃん、歌い手のこととかよく分からないから。でも米津玄師は有名だから、米津玄師なら喜んでくれるかと思ったんだ」


 おれが妹に釈明するうしろで米津玄師はそっと家を去ろうとしていたが、そこで台所から顔を出したばあちゃんが「あら、まあまあいらっしゃい」と米津玄師に声を掛けた。


「あれ、お客さんきてたの。ごめんね、晩ごはんのお米セットしとったからぜんぜん気付かんで。アンタそんなところに突っ立ってんと、ほれ、座りほら」

 ばあちゃんは米津玄師を半ばむりやり居間に招き入れ、掘りごたつに座らせた。

「アンタお茶かなんか飲む? 熱いのと冷たいのどっちがいい?」


 米津玄師は最初、頑なに遠慮をしていたが、結局ばあちゃんの勢いに負けて、それでは冷たいのをと返事をした。初見では、大抵の人はばあちゃんの勢いに抗うことができない。


 正方形の掘りごたつの四辺に、それぞれ、ばあちゃん、妹、おれ、米津玄師で座る。もちろん、この季節に掘りごたつにこたつ布団はかかっていないから、掘りごたつはこたつではない。足を下に突っ込めるだけのちゃぶ台だ。しかし、こたつ布団の掛かっていないオフシーズンの掘りごたつを適切に表現できる語彙は存在するのだろうか。


 ばあちゃんはガラスの湯飲みに四人分の麦茶を注ぐと、リモコンで50型のテレビをつけ、Youtubeで羽生結弦のアイスショーを再生した。ばあちゃんも近頃はほとんど地上波を見ない。ひたすらYouTubeで羽生結弦を見ている。妹はズラしていたヘッドホンをつけなおし、アイパッドに視線を戻した。


 おれも米津玄師も、しばらく黙って50型テレビに映し出される羽生結弦の演技を見ていた。アイスショーでの羽生結弦は、オリンピックや世界選手権のときよりずっとリラックスしていて、楽しそうに見えた。ばあちゃんが「この子はほんますごいなぁ」と呟いた。独り言なのか、誰かに喋りかけているのか微妙なラインだったが、米津玄師はそっすねと、ぼそりと応えた。


「でも、この子ももう27歳やろ。ついこのあいだえらい若い子が出てきたなぁって思ってたけど、もう大御所やもんね」

 また米津玄師が、そっすねと応えた。


「ほんで、あんたは何歳なん?」米津玄師が31歳ですと答える。

「なにをしてるの?」米津玄師が、歌を作ったり歌ったりしてますと答える。

「あ~~そう」と、ばあちゃんは身体を大きくのけ反らせる。『感心』を表現しているのだと思う。


「わたしが前にクロスステッチの教室で一緒やった人の旦那さんもな、すごい歌の上手な人やって、ずっと電力会社の営業してはったんやけど、奥さんが癌にならはって。ほんで奥さん元気づけよう思って、奥さんのために歌つくって歌って。その奥さんは亡くなってしまったんやけども、歌をCDにしてね、ほんでアレ、ドサ回りっていうの? いまスナックとかそういうところ回って売ってはんねん」

 ばあちゃんが言う。米津玄師は、すごいっすねと応える。


「どっかそのへんにあったと思うけどな、CD」言いながら、ばあちゃんは「どっこいしょっ!」と、立ち上がって居間から出ていき、階段の脇の本棚を漁る。「あったあった。これやこれ」と、米津玄師の前にCDを二枚置く。上の一枚は、煌びやかな衣装のおっさんの写真の脇に『眉坂俊 ~美恵子へ~』と書いてある。美恵子というのが、亡くなった奥さんのことなのだろう。


「よかったら聴いてあげて。うちまだ3枚くらいあるから。あと、もう一枚のほうはわたしもよく分からんねんけど、あっちのデルパーいうパチンコ屋の娘さんやって」

 二枚目のCDは、幸薄そうな女の写真の脇に『逢坂絢 ~自分リムーブ~』と書いてある。

「わたしもよう分からんねんけど。一回かけてみたけど、なんやガチャガチャしてて。でも、若い人はああいうんがええんかね? まあアレやったらいっぺん聴いてあげて」


 米津玄師は最初、いや大丈夫ですと遠慮をしていたが、結局ばあちゃんの勢いに負けて、じゃあ聴いてみますと受け取った。


 それじゃあそろそろ、と米津玄師が腰を浮かせたので、おれも米津玄師を送るために立ち上がった。駅まではそう遠くないが、道がとても分かりにくいのだ。「米津さん、帰るって」と声を掛けると、妹も「ん」と返事をし、ヘッドホンを置いて立ち上がった。


 ばあちゃんが「ちょっと待ちや」と言って台所にいき、米津玄師にバームクーヘンを持たせた。訳あり不揃い徳用パックの、半分食べさしのやつを。ビニール袋の隙間に、ちゃぶ台の上にあったせんべいと黒飴も詰める。「おなかが空いたらあかんから」と。米津玄師は、それを恐縮して受け取る。


 おれと妹と米津玄師の三人で歩いていると、駅前の寂れた商店街でおっさんが米津玄師に喋りかけてきた。「あんたのこと知ってるで! えっと、あれや! 星野源やろ?」


 いや、ぼくは歌っているほうで、と米津玄師が言うと、おっさんは「知ってる知ってる! 歌ってるほうの星野源やろ? 握手してや!」と、右手を差し出した。

 米津玄師は三秒ほどおっさんの右手を見つめ、それから握手をする。おっさんはがっちりと握り返し「がんばってや!」と米津玄師の肩を叩いて去っていく。


 駅の改札前で、おれは米津玄師に「ありがとうございました」と、頭を下げた。「それと、なんかすいませんでした。いろいろと」


 米津玄師は首を横に振って、微笑み、言った。

「いい家族じゃないですか」


 それじゃあと、軽く右手を挙げて、米津玄師は改札を抜けた。米津玄師の後ろ姿は、すぐに人ごみに紛れて見えなくなった。


「よし。おれたちも帰ろう」

 おれが言うと、妹はうなずいて歩き始めた。


 帰り道、妹がぼそりと「米津玄師も大変なんだね。いろいろと」と、呟いた。「もっと気楽に生きてるんだと思ってた。米津玄師くらい有名で、売れてたら」


 もちろんそうだ。米津玄師の人生にも、米津玄師てきな悩みがある。おれの人生にも、妹の人生にも。誰の人生にも。


「わたし、米津玄師に悪いこと言っちゃったな」妹は俯いて、つま先で小石を蹴っ飛ばした。「ほんとはゲロのことだって、そんなに好きっていうわけじゃないんだ」


「そうか」おれは頷いた。「次に会ったら、謝らないとな」

「そうだね」妹も頷いた。「また会えるかな、米津玄師」


 どうだろうか。米津玄師に会えるのなんて、一生に一度あるかないかの幸運なのだ。でも、巡ってきたその幸運がその人にフィットするとは限らないし、逡巡しているうちに、それは去っていく。そして大抵、逃してしまえばもう次の機会はない。


 でも、いつかまた、妹が米津玄師に会えたらいいと思う。会って、素直に謝ることができればと。


「お兄ちゃん。わたし明日、学校行くよ」不意に、妹が言った。「校門のところまで、一緒に行ってくれる?」


「もちろん」と、おれは答えた。

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Lemon 大澤めぐみ @kinky12x08

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