第2話

「わ、すごい」


 小さな感嘆の声を上げてから、陽子ようこが安藤の隣に座った。


「これ、今戦争中の国のことでしょ?」

 顔をテレビの画面に向けたまま、人差し指の先も向けた。

「ああ」

 安藤はうなずく。


 一ヶ月ほど前、ヨーロッパで戦争が始まった。突然のことだった。いや、両国の間では、以前からくすぶりがあったのかもしれない。でも、当事者以外の国々にとっては、何の前触れもなく唐突に起こった、予期せぬ交通事故のような印象があった。


 火だねから煙が上がっていることに気がついていたのは、それぞれの国のお偉い方だけで、一般の国民にとっては、やはり青天の霹靂に近かったのだろう。逃げる暇もなく、爆弾がいくつも落とされ、罪のないたくさんの命が奪われた。

 突然の争いに世界中が戸惑い、怒り、嘆いた。各国のメディアは連日、終わる兆しの見えない戦地の悲惨な状況を伝えていたのだった。


 ただ、陽子が指し示した画面に映るものは、戦地ではない。国内の、とあるボランティア団体の事務所だ。


「この冷たそうな人、代表者?」

「そうみたいだな」

「へぇ、意外。たった一人でも爆弾が飛び交う戦地に入りたい、なんて言い出すタイプには見えないけど」

「それも、ケガをした犬の治療や保護のためにな」

「戦地への渡航って、禁止されているんじゃなかったっけ」

「詳しくは知らないけど、難しいんじゃねぇかな。まぁ、ジャーナリストはどうあれ、一般人は普通、行こうとも思わないだろうけど」


 カメラを向けられながらも落ち着き払った代表者の男の、その表情に懐かしさを噛み殺しつつ、安藤は言う。


「あいつ、俺の高校の時のクラスメイトなんだ」


 陽子は目をむいた。

「え、本当に? ちょっと、止めたほうがいいんじゃ?」

「連絡先を知らない。卒業してから会っていないし、元より、そんなに仲良くもない」

「あぁ」


 口をぽっかり開けたかと思うと、陽子はにやにやし出した。


「タイプがぜんぜん違うもんね。かたや燃える使命を内に秘めた、愛護団体代表のクールガイ。かたやメジャーリーグに挑戦するも一年で挫折して帰ってきた、崖っぷちの一軍打者」

「崖っぷち言うなよ」


 安藤が口を尖らせると、陽子はけらけらと笑う。

「ドラフト一位で入団して、世間を騒がせていた頃が懐かしい」


「家の鍵を一緒に探したんだ」

「代表者さんの? どこかで落としちゃったんだ」

「雨が降っていてさ、あいつは愛犬の散歩中で」

「おお、やっぱり犬が絡む」


 安藤は噴き出した。


「あいつ、本当に変わっているんだ。服とかレインスーツがストレスだとか言って」

「レインスーツはわかる気がする。動きづらいし。でも、服はねぇ」

「変わってはいるけど、大切な存在のためなら、ストレスは苦じゃないって男なんだ」

「あぁ」


 陽子はテレビに視線を戻して、清々しく笑った。


「わかる気がするねぇ」

「だろ?」

「で、鍵は見つかったの?」

「見つかった」

 安藤はまた噴き出す。


 とっぷりと暗くなるまで、二人と一匹で散歩コースをうろうろしたが、鍵は出てこなかった。そろそろ親が帰ってくるというので、諦めて自宅に向かえば、玄関を出たところに落ちていた。


「冴えない結末だろ」

「確かに」


 それ以降、谷坂との関係が変わったかと言えば、そうではなかった。谷坂のほうが安藤を避けているきらいがあり、結局、卒業までほとんど喋らなかった。

 今思えば、谷坂は罪悪感を覚えていたのかもしれない。


「よし」


 安藤はスマホを手に取った。操作し始める。


「何を検索しているの?」


 手元を覗き込む陽子にかまわず、スクロールしていくと、案外それは簡単に見つかった。


「そんなに難しくなさそうだな。俺でもやれそうだ」

「クラウドファンディング?」


 陽子が目をしばたたく。

 安藤はソファーから立ち上がった。


「俺はこれからの試合、できるだけヒットを出す。ヒットで援助金を募るんだ」

「え、まさか、ヒット一本打てたらいくらって設定して、お金を支援してもらおうとしているの? 仲良くもない元クラスメイトを援助するために?」


 陽子は驚きを隠せないようだ。無理もない。


「もう何年もまともに、バットに当てられてすらいないのに?」

「そこなのかよ。おかげで崖っぷちに、手だけでようやくぶら下がっている状態だよ。でも」


 安藤は陽子からテレビに視線を戻す。


「あいつがやりたいことは、あいつにしかできないことだ。俺はそれをサポートしたい。そのために俺にできることは、それくらいしかないんだ」


 谷坂が自分のことを忘れていてもいい。勝手に始めたことだから、気づかなくたっていい。

 ただ、自分は覚えている。

 あの男が曖昧な計画のうちにそれを公表しないだろうことを、物事をスタートしないだろうことを、自分は知っている。安藤は、そう思って嬉しくなった。


「そうだね。崖っぷち打者にしかできないことかも」

 陽子はにんまり笑った。

「一本も打てずに終わったりして」

「怖いこと言うなよ、奥方どの」

「あはは。でもさ、大丈夫かな。勝手なことして、そのお友達に迷惑がられない?」


 安藤は歯を見せる。


「大丈夫。俺が自主的に始めたことをあいつが知ったとしても、言いそうなセリフならわかる」


 あいつはきっとこう言う。


「好きにしたらいい」


 泣き出しそうな、笑い出しそうな顔で。









(犬とメジャーリーグ fin)

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犬とメジャーリーグ 行方かん(YUKUKATAKAN) @chiruwo

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