犬とメジャーリーグ

行方かん(YUKUKATAKAN)

第1話

「できることなら、服だって身につけたくないほどなのに、カッパまで着るんだ。こんなにストレスなことはない」


 そんな声がふと、安藤あんどうの頭の中をよぎった。

 高校の時、クラスメイトが言ったセリフだ。


 隣の席に座っていた彼は、「生真面目」の要素をパーツにして一つ一つ組み合わせていったら、こういうフィギュアが出来上がるんじゃないか、を具現化したみたいな少年だった。

 挨拶くらいは交わすが、その程度の仲だ。嫌っていたと言うよりは、自分とタイプが違いすぎるせいで、距離を縮めるきっかけを見つけられずにいただけだ。


 今、その姿に少しシワを足しただけの、そっけない横顔が、リビングのテレビ画面に映し出されている。


 懐かしさが胸に滲むかのように広がっていく。

 そうすると、今まで閉じられていた記憶の蓋がぱっかりと開き、あの日のことが鮮やかに思い出された。





*****


「できることなら、服だって身につけたくないほどなのに」


 よほど強調したいのか、谷坂たにさかはもう一度念を押すように繰り返した。

 噴き出さずにいられない。


「お前、裸族かよ」

「衣服がわずらわしいって話だ。僕は生まれも育ちも、アジアのちっぽけな島国のはずで、そういう習慣のある部族とは何ら関係もないはず」

「はず、はずって何だよ。そこ自信持ってくれよ」

「自分のルーツを調べて明らかにしたことはない。不確かなことを断定したくないんだ」


 谷坂の横顔は淡々としている。


「誰も他人のルーツにそこまで正確さを求めてねぇよ。第一、世の中不確かなことばっかりだぞ」

「安藤、知らないのか?」


 大真面目な声には、嘲笑も憐れみも滲んでいない。


「この国の天気予報の精度は九割だ。メジャーリーガーだって、そんなバケモノみたいにヒットを打てない」


 谷坂は分厚い雲が立ち込めた空を見上げた。雨粒が、つるんとした頬を滑っていった。


「だから僕は、天気予報が好きなんだ」


 安藤は肩をすくめる。

「その高精度な天気予報が導き出した結果なんだから、ストレスとか言うなよな」


 雨は土砂降りではないにしろ、永遠に降り止まないようなしつこさを携えている。雨粒が傘の表面で弾ける音は、学校を出た頃よりも大きくなっていた。


「ストレスを感じる感じないは僕側の問題だ。天気予報は関係ない」


 レインスーツを着て隣を歩く谷坂はあいもかわらず愛想がなく、足元では、犬が舌を垂らしてリズミカルに歩いていた。尻尾をくるんと巻いた茶色い犬は、濡れることをまったく意に介さないように見える。

 入学してから半年。安藤は、谷坂とこんなに喋ったことがなかった。


「ねぇなぁ、鍵」


 目を凝らしながら住宅街の道路を歩いているが、それらしきものは見つからない。


「実は、そのポケットの奥にありました、とかないのかよ」

「ない」


 視線で刺し貫いてくる谷坂は、まだそんなことを言うのか、とでも言いたげだ。


「最初から持って出なかった、なんてオチだったら、笑うけどな」


 また怒られるかと思いきや、谷坂は道路の先にまっすぐ続く、暗い空を見据えた。


「むしろ、それを願うよ。もっと日が暮れたら気温が下がる。家に入れなくても僕は我慢できるけど、この子がかわいそうだ」


 自分のことを言われているとわかるのか、犬がご機嫌に顔を上げる。それを見て少し目尻を下げたあとで、谷坂は立ち止まった。傘をさしかけている安藤も止まる。


「安藤、もう帰ってくれ。家の鍵をなくしたのは、僕の不注意だ。無理して付き合う必要はない」

「嫌だね」


 安藤はきっぱりはねのける。

 それまで表情らしいものがなかった谷坂の顔が、訝しげにゆがんだ。


「別にお前を不憫に思ったわけでも、イイヒトを演じたいわけでもない。俺は、犬が好きなんだ。これは確かだぞ」


 谷坂はきょとんとしたあとで、豪快に噴き出した。


「なんだよ」


 言い方は乱暴でも、その実、安藤は喜んでいた。谷坂を笑わせたと思うと、ガッツポーズをしたいくらいの気分だった。


「確かだぞって、なに胸を張って念を押しているんだよ」

「お前が、不確かなことは嫌いみたいなこと言うからだろ」

「それにしたって、変だ」

「お前と俺は同類のようだし、そのよしみで協力してやるって言っているんだよ」

「同類?」


 目の端に滲んだ涙を忌々しそうに指でぬぐいながら、谷坂が眉間にシワを寄せる。


「安藤はスポーツマンで友達も多い。僕は真逆だ。同類どころか、例えて言うなら、それぞれがまったくの対岸に立っている」

「はぁ? 何を急に意味不明なこと言い出しちゃっているんだよ。お前はさ、ストレスだって言いながら、ちゃんと服着てカッパ着て、犬の散歩に付き合うわけだろ」

「ちゃんとって。断っておくけど、裸で公衆の面前に出た経験は一度もないからな」

「俺は、今日初めて喋った友人の探し物に、雨の中わざわざ付き合う。連れていた犬がめちゃくちゃ可愛いもんだからな。どう考えても同類だろ、これ」


 それを聞いて目を丸くした谷坂は、すぐに泣き出しそうにも、笑い出しそうにも取れる顔をした。


「好きにしたらいい」

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