#16 後味

 ダウンライトが眩しかった。夜中つけっぱなしだったっぽい。

「知らない天井だ……」

 自分が身体を預けるのになれていない余所の高級ベッドと毛布では、疲れがとれても気は張りつめている気がした。きーんと静まる広い部屋。隣で眠るよく知らない人、ちょっとお酒臭い。身体は寝転がったまま首だけで枕元のデジタル時計をのぞきこむと、『AM04:30』を示している。

 カーテンと窓の間に、下から身体をもぐらせて入りこむ。まだ街は暗くて、車通りはすくなかった。雨はやんでいるのだ。乾いた朝の冷えた風が、ガラス窓を通して伝わってくる。


 夜空に、東の方からだんだんと白みがかってくる。まだ星は見えた。

 私とニルの間は、あの星と星の間よりも離れてしまったのだろうか。星と星の間の、見えていない小さな星にあって、お互い光は届けられない。もう二度と、二人が交わることはない。

 昨夜は現実から努めて逃げようとしていた。心を守るためだった。だが、いつまでも現実逃避をしていられない。今朝にも、ナゼさんとお別れするだろう。

 これから、私は一人で。一人で、暗い登山道を歩いて行かなくてはならないのだ。歩いてきた、ニルと二人で。握った手のひらには、確かな温度があった。真っ暗闇の中、ニルの温かい声だけを頼りに安心して進むことができた。

 これからの道は、吹雪の舞う暗闇で、他者の温度もなくて、寂しい私を抱きしめてくれるものはない。この手も、この腕も、この胸も、全身が空いていて、ここにいる自分を誰も証明できない。単身で世界と向き合う私から、風だけが体温を奪っていく。

 手のひらを窓ガラスに突く。温度が未明の街に溶けていく。

「いやだ……」

 私の義務を、全部放り投げてしまいたい。生きているだけでえらいなんて、誰が言ったのか。欺瞞ばかりだ。私が生きているだけではなんの金銭も得られない。生きるためには必死に勉強をして、必死に他人と関わって、必死に働かなくてはならない。その苦労に満ちた孤独な道のりは、ニルと一緒だったはずなのに。

 壊れてしまいそうだ。進むのは怖い、停滞も怖い。だから考えをできるだけ止めて、生きる。今まではそれでよかった。だが、空虚がある。出会ってしまってから昨日までずっと離さなかった、私の大部分を失った。その感覚だけがいつまでも消えてくれなかった。これは呪いだろうか。

 キイ、とガラス窓に擦れた金属の指輪が私の手のひらの中で散々な悲鳴をあげた。

 何も、何もかもが、なくなってしまったのだろうか。いまもどこかで、ニルがいる気がしてしまう。このどうしようもなく孤独を浴びさせられる残酷な社会で、ささやかな幸せを見つけて微笑んでいる気がする。あの瞳は、私の大好きなものなのだ。もう、新たにベストショットを更新することはできないけど。脳裏に一番張りついて離れないのは、ニルが私のナイフで刺されたときだった。あのとき、初めて愛を実感したのだから。

「ニル……」

 世界に、朱が差す。ばからしいくらい普通の日の出だ。私の心を温めやしない。特別きれいだと思えない、ただ繰り返される日常の始まり。

 そのなかで。胸にのこりつづけるこの感情は呪いだろうか。ニルといて嬉しかったこと、幸せだったことをぜんぶ忘れてしまうべきなのだろうか。

 だんだんと太陽が出てくる。

『あなたからみた私のほうが、あなたに影響を与えすぎて怖いくらいじゃない』本当に、その通りだ。

『信じるしかないよ。あなたが好きな私を』

 私は欠損を感じている。でも、悔しいことに。この感情さえドリルで削り取ればとうとう私は抜け殻だ。私がいま大事にすることができるのはニルからもらったこの心だけ。

 思えば、最初救われたときからずっと、この首にはナイフが刺さっていた。

 幻想を見ていた。私は落ちようとした。痛みを感じて、空中で止まった。ニルがいた。ニルはナイフを私の首に突き立てて私による私への否定を黙らせて、私を傷つけていることに泣きながらナイフを掴んで私を落とすまいとしていた。そんな幻想を見た。自己否定などせずに、明るく生きてほしいと、ニルに望まれていた。いたずらな優しさはずっと側にあった。

 ニルが去って、ニルが刺していたナイフをもっていってしまって。命綱のナイフが傷口から抜かれたとき、傷が開いてしまったのかもしれない。ナイフの欠損。きっとぽっかり開いてしまったこの傷は癒えることがない。ニルが最後に置いていった、私の心に刻みつけた証。それこそが、ニルが遺したこの感情だった。血が、心が、優しい傷口から溢れて決壊する。

『そうやって、最後まで生きて。ついでに星と星より近しいあなたの周りの人も幸せにして、それができたら。いいえ、できなくても私は毎日、あなたに百点満点をあげられるよ』

 生きるのには十分すぎるエネルギーが、宝物から溢れてくる。

「やる、ぞ……」

 泣きそうだ。だけど、その『泣きそう』はニルが与えてくれた愛おしいものだ。

「やるぞ、やるぞ。やる、ぞ……」

 ニルが教えてくれた、朝の目覚めるおまじない。過ごした思い出を振り返ると、少し心が温かくなる。ニルがいないことに絶望して、ブラックコーヒーと血の味がする。それら全部、今もニルに与えられている感情だ。だから私は一人じゃないと言えた。まだ、この心にはニルがいる。

「やるぞ、やるぞ、やるぞぉ……」 

 ニルからもらった心が震えている。叫んでいる。咆哮さえしていて、もう止まらない。

 ニルを責める誰もが、この私に巣喰うこの感情を知らない。ニルプレイヤーはそれぞれ、思い思いのニルを心に抱いていることだろう。

 ここにあるのは、ニルから与えられた私だけの心だ。誰にも奪えやしない、私の大切な宝物だ。誰にも証明されないこの感情。きっといつでも取り出せる私の脳の中に置いておくだけでいいのだ。世間が、社会が、この心を存在しないものと扱って私を見たとしても。

 結婚指輪が日の出を受けて輝いた。ニルの透きとおった瞳のように、私の瞳を焼きつづける。

 私にだけは、最高のニル世界が見えている。

 ニルは私の中で生き続けている。誓いは果たされている。私も、この心を愛し続けられる。


「ねえ」眠そうな声が聞こえてくる。

 ほら、ここにも一人犠牲者がいた。ニルから心を与えられて、もうそれだけしか考えられない、可哀想で、でもちょっと幸せな人たち。

 私の顔をみて、寝ぼけなまこのナゼさんはきょとんとする。何かに気づいたのか、朗らかに表情を緩めた。

「世界は、好き?」

 息をつく。何度も問われたその答え。尋ねられるたびに、真摯に向き合ってきたはずの、ニルのお決まりのその言葉。


「大っ嫌い」

 胸の中のニルを左手で探って、この想いを胸に生きていくんだと誓う。

 この朝なら、太陽と対峙して堂々と胸をはって言えた。

 ははは、と二人で笑う。

 太陽はばかでっかくぎらぎらしてるくせ、心をぽかぽかさせるのはもうこの世界のどこにもいないニルだけ。世界や社会なんていうものは大きすぎて、私に直接干渉してこない。私が勝手に、劣等感を抱いているだけだった。

 立っている場所に嫌いだと踏んづけてやっても、嫌いな世界は私に何もしてこない。


 だけどね。


「好きだよ、ニル」

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Nil Umwelt 鳩芽すい @wavemikam

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