終章 血の味を噛み締めて

#15 ナイトインザトウヨコイン

 ――思い返していた。ニルと二人で生きてきた、これまでのことを。たくさんもらった幸せを。今も感じる、左手の薬指の指輪の意味を。私がここまで来た、道筋を。

 そして、今ここにたどり着いてしまったこと。


 全く、変な夜だ。数千円で貸し出された一晩だけの、私ともう一人の部屋。私のものではないし高反発スプリング。無駄に天井が高く生活感のない部屋と、初めて聞く寝息。

 ニルの偽物の隣で横になっていると、ニルそっくりの顔が目に入る。神の領域にあるニルほどではないけど、私なんかより何千倍もこの人は美しい。ニルの雰囲気と似せようと、試行錯誤した成果がよく分かる。ニルと同じ衣装もきっと手作りだった。ニルを愛した人の隣で眠って、だから思い出してしまう。幸せだったあのときを。

「なんか失礼なこと考えてなかった?」

 布団の中でぱちりと目があった。

「あ……いえ、そんな」

 ナゼさんが起き上がった拍子に、私もくっついていた布団が跳ね上げられた。

 部屋のオレンジっぽいダウンライトが彼女を照らす。

「うがー、こんな日に寝られるわけねーよ」

 そう、私も未亡人になってしまったのだ。寝転んだまま寂しそうにしている指輪を掲げると、ナゼさんが言った。

「さてと。酒飲む?」

「ニルが怒りそうなので遠慮しときます」そのニルの格好をした人が未成年飲酒を勧めてきたことはどうかと思う。

「あー、確かに」私と当人への、憐憫をふくむ笑み。私たちはニルから親離れできないまま、寒い夜の砂漠へ放り出された赤子だ。

 ニルを引き合いにだすことで納得してくれたらしく、食い下がって勧めてくることはなくて、ナゼさんは高級ホテルスプリングとそれにのっかる私をぐらぐら揺らして立ち上がると、備えつけの冷蔵庫から取り出した缶ビールを、足を組んで一人で飲み始めた。ニルの格好をしているのだからもうちょっとニルらしく振る舞ってほしかった。

 私の目線から察したのか、

「着替えようかな」ぽつりと呟かれる。

「いやです」

「そっかあ」ナゼさんはニルっぽくない笑い方をした。似てないほうが夢を見ずに済んでいいかもしれない。

 ぐび、ぐびとビールを喉につぎこむ音が部屋に響く。ぷはー、と生き返っているような音。大人はアルコールに逃げられて羨ましい。ニルを失ってつらいのはお互い様なのに。

「ボク、酒で酔えないんだ」酔ってキミを襲ったりしないから安心して、とどこか悲しそうに笑って。そうか。でも酒臭いのに変わりはない。

「そのボク、ってなんですか」

「え、気に入ってるんだけど。職場でも貫く!」

 うるさくて、酒臭いとはいえ。まあ、こうしているのは悪くなかった。一人で雨に打たれるという選択肢をとるよりはるかにましだろう。ニルも喜んでくれるかもしれない。

「窓、開けるよ」

 厚いカーテンが左右によけられた。真っ暗な窓。

 もう一段、嵌め殺しかと思われた窓をナゼさんは動かした。雨粒が入りこんでくる。ぽつぽつと、臙脂色のカーペットにしみをつくる。

 外では街も人も世界も、誰しもが等しく濡れている、なんてことはなくて、屋根の下で愛に包まれている人はいくらでもいるし、雨よりももっと酷い目に遭っている人だって大勢いて、雨雲の直下で身体を震わせて縮こまっている。ここはそんな世界だ。

「ほらほら、座れ座れ、ジュースとってこい!」私は、中途半端な立ち位置だと思った。帰る場所はなくて、愛していた人も失ったのに、なぜだか運良く屋根の下で話し相手がいる。

 冷蔵庫からグレープフルーツをとってくる。一番大人っぽい選択肢は見栄を張りたいわけじゃなくて、そういう気分だったからだ。値段が高かったが、ホテル代はナゼさんが払ってくれるらしいから見ないふり。

 着席する。向かいには酔えないビールをグビグビするナゼさん。二人の間に空からの涙が落ちる。大きな窓の先を憂うと、多くの健康で幸せな人は寝ている真夜中でも光りつづける街がよく見えた。

 柑橘の潰した液を舌に絡ませて。苦さがいつもとちがうな、と思った。昔は、ないものを求める感覚。漠然としていて得体の知れない濁り液のカフェオレと、この鮮明な刺激は一度にどちらかしか味わえない。傷口から染みる蜜柑は、はっきりと刺してくる痛みだった。今は、あったものを掴めないでいる。どちらもつらいけれど、わずかな甘さがちらつくのは変わらない。その甘さが私の探している未練だった。

「ニルとしたかったこと、ある?」ナゼさんは、社会人のナゼさんはニルの衣装をつまみ、ひらひらと見せつけてくる。

「あなたはニルじゃないので」

「ニルダヨー」

「……」冷たい目でみてあげた。「ちっ」なんだよ。油断していると、じっと見つめられる。

「世界は好き?」意図してトレースされた響きに、どきっとした。心臓がきゅんとして、ここにいないニルを求めてしまう。

「嫌いです」言いながら、ニルに悪いなと思って尻すぼみになる。だけどニル。偽物でもニルの形がほしい。

「……なんでもしてくれるんですか」

「気変わり早っ!」

「ニルはそんな乱雑な言葉つかいません」

「はいはい、私はニルじゃありません。それでもいいの?」

「……ニルはいない。この先が見えないんです」

「誰だってそうさ」ボクだってね、と。

 それは救えない話かもしれない。誰しも先行きは暗くて、それで幸せを分け与えられる人なんていないじゃないか。「なんで私、ここにいるんでしょう」

「私が求めたから」

「そうですか。じゃあ責任とって温めてください」

「……いいよ。何分がお好み?」

「二人の気がすむまで」

「はいはい」

 すっと身移りするようにくっついて、抱きつく。そこには確かな感触があった。ニルとの抱擁ではなかったものだ。だけど。なにか、物足りなさを感じた。

 寂しさが増していく。ニルの代わりに、ニルの格好をした人を抱く。罪悪感が酷い。自己に対する憐憫が増す。

「……あー、あー、なるほどね」ナゼさんの顔が赤い。

「他に何をすると思ったんですか」会話で何かを、無理に埋めようとした。

「いえないいえない」

「服を脱いだら、逆に寒いですよ」

「わかってるんかい。でもキミは経験ないんだね」

 きょとんとした私に顔をよせる。鼻息がかかる。

「あれはとっても温かいよ。熱っついくらい」

「温めるだけでいいんです!」

 本当に。ニルの格好でこれはやめてほしいと、切に懇願する。ニルを求める心は際限なく膨らんでいくのに、けれどその欲求の対象であるニルはここに存在しない。一種の拷問だった。


 そこそこの頃合いで、一部屋の二人は身体を離した。布団で、わずかに共有される体温が一応寂しさを紛らわさないこともなかった。一晩寝ておきれば、私の中ですら現実が真実になってしまう気がする。うつらうつらと、夢と現実のはざまをさまよううちに、ついに睡魔には抗えなかった。

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