#14 あんはっぴーのんしゅがー

 どこか、遠くへ行こうと思った。そのくせ私が乗りこんだのはいつもの通学電車だった。

「ねえニル、私は悪い子だね」隣のおじさんは遠慮気味のいびきをかいて居眠りをしていた。おじさんの降りる駅になっても、周りの誰も起こしてくれないだろう。電車の住民全員から共謀して知らないふりをされるのは、私といっしょ。

「そうでしょう、うん。そうだよね」

 私の想像力が恨めしい。通勤用ロングシートの端はちょうど車内冷房がぶつかってくる位置なのだ。いつでもニルをはっきり思い浮かべたらここまで凍えていないのに。

 くら、くら、つり革がゆれている。左方向へのGが私を締めつける。この駅で降りるべき人へ、車掌さんは到着を教えてあげている。お家に帰る人たちが降りると、右方向へ体は傾いた。

 隣のおじさんのスマートフォンのバイブが鳴る。ばっと飛び起きて、私に肘があたった。気づかずおじさんは電話をとった。音量が大きく、隣の私にはかすかに聞こえてくる。なにしてるの、今日の食事当番はあんたでしょ、と。ごめんごめん、寝ちゃって乗り過ごしてた、と。

 そうなんだ、おじさんにも温かい家庭があってよかったね、と。他人事のように祝福することにした。他人の幸せを喜べる私はいい子。

「ねえニル、そうでしょ」

 隣のおじさんはぎょっとしただろうか。可哀想なものを見る目をしているだろうか。こそっと窺うとまた寝ていた。まあずいぶんとお疲れのようで。

 私も寝てしまおうか。寝ていたら、どこかに帰れるだろうか。当然そんなことはない。

「Twitterしよ」


 アネモカ @worldend_4949xoxo

[センシティブな内容が含まれている可能性のあるツイートです。]

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 インターネットにはどこからでも接続できる。無表情で膨大に流れる情報を眺めながら、レールは私を運んでいく。

 また、一つ駅を降り損なった。分かっている。到着を先延ばしていても、終着点はいずれ訪れるのだ。分かっている。ニルはもう、私の隣には居なかった。

 ニルはいま、何をしているのだろうか。ニルが私じゃない何かを興味津々と見つめている姿が好きだった。その視界に、いまはニルに向けられた言葉の刃が映っているのだとしたら私が耐えられない。もしそうだったらが心臓を糸が容赦なく引き縛って、高速で走る電車から落とされそうだ。それでもいいかと思って、ニルの顔がちらつくからまた思い直す。

『人身事故が発生しました。しばらく当駅にて停車します』

 このまま座り続けて終着駅にたどり着くことすら、私には許されないようだった。周りの様子をうかがうと、諦めて立ちつづける者が大半。さっさと駅を降りて、タクシーを拾うことができる余裕のある者はすでにここを出た。縛られたように、もう誰も動かない。小声の会話、おじさんの寝息、雨が窓を叩く音。みんな疲れている。電車がプシューとため息をつく。外は灰色。ちらつく天井のランプ。だれも動けない。電車が走り出すのを待っているのか、時間を垂れ流したまま。人々の肩に、白い糸が見えた気がする。都市の上の巨体に従い、みんな吊り下げられている。操られることに疲れ切って、誰もが意志を捨てていた。

 私の糸は、自分から見えなかった。それは今でもニルと繋がっているのだろうか。ここまでずっと一緒にいた指輪を眺める。結婚指輪を左手薬指につける理由は、そこが一番心臓に近いからだと言う。二人の心臓が結ばれることで、離れない関係を象徴するらしい。私の心臓はいまでもニルの心臓と、固い糸で結ばれているのだろうか。

 約束したのに。花園で出会って、花園と星空で一生一緒にいると誓ったのに。

 これから、ニルと私でもっと幸せになるはずだったはずなのに。

 アネモカは、もういない。私が私を見失うために作り出したもう一人の人格は、ネットの藻屑となって消えた。

 

 おじさんがビクッとして私の肩にぶつかり、また電話をとる。これで二回目だが、私に謝りもしない。家で待つ人にタクシーを使えといわれ、悠々と待機組から離脱してしまった。

 指輪の先のニルとの関係を、信じたかった。でも難しい。おじさんも降りた。この電車に乗る人たちは今、みんな一人きりだ。何ももたない私だけ違うなんて主張できない。

 また、ニルの顔がちらつく。気づけば立っていた。私の身体は電車を降りて、雨にでも打たれることにしたらしい。雨に打たれて、いろいろと誤魔化そうとしている。たとえば頬を伝う涙とか、心の冷たさとか、誰かに声をかけられる可能性とか。それを物理的な流水で有耶無耶にしてしまおうとしているらしかった。これも自衛本能。雨に打たれたらもっと惨めで辛くなること間違いなしだが、それをこの身体は忘れているのか。頭と体が別々にはたらくうち、駅から出た。駅の屋根に守られた階段を降りる。あと一歩を踏み出せば、雨に浸された夜の路面だった。立ち止まる。痛そうな雨の音を聞いてこの先を逡巡する。

 身体から温度をなくして、ついに一人きりだと思った。

 そのとき。いた。

 姿を見失ってなお頭に描き続けていた相手。

 街の中で、大雨のさなかで、駅前ロータリーの中心で浮かび上がっている。雨に叩きつけられて、水滴に濡れていた。雨雲が陰をつくり、顔を俯かせていて、よく見えない。周りの人々からの視線が痛々しかった。ネットで起こる騒動の渦の中心にいる。当然向けられる目は悪い気色と好奇心にみちた野次馬根性のものだった。

 どうしようかと。私が近づいていいものかと。そう、ぼんやりしているうちに。

 ぽんと、肩に手が置かれた。

「やあ、迎えにきた」

 バッと意識が戻ってくる。そこにいたのは雨に打たれたその人だった。まさか私を見つけてくれるなんて。呆然と、するしかない。私の閉じかけた目が、見開かれて。

「なんで……」

「ニルが大好きで、寂しそうにしているキミに会おうかなって。ネットで見たから」

 あれ、と思う。声が、あの人じゃなかった。

「ああ、ごめん。ボクは偽物」

 お互い、災難だねと。呑気そうにコスプレイヤーの彼女は私の肩を叩く。ニルを模ったそのコスプレ衣装の裾をつかんでしまう。誰でもよかったのかもしれない。誰かを頼ることは、私が大好きで私が頼り切っていた誰かさんのせいで、案外苦にならなくなってしまっていた。

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