Bar Hemeranの夜(後)
「いらっしゃいませ。お客様、当店は初めてでいらっしゃいますね」
ドアを開けたらいきなり、黒いエプロンをした男が立っていた。長い黒髪を後ろで束ねた、僕より十は年上じゃないかという雰囲気の男で、とても背が高い。しかもにっこり笑いながら、開口一番この台詞だ。
元々入るべきか迷っていた僕は、咄嗟に身構えた。男が醸し出す空気が、妙に歓迎ムードで逆に怪しい、というのももちろんある。
だが問題なのはその言葉だ。今まで来た客の顔全部を覚えているのか、それとも常連しかいない店なのか。
だとすると、酒も飲めない人間が来るのはかなり場違いに思える。
「す、すみません店を間違えました」
あわてて向きを変えようとすると、男はびっくりしたような顔になり、僕の肩に手を乗せた。ごく自然な動作で、その手は避けようもなかった。
ぎょっとして硬直する僕とは対照的に、男は落ち着いた顔で僕の目を見た。透き通る明るい茶色の目だった。
「この辺りに他に店は無いですよ、お客様」
「えっ、あっ、そうなんですか」
やんわりと言い訳して帰るつもりが、墓穴を掘ってしまった。そもそも普通なら、断りの常套句として「そうですか」とでも流してくれそうなもので、素で返事をされるとどうしていいか分からない。
「はい。ですのでお間違えということはないかと」
真面目くさってそう言うと、男は脇に立っていた小さなメニュー表を指差した。
「初めてのお客様には驚かれるので、まずこちらをご覧いただければと思いまして」
そう言って冒頭から並ぶドリンクメニューの項目を指差した。男はなぜか僕の顔色を窺っているようだった。
「えーと……カルーア・ミルク(コーヒー牛乳)、カシス・オレンジ(ジュース)、ピーチ・フィズ(ジュース)……」
メニューに指を滑らせながら読み上げて、すぐにその理由が分かった。そこに並んでいるメニューは全て酒ではなく、カクテルを模したソフトドリンクなのだ。
めくってみると次のページからは料理とスイーツのメニューが並んでいて、最後に「ソフトドリンク」と称してコーヒーや紅茶が並んでいる。
つまり、この店は酒を出していないのだ。
「当店では気分だけ楽しんでいただく決まりとなっておりまして」
「そ、そうですか」
いや、酒が飲めない身としてはむしろ助かりはするんだが、と胸を撫で下ろしながらも、突っ込みたくて仕方がない。
バーの看板を掲げておきながら、こんなファミレスのドリンクバーみたいなメニューで、一体何の意味があるのだろうか。最初からカフェでいいじゃないかと言いたくなったが、そこはぐっと飲み込む。
さっきここに駆け込む女性を見たばかりだ。それに僕自身、ここがカフェだったら入ろうとは思わなかったかも知れない。
広々と明るく、仕切りもなく人の声と様々な匂いが溢れる店、というのが最近のカフェの空気だ。もしそんな店だったら、どんなに空腹でも回れ右をするしかない。もちろんレストランなんてもう何年も入っていない。
ならば喫茶店ならどうかと言われると、今度は煙草の匂いで入れないことが多い。食事をするのに入れる店は、ほどほどに静かな食堂か、手早く食べて出られるラーメン屋くらいだ。
何年前からだろう、僕は人間と匂いが苦手になった。分かりやすく言ってしまうと、心を病んだのだ。
以前は誰とでもすぐ友人になれた。それなりに明るくて、それなりに人付き合いはいい方だったと思う。それに人の匂いも香水や洗剤の匂いも、食べ物の匂いも、吐瀉物の匂いすらも特に気にしなかった。
いつの間にかそれらが反転して、一斉に僕に襲い掛かるようになっていた。
原因はよく分からない。医者にはストレスだと言われた。
でも僕は仕事が楽しくて、きつくて仕方ないと思っても、やりがいを感じていたように思う。
家庭は持っていなかったから、家に帰れば心置きなくベッドで眠っていた。ただ、今思い出すと、食事が摂れない時がちょくちょくあった。帰宅したら酒を飲んで死んだように寝て、起きたら慌ててまた仕事に行く日々だった。
そんな日々を過ごしていたある日、僕は上司の前で突然吐いた。自分の吐いたものの匂いが鼻を突いて更に吐き、眩暈を起こした。
その日から次第に、僕は普通ではなくなっていった。
人の多い場所が苦手になった。喋れないわけではないけれど、他人の言葉に変に敏感になって、それが苦痛になっていた。今まで何とも感じなかった匂いで、すぐに気分が悪くなるようになった。
薬を貰って毎日飲むようになった。薬と酒は同時に飲むと良くない、と言われて、好きだった酒も飲めなくなった。
そして何より、そんな自分の状況を人に話すと、怪訝な顔をされるのが苦痛になった。
「すみません、当店へいらっしゃるお客様は、様々なご事情でお酒の飲めない方が多くて。ノンアルコールのカクテルを増やしているうちに、いつの間にかこうなったんです」
戸惑っていた僕の表情をどう解釈したのか、男は申し訳なさそうに頭を下げた。
僕は慌てて両手を振った。謝られることは何もない。むしろ、こんな特殊なバーがあるのは都合がいいくらいだ。
「あの、僕も事情があって飲めないので」
そう口を開いてからハッとした。これからどう説明するんだ、また怪訝な顔をされるんじゃないか、と気が付いて自分の口を手でふさいだ。
しかし男はパッと顔を上げると、すぐに満面の笑みを浮かべた。
「ではこちらへどうぞ。いらっしゃいませ」
そう言って、奥のカウンターへと僕を案内するその男は、本当に嬉しそうな顔をしていた。
釣られるように店の奥へと向かい、カウンターに腰を下ろしてから、僕は一体何をやっているんだろうかと思った。
そもそもバーの看板を掲げたのに、飲めない客ばかり歓迎してきたこの店の店主が、一体何を考えてるのか分からない。常識的に考えると不気味なくらいだ。
だが「また困った客が来た」と首をひねるどころか、むしろ喜んで迎えてくれる姿に、僕は心の底からホッとしていた。
こんな都合のいい店が何故あるのか、という疑問よりも、空腹と好奇心が勝っていた、とも言える。
勧められるままに料理とノンアルコールカクテルを飲み食いして、家路につく頃には雨もおさまっていた。料理は美味かったし、体がいつもより温かくて軽くなっている気がした。
僕はその日、何年かぶりに夢も見ず深く眠った。
「Bar Hemeran」の店主が案内してくれた男で、しかも彼も「酒を飲めない」のだと知ったのは、それから三日ほど通った後の事だった。
ちゃらがき しらす @toki_t
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