Bar Hemeranの夜(前)

 梅雨に入ってすぐの事だった。いつものように電車で帰宅していた僕は、少し疲れて油断していた。

 うたた寝しかけていて、すっとなんの構えもなく鼻から吸い込んだ空気。そこに混じる強烈な匂いが、鼻から喉へと流れ込んで来た。

「うっ……ごほっ、ごほっ!」


 止める間もなく喉を通り越して、花のような匂いが口いっぱいに広がる。花のような、と言っても喉が痛むようなその匂いは人口のものだ。

 たちまち胸が苦しくなり、吐き気が込み上げてきて、その場でえずいてしまう。周囲の乗客が一瞬、何事かと言うように僕を見た。


 一発で目が覚めた。けれどもう遅かった。

 胸まで飲み込んでしまった匂いが、体の中にわだかまり、口を押さえて何度もえずいた。いくら咳き込んでも、匂いは食べ物と違って吐き出せない。

 周囲の目が気になって、急いで止めようと胸を叩いたが、かえってむせてしまった。何度も咳をするうちに頭がガンガンし始め、僕は次の駅でホームに転がり出た。


「間もなく発車します。黄色の線の内側までお下がりください」

 ホームの柱にもたれ掛かって、吐き気の続く胸を右手でさする。背後で電車が走り去っていった。

 その時、ひゅう、と雨に冷やされた風が吹き抜けた。電車から一緒に漏れ出た生ぬるい空気を冷やすような風だ。

 何も考えずにホームに降りた僕は、そこでようやく駅の様子を見た。普段は通り過ぎるだけの小さな駅だ。人気はなく静かで、同時に降りた人も少ない。


 人の目が無い事に気付いた瞬間、ほうっと息がつけた。体の奥まで入り込んだ匂いが消え、冷たく澄んだ空気が肺に満ちていく。ようやく呼吸が出来て、えずきがすーっと治まった。

 一旦去れば、吐き気はまるで最初からなかったかのように消えていた。こんなにすぐ治まるなら、もう少し電車内で粘れば良かったか、とため息が漏れる。しかしあれ以上留まっていられた気もしない。

 大人しく次の電車を待つか、と時刻表を見れば、次の電車は三十分後だった。


 とたんに空腹感に襲われた。そもそも吐き気をもよおしたのも、半分はそのせいだ。

 今日は昼食をとる暇もなくて、パンを一個かじるだけで済ませていた。早く帰って何か食べたかったのに、本当に間が悪い。


「どっかメシ食えるとこあるかな……」


 売店で弁当でも、と思ったが座る場所もない駅だった。僕はホームを出て店を探すことにした。改札を出ればすぐ外だ。

 陽が落ちているせいか雲のせいか、煌々と明るい駅とは対照的に外は暗く、出口には雨がずっしりと幕を下ろしている。その幕の向こうに、滲むような灯りが見えた。


 閑散とした駅前だが、早くも店らしいものがある、と思って目を凝らした。黒っぽい建物で、ドアから漏れる光がぽんと浮き上がって見える。「Bar Hemeran」という看板の文字が読めた。

 「Hemeran」という見慣れない単語に、僕は少し首を傾げた。試しにスマホで調べてみたが、それらしい言葉はヒットしない。造語なのかも知れないが、どういう意味かはさっぱり分からない。ともあれBarと言うのは酒場のバーなのだろう。

 酒が飲めない僕はバーと縁が薄い。たまに誘われて行く居酒屋でなら、飲めなくてもつまみに美味しいものがいろいろあるが、ここはどうなんだろうか。


 他に店らしいものはなく、どうしたものか迷っていると、一人の女性が僕を追い抜いて行った。


 帰宅途中らしいスーツ姿の背中は、少し猫背でつんのめりそうな歩き方だ。傘も差さずに雨の中を、真っすぐ店の灯り目指して向かって行く。

 その女性の後ろ姿に、僕は少し親近感を覚えた。居心地の悪い場所から抜け出して、どこか安心して腰を落ち着けられる場所に向かう時、僕も気付いたらそんな風に歩いている。

 彼女にとってあの店は、そんな風に飛び込める店なんだろうか。そう思ったらつい、彼女の後に続く形で「Bar Hemeran」のドアを開けていた。

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