〈十七〉

 どしん、と地鳴りが太鼓のように轟く。

 森が激震するようにたちまちに揺れて、眠れる獣が飛び上がるように目を覚ました。数多の鳥が逃げ惑うように羽ばたき、静謐なる夜の世界は終わりを告げた。


 神聖なる山に招かれざる邪悪な気配が忍び寄る。

 それは明確な意思を有して歩みを進めている。目的を定めたその足に迷いはない。数分後にはこの場所に辿り着くだろう。


 迎撃の準備は整っている。

 暈音かさねの呪符によって境内けいだいは堅牢な結界で守護されている。極めて強力な妖気に反応して発動する攻撃性の高いトラップもあらかじめ各所に設置済みだ。

 並の妖魔であれば、それだけで対処が可能である。しかし、此度こたびの敵はどうだろう。一度目は容易くひねってみせたが、まだ何かを隠しているような気配があった。

 荒ぶる龍脈の恩恵を授かり、罪なき稚児を喰らってすくすくと成長してきたはずだ。恐らく耐性はに仕上がっている。


「……当たった」


 廃神社に伸びる石段の下から、刹那的な閃光と共に炸裂音が連続して響いた。

 術符が正常に発動されたことを悟った暈音は、目を閉じて妖気を探る。即時に発見した。この妖気は記憶に新しい。非常に高密度の妖気であるが、その量はさして脅威ではない。龍脈の暴走によって手にした妖気をまるで物にできていない。典型的な低級の妖魔と見受けられる。

 手痛い敗北を経験したばかりというにもかかわらず、懲りずに正面から乗り込んでくるあたり、知能の程度が知れる。

 所詮は獣か。それとも何か思惑があるのか。

 注意深く周囲の妖気を探知する。やはり、危険視すべき妖気は一点のみだ。あの下駄の妖魔は龍穴が安定したことにより現世うつしよに弾かれたと考えていいだろう。


 敵は一匹で確定。

 恐るに足らず。されど、手を抜く道理もない。確実にここで始末する。


「おオオぉオぅい、だァれカ、いマせンんんんんカカカカカカ?」


 冥闇にひっそりと佇む朽ちかけた鳥居をくぐらんとする巨大な指が、見えない何かに阻まれて毛虫のように蠢いている。陰陽術による防壁だ。瘴気を孕んだ妖魔であれば、触れるだけで激痛が走る。

 しかし、それは何度も何度も引っ搔くように爪を突き立てる。痛みはあるだろうが、まるで気に留めていない。血を流しながら、指先の肉を削りながら、ついに廃神社を囲う結界を強引に剝ぎ取ってしまった。


「オぅじゃマシィまああァァウあすぅ?」


 と軟体動物のように長い頸を鳥居に潜らせ、黄ばんだ醜悪な魚眼を忙しなく虚空に泳がせる。そして、巨体を強引に捻じ込み、腐敗した鳥居を難なく破壊しながら、異形の妖魔はついに境内に足を踏み入れた。

 霊長類を模した躯体は生理的な嫌悪を感じさせるいぼで覆われ、異様なほどに発達した腕は皮と骨だけで構成されたかのように細く、そして果てしなく長い。瘦せこけたがまのようでありながら、鳥類のくちばしと言うべき特徴的な顎と魚類の目玉を持ち、喉の奥から人間の語を捻り出す姿は、この物の怪モノノケの正体をより混沌とさせていた。


「野郎、ホントに腕が治ってやがる……!」


 五体満足の万全な状態で現れた妖魔の恐るべき生態に、信乃は声を動揺で震わせた。数時間前に斬られたはずの二本の腕が、今や何事もなかったかのように完治している。雨のような血飛沫を晒した凄惨な傷口は噓のようで、傷痕すら見当たらない。

 妖魔の治癒力は、生物の範疇を超えている。

 

 しかし、その忌避すべき感情は妖魔という漠然としたカテゴリーに当てはめてはならない。信乃は知っている、か弱い妖魔を。身も毛もよだつ恐ろしい妖魔から今まさに守るべきものを。


「おゥにくぅぅ……みいイいいィィつぅウうう、ケたタタたたたァァぁァ……!」

「ひぃ……!」


 それは獲物を見つけた捕食者の狂喜する眼光であった。

 絶対的な死の視線を浴びたミドリは肺臓が凍るような感覚に陥り、呼吸を忘れるほど硬直した。蛇に睨まれた蛙とはこのような気持ちなのだろうと、他人事のように死を受け入れようとさえした。

 怖い。

 こわいこわいこわい。

 同じ妖魔なのに、こうも違うものなのか。あんなものになってしまうのか。それが妖魔という存在なのか──。


「ああもう怖えええっ!」


 信乃が強引にミドリを抱えて走り出すと、彼女の遠ざかる意識はようやく元の場所へと落ち着いていった。


「アニキ、あいつヤベーですぜ! 目がイッてます! 完ッ全にガンギマリです! お薬物乱用の疑いアリですぜ!」

「ドラッグよりタチ悪いもんキメてんだろ! てか、お前ら同じ妖魔なら、コミュニケーションとれんだろ! ちょっとお話してこいよ! 丁重にお帰りしていただけよ!」

「無理です! あっし、こう見えて人見知り激しい方なんでぇ! 目ぇ見て話せないんでぇ!」

「人じゃねえだろアレ! 対象外だろ!」


 ミドリを小脇に挟んだ信乃はゴローと情けない言い合いをしながら、殆ど半壊しているやしろへと退避した。

 天井からは月の横顔が見え、床は鳴ってはならない激しい軋みを上げ、蟻に喰われている木造の支柱は押せば二度と戻らない。不安要素の塊である脆弱なかつての神殿に、一人と二匹は身を隠さざるを得なかった。

 しかし、ここが最も安全な場所なのだ。

 暈音の構築した結界によって、社の守護は約束されている。生半可な攻撃ではビクともしない。具体的に言えば、戦車の砲弾なら三発、空中からの容赦ない爆撃も一回は耐え抜く──らしい。

 如何いかに頑丈な砦と化している領域とはいえ、見た目が変わらない以上、全幅の信頼は寄せられない。所詮はオンボロ廃神社である。圧倒的に不安が勝る。


「頼んだぞ、暈音ーっ! マジで勝ってくれ!」


 信乃の声援に暈音は応えない。彼女の視線は既に悪しき侵入者へ注がれている。


「こんばんは」


 身の丈の三倍はある妖魔に臆せず対峙する暈音は、袖口から複数枚の呪符を抜き取りながら、抑揚のない冷淡な口調で話しかけた。

 妖魔は病的な色彩のくびを左右に意味もなく傾け、巨大な嘴をガチガチと鳴らしながら、声とおぼしき不気味な音を発した。


「オはよォゴざイまァァつ」 


 まぶたを持たない剝き出しの魚眼が、暈音の小さな身体を捉えた。老婆のように曲がった背筋を伸ばせば五メートルはあるだろう屈強な体躯に比べて、相対する暈音はあまりに脆弱かつ矮小なる姿をしている。

 しかし、彼女はひるまない。その必要がないことを知っている。


「あなた河童でしょ? 名前は猿猴えんこう。川や海に生息する妖魔。体がゴムみたいに伸びる妖魔は限られてるからね。察するに龍脈の霊気に釣られて、わざわざ人里までやって来たおのぼりさんでしょ?」


 暈音の真意を射抜くような問いに、猿猴と呼ばれた妖魔は何も答えない。獣のような荒い鼻息で不器用な呼吸を繰り返すだけだ。

 自分が何者であるか。存在の証明の追求。そんなことは至極どうでもいい。

 本質は欲。

 底知れぬ飢えに従順し、急かされるように、誑かされるように、生命という縛りの上で血肉に塗れて踊り狂う。

 その果てに何があろうとも、今は些細なことと切り捨てる。


 足りない。足りない。足りない。まだ足りない。


 愛しい我が子はまだ足りぬと言っているのだ。


 薄い膜で繋がれた五指を地面に着け、喉を膨らませて蟇蛙のような鈍い唸り声で空気を振動させた。それが避けられぬ戦いの合図であることは明白であった。


「おぅナッナカがへタたたたノぅでぃ……ごハンのオじかんでェえええェすすスシゃあアアあぁぁアァァァ!!」


 神殿の扉に身を隠しながら様子を窺っていた信乃は、無秩序に蔓延する殺気の波動を感じた。留まることを知らぬ悪意の奔流だ。

 猿猴は獲物を狩る前傾姿勢をとる。指圧によって地面が抉られ、次の瞬間には爆発するように暈音の頭上へ跳び上がった。

 少し遅れて暈音が後を追うように見上げるも、猿猴は両腕の骨をパキパキと鳴らして解き放った。大地を衝く二つの打撃は砂煙と土塊を巻き上げる。長槍のように猿猴の腕は、暈音の小さな体を肉塊に変えんと圧し潰していた。

 信乃の足に抱き着いていたミドリが小さく悲鳴を漏らす。しかし、程なくして暈音の影は霧散した。身代わりだ。本体である暈音は既に猿猴の背面を捉えていた。


「身体能力でゴリ押しはやめてほしいな。ほんと面倒だから」


 表情の色を変えず、しかして明らかに怒気を混じらせた暈音は束になった呪符を頭上へ散らすように放り投げると、手印を結びながら詠唱を開始する。


とむらいの風 灰に潜むもの

 我らは空をそそぎぎ 火を垂らす

 瞑々めいめいと鳴く不死の隊列 余すことなく天に墜ちろ」


 呪符に記された真言マントラが暈音の法力を受けて起動し、突如として爆ぜるように発火した。まるでつたない花火のように呪符が次々にぼんっと燃え上がり、そのまま散ることもなく鷹揚と飛翔する。

 浮遊する無数の火の玉は術者を中心とした天体のように悠々と巡りながら、その形をより鋭いものへ変異させた。


「急々如律令【澱雀おりすずめ】」


 雀と呼ぶにはいささか鋭利な嘴。鷹と呼ぶにはてのひらに収まるほど小型すぎる躯体。されど、夜天に燃え盛る炎の翼は見違うことなき不死鳥の御姿である。

 火の鳥。

 これが十二匹。

 個体の容貌はさえずるだけ小鳥であれ、数が揃えば圧巻の気迫を携える。【澱雀】は汎式五行陰陽術符の中でも比較的に簡易とされる術符であるが、それは一匹の召喚に必要な法力とこれをコントロールする式神操作の技術による評価であり、複数となれば話は大きく変わってくる。

 彼女ほど多数の【澱雀】を召喚し、それを同時に操作するには、努力では到底埋められぬ圧倒的な才覚が要求される。


「喰い殺せ、骨も残すな」


 統率された炎の群鳥は主人たる大日女暈音の命令を受託すると、一斉に猿猴へ神風の如く翔び上がった。洗練されたパイロットが乗り込んだ戦闘機のように乱れのない軌道で三方向に別かれ、左右と中央から敵を囲い込みように【澱雀】の群れは滑空する。

 それはミサイルのようだった。慈悲なき殺人的な速度で敵を沈める兵器のようだった。

 猿猴は己が伸長にも勝るだろう長い腕を存分に振るって、羽虫を叩き落すように【澱雀】を黙らせる。しかし、対処できた【澱雀】は二方向のみであって、反対側から強襲する炎の群鳥には為す術がなかった。

 直撃からの爆裂。

 小さな身体に凝縮されたエネルギーが解き放たれ、猿猴の肉体に炸裂する。


「ぎゅグぅウウウ」


 堪らず蹌踉よろめく猿猴は巻き上がる黒煙を裂いて、術者である暈音を直接叩かんと異様に細長い腕を伸ばした。

 距離は目算でも十メートルはある。届くはずがない猿猴の腕は次の瞬間には急激な成長を遂げた植物の根のように膨らみ、凄まじい速度で伸び始めた。

 当たる――と、息を吞んだ信乃たちの感情とは裏腹に、暈音は一枚の呪符を境内の地面に叩きつけ、素早く手印を結び始めた。


「生者の冠 死者のこうべ

 去るものには鐘を 乞うものには刃を

 物言わぬ仏の名を借り 渦を巻く白蛇の牙に毒を塗れ」


 詠唱を終えて、呪符に宿した法力を解放させる。


「急々如律令【護封太樹ごふうたいじゅ】」


 大地を貫きながら突如として出現した巨大な樹木が、つるのように伸びた猿猴の腕を阻んだ。

 境内の土を抉るように幾本もの根を張らせ、生物のように絶えず蠢き、全身をしならせる樹木はその身を猿猴へ打ちつける。


 汎式五行陰陽術符【護封太樹】は、法力によって強制的な成長を促された樹木を操る術符である。現実の媒体を介するため、木は仮想的な霊体ではなく、質量を伴う実体を有しており、物理的な干渉を可能とする。

 一定時間が過ぎると種子に巻き戻ってしまうが、攻守幅広い運用ができる木行術の定番であった。


 防御を固める猿猴に鞭のような曲線を描く樹木の幹が猛攻する。植物とは思えない激烈とした殴打が続き、やがて【護封太樹】が蛇のように猿猴へと絡みついた。

 それほど強固なものではない。法力によって硬度が底上げされているとはいえ、所詮は木質化した茎に過ぎない。妖魔の怪力であれば粉砕は容易である。

 猿猴は身を激しくじり、【護封太樹】による拘束を強引に解こうと試みる。一本、また一本と、獣を縛る鎖が木片と化す光景は恐怖に値した。もはや、時間稼ぎにもならないだろう。


 それでも。

 一瞬であれ、座標そこ固定とどまったのであれば。


「これでおしまい」


 大日女暈音の特効陰陽術符は完成する。

 しずかに接吻するように指先を噛み、上品に歯を立てる。皮を裂き、肉を切り、したたこぼれる血液の玉藻を乾いた土へ垂らす。

 まるで、生簀に餌を撒くように。

 憐憫も、情感もなく。

 、と――彼女はそれを召喚ぶ。


「おいで」


 赤い雫が弾けると、それは地上を浸食するように旺然と広がっては音もなく沈み、人間ならば軽く吞み込んでしまえる大きなあなへと姿を変えた。

 深淵。

 底のない異界の門。

 バキッと鈍い破砕音が鳴ると同時に、大樹による拘束を解いた猿猴が巨体あるまじき速度で飛びかかる。「喰ギュうゆゲええエえええエ!!」と言葉にも至らぬ猿叫を散らし、無防備に血を垂らしていた暈音を今度こそ胃袋に収めんとくちばしを開いた。


「飢え【罰虎ばっこ】」


 っと。


 刹那の瞬間、神体山がね上がるような衝撃に満たされ、猿猴の巨躯は惨たらしい血達磨となって宙に踊る。手足を捥がれた虫のようだった。胸の皮膚が剝がされ、折れた肋骨の破片や臓物の一部が飛び散っている。

 何があった。

 それを如実に語るは、暈音の足元に広がるあなから首を出す一匹の白狗しかいない。正気を損なった深紅の瞳孔と獲物を噛み殺したであろう剝き出しの牙を赤く染め、白い毛並みの獣は闇に溶けるように帰っていった。

 

大日女ウチの式神は野蛮やんちゃで首輪が嫌いなの。だから、長居させないよう一撃で帰る契約にしてある」


 ぽちゃん、と。

 深淵の闇に雫が弾けるとあなは完全に消滅した。


「さようなら。ここにあなたの居場所はない。地獄で懺悔なさい」


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鬼夜叉 尾石井雲子 @delicious_shit

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