〈十六〉

「これから暴走した龍脈の鎮静、その儀式を始めます」


 山の麓に佇む廃れたやしろを前に、浄衣を模した退魔師の白い隊服に着替えた暈音は神道の儀礼に用いる大幣おおぬさを手にして語った。


「龍脈は大地を経緯して、霊気を地上にある全ての生命に隔てなく与えてしまう。特に妖魔は霊的な側面が強いからその影響をもろに受けやすい。

 個体によって差はあれど、妖魔にとって強すぎる〝気〟は自我の崩壊を招き、大きな災害に直結する。よって早急な対処が必要になります」


 真剣な口調を崩さず、暈音は紙垂が束になった大幣の先端を地面へ指差すように向けた。


「この土地に流れる龍脈、その集合地点〝龍穴〟はです。この山に位置する。元は龍穴を管理または監視するために建造された神社が、すっかり荒れ果てちゃったのは、今日こんにちまで龍脈が正常な状態だったからだろうね。

 話が逸れちゃった。とにかく、放置するとマズいことになっちゃうので、ちゃちゃっと儀式へ取り掛かります。幸いなことに、私は巫女としての適正がすごーく高いので、一人でも問題はありません。

 まあ、信乃たちはそこでちょっと休んでおいて」


 パチンと指を鳴らすと、彼女の背後に半径3mほどの円陣が地面に浮き上がるように出現した。五芒星を内包した青色に輝く巨大な正円だ。これは人が決して踏み入れられない非物質的な領域へと繋ぐ門の役割を担う。

 緑生い茂る境内けいだいの雑草を、信乃たちが汗水垂らしながらむしって整地し、そこに暈音が白墨で描いた門が、法力によって効力を得て、光輝したのだろう。

 門のその先にあるものは知らない。信乃たちは聞かされていない。ただ、人であろうと妖であろうと、生あるものが立ち入ってはならない場所であることは、否が応でも察せられる。


 この廃神社へ戻ってくるなり、暈音は二匹の妖魔と信乃に指示を飛ばし、極めて簡易的な祭壇を境内に建てさせた。彼女が言うには、既にこの神社は聖域としての能力を保持しておらず、新たに祭壇を設ける必要があるのだと三者に語った。

 暈音は儀式のために身を清めるといって、やしろの方へ引きこもり、その間に信乃たちは手作業で祭祀の準備を進めることになった。

 基本的な材料は暈音が用意しており、どうやって持ち歩いていたかは謎であるが、凹凸を嵌め込むことで完成する工具要らずの木工キットのようなものだった。退魔師はこれを愛用しているらしい。


 しかし、如何に簡単とはいえ、それを組み立てる作業には多くの時間を費やした。組立図に三名ほどいれば約一時間で完成すると記載されていたが、こちらの一匹は四足歩行である。恐らく犬は人数に含めてはいけないのだろう。倍の時間が掛かった。

 おかげで時刻は零時を目前としている。

 周囲はすっかり闇に吞まれている。

 境内には複数の蠟燭が設置され、そこに月光が差し込むことで僅かな視界を辛うじて確保しているが、背面の鳥居から先は漆黒の世界が広がっている。信乃は懐中電灯の代わりにしているスマホの充電が切れたら終わりだと思ってやまない心境であった。


「あっ、誰か来たら教えてね。誰が来るかはお察しの通りだけど」


 ビクリと反射的に恐怖で竦んだミドリの表情が固くなる。信乃は彼女の頭に載せられた紅白のラーメン鉢を優しく叩いた。

 例の妖魔はまだ姿を見せない。暈音の予想では既に完治しているだろうから、いつ襲撃してきても可笑おかしくはない。警戒は緩められない。

 あの妖魔は暈音を狙っていた。しかし、平均的な退魔師の強さとはかけ離れた暈音の実力には敵わずに敗走した。下駄の妖魔が介入しなければ、為すすべなく祓われていただろう。

 ならば、次に狙われる者は必然的にも暈音より弱いものに限られる。暴走した龍脈の地に長く滞在し、当人が知覚しないまま着実に〝気〟を溜め、更には得ればより強い力がもたらされると言われている同族の妖魔の血を通わせ、奴が好んで捕食している子供でもあるミドリはこれ以上ない格好の餌だ。


 今、狙われているのはミドリだ。


「大丈夫だ、ミドリ。俺らがなにがなんでも守ってやる。なあ、そうだろゴロー」

「あ、ああたたりまえでさァ! 一子相伝禁断の究極奥義ファイナルはり手ジェノサイドヘッド人面拳を使うもやぶさかではありやせん!」

「手なのか顔なのかどっちなんだよ。どう殴んだよそれ」


 極度の緊張で今にも嘔吐しそうな人面犬の真っ青すぎる顔色を見て、信乃は手汗をこっそりシャツの裾で拭った。どうやら自分が怯えるわけにはいかないようだ。

 ミドリの保護者を自称するゴローはその義務感からなけなしの勇気を振り絞って、この場所に留まって儀式を見届けようとしている。たとえ、そこに命の危険があろうとも、だ。

 信乃もまた同様の心意気でここにいる。二匹の妖魔と幼馴染を置いて自分だけ下山することはできない。何の役にも立たぬ無力な虫ケラだろうと友を見捨てて逃げることはできない。


「みんな……ありがとう……」


 ミドリの涙ぐんだ感謝の言葉を受けて、信乃とゴローは顔を見合わせてから緊迫感から解放されたように細やかな笑みをこぼした。腹をくくった甲斐があったと早くも確信した。

 その光景を遠目で眺めていた暈音は「頼もしいね」と釣られるように笑ってから、スイッチを切り替えて居住まいを正してから背を向けた。

 暈音の前には神饌物とおぼしき食品や酒類が折敷の盆に並べられ、中央には呪詛が延々と綴られた不気味な包帯に巻かれた一本の太刀が異彩な空気を漂わせながら厳然と横たわっている。


「それじゃあ始めます。なるべく静かにしてね」


 信乃たちは無言で頷いた。

 暈音は門に深く一礼した後、音もなく速やかにその場に正座した。大幣を左右に振って、小さく祝詞のりとを唱え、また大幣を振るう。彼女が紙垂を揺らす度に周辺に置かれた蠟燭の炎が生き物のように激しく蠢き、風が唸るように吹き去った。

 神体山の地中に眠る霊気が鼓動するように湧き上がる。

 大日女暈音の祈りに何者かが応えている。それは姿を持たず、影を残さず、ただ存在の可否を問うように声ならざる強い波動で地を鳴らす。


 山の神は健在だ。

 祝詞を奉げて助力を乞う。どうかこの大地の安寧のためお力添えを。


「名もなき大いなる山の神に 我が詞を奉る

 地に災ありて 日に先見えずば 世の荒ぶる事限りなし

 諸々の禍事罪穢を 祓い給え浄め賜へと申す事のよし

 八百万の神々に 聞食きこしめせと畏み畏みもうす」


 しゃらん、と特殊な神楽鈴を鳴らし、龍穴から発せられる霊気の調律に取り掛かる。イメージとしては水面みなもを叩く水滴の波紋をならすため、水面にそっと指を突き立てるように、自らの法力を慎重に注ぎ込む。

 カタカタと何かを訴えるように包帯に巻かれた刀剣が振動し、門の中へ暈音の法力が凄まじい勢いで吸い込まれていく。さながらこれは渦潮か。怒涛の流れに抗いながら、少しずつ法力で龍穴の霊気を正していく。

 緻密な法力のコントロールが要求される作業だ。暈音は一切の雑念を捨て、儀式に集中する。


 暈音の白い額に冷たい汗が滴るのも知らず、神事のような儀式を背後から見守っていた信乃は「そういえば」といたく物騒な言葉を彼女の口から聞いたことを思い出し、隣にお座りしていた人面犬へそっと耳打ちするように尋ねてみた。


「妖魔は強え〝気〟で自我が崩壊しちまうって話、マジなん?」

「初めて知りやした」

「お前らなあ」

「いやいや、問題ないですって。あっしらピンピンしてんじゃないですか」

「たしかに」

「……そういや昨日まで元気そうだった足舐め小僧が突然泡吹いて昏睡状態になることとかはありやしたけど」

「ダメじゃねえか。めちゃくちゃ問題あるじゃねえか」


 そいつ大丈夫なん? —―足舐め小僧という見ず知らずの妖魔の身を案じる信乃の問いにゴローは何とも言えない渋面で濁した。


 龍脈の暴走は、とりわけ珍しい現象ではない。

 万物の生命が孕むけがれが一定値を超えて大地に溜まり続けることで、必然的に起こり得る事象である。それ故に大きな災厄に見舞われた土地では公安の退魔師による龍脈の鎮静が速やかに実施される。

 そうしなければ、更なる災いがその地に降り注ぐことになるからだ。


 絶えず流動する無数の〝気〟は巨大な膿と化した穢によって狂い乱れ、現世うつしよ幽世かくりよを隔てる境界線を曖昧にしてしまう。

 異界の同化。

 決して交わってはならない表と裏が一つに重なり、確立された人界の秩序が容易く崩壊する。

 妖魔はその性質上〝気〟の影響を受けやすい。大地に満ちた強力な霊気を御すことのできぬものたちは自制心を損ない、精神を蝕まれ、やがては肉体だけが置き去りにされた獣と化す。野に放たれた猛獣が何を成すか、考えずともわかるだろう。

 多くの妖魔は自我たる記憶や心を失い、ひたすら血肉を求める怪物へと変貌する。そこに欲望の歯止めはなく底も見えない。結果として、血を流すことになる者は、無辜の市民が大半だ。


 それ故に祓魔庁は全国の龍脈を厳格に管理している。ここに例外はない。


「…………」


 龍穴の底に渦巻く霊気の濁流をならすため、大幣と神楽鈴を振るう暈音は以前より朧げに掴んでいた違和感を確信に変えていた。

 本来ならば、公職の退魔師による定期的な龍脈の検査がある。頻度は場所によって異なるが、最低でも年に一度は行われる。そこで異常が発見されると、神事に長けた祈祷衆が龍脈の平定の儀式を敢行するために各所から派遣される手筈になっている。


 そして、暈音はその龍脈の検査及びメンテナンスのために東京から帰郷したのだ。彼女の才覚は別格とはいえ、まだ学生であり研修生の身分であるため、土地勘があり尚且つ比較的にも問題ないと判断されたこの故郷の地が研修先にあてがわれた。そういう背景があった。


 しかし、どうだこれは。

 異常どころの話ではない。


 明らかに自然的に発生した具合ではない。何か別の要因が介入したことによって、意図的に龍脈が乱されているように感じられる。それも特大の悪意がこの龍穴に流れ込んでいる。


 現場に先行しているはずの退魔師たちは何をしている?


 最悪の仮定や確証のない予感は、今になっては冷酷な現実に名を変えただけだった。暈音は神楽鈴を一度鳴らしてから、そっと床に置いた。


「あの下駄の妖魔なら……姑息な」


 安易に認め難い思考を纏めてから、信乃たちが座す鳥居の方へ暈音は振り向いた。


「これで一先ずは整ったって感じなんだけど、ゴローくんとミドリちゃんに追加のお仕事お願いしていい?」

「なんですかい?」

「……?」

「結界をもうちょい厚くしたくてね。おやしろを中心に、四方向一定の間隔でこの御札を貼ってきて。だいたい10mぐらいがいいかな」

「お安い御用ですぜ。なあミドリ」


 こくこくと肯首するミドリに、暈音は礼を述べつつ呪符の束を手渡した。「変なことが起きたらすぐ戻ってきてね」と元気に走り去る二匹の妖魔へ声を上げたあと、暈音は信乃の物言いたげな視線に気がついた。


「なんかあったのか」

「なにかって、なに?」

「いや、落ち込んでるっていうか、沈んでるっていうか、そんな風に見えたから」

「……信乃って変なところで鋭いよね」


 言葉の選択にしばし迷うも、ありのまま伝えることにした。


「この町には一ヶ月前から派遣された公安の退魔師が五名いるはずなんだけど、その誰とも連絡がつかないの。最初はまあ、退魔師って割と電子機器とかネットとか、そういうの苦手っていうか忌避してる人も多いし、現場で直接挨拶すればいいやって楽観してたんだけど、を放置は流石にない。ありえない」

「これ?」

「この荒れに荒れた龍脈のことだよ。派遣された理由が特定の妖魔の討滅であったとしても、こんな龍脈を放置してたら被害が増えるだけだよ。まずは本部に連絡して神事の専門の祈禱衆を呼んで、龍脈を整えてからが定石。だけど、そんな報告上がってない。

 私が来る一週間前までは定時報告がちゃんと本部宛に届いていたはずなんだけど、龍脈の状態には何も触れられていなかったはず。あくまで学生の身分である私が、研修場所に指定されたのも問題なしと判断されたからであって、こんな異常事態に対応するためじゃない」

「……つまりは?」

「死んでるね。祓魔庁から派遣された五人全員。それもけっこう前から。本部に送られていた報告も偽物だろうね。アテにしてたんだけどなあ」


 暈音は両手を上げて背伸びをしながら「ご遺体あるかなあ、なさそうだなあ」とぼやきながら、普段と変わりない声色で続ける。


「この暴走は意図的なものだろうね。あの下駄が裏で手を引いていたかどうかは知らないけど、無関係じゃないだろうし、どっちにしろ、事情を知った私も口止めに殺されちゃうかもね」

「それってお前……」


 信乃の絶望を嚙み締めるような苦渋の表情に、暈音は笑顔で返答した。


「問題ないよ。既に本部には連絡してあるし、私なら並の妖魔相手じゃ絶対に負けない。でも、正直言ってあの下駄の妖魔は無理だね。あれだけステージが違う。逆立ちしても私一人じゃ祓えない。だから、今回は封じさせてもらう」

「封じる?」

「本来あれだけ強い妖魔は現世にいられない。いられるはずがない。龍脈が乱れて幽世あっちの瘴気が現世こっちの空気に流れ込んでいるから、ギリギリ現界できているんじゃないかな~って、私は推測してる」


 なので——と、暈音は一本の太刀を持ち上げた。儀式の際に中央で飾られていた呪詛塗れの包帯にその身を隠した得体の知れない刀だ。全長は驚異の120cmを超え、暈音も抱きかかえるようにして、やっと持ち上げていた。


「龍脈から溢れた瘴気を処理して、ヤツの足を現世に着けなくさせる。そのための力が、この鬼啌剣きこうけんにある。ちょっと持ってて」

「おう。……外見と違って意外と軽いな」

「しっかり持っててね。いま封印を解くから」


 信乃が「へ?」と間抜けな鳴き声を晒すよりも先に、暈音は一歩退いて次々に複雑な印を結ぶ。


「臨・兵・闘・者・皆・陣・列・在・前……」

「待って待って怖い怖い」

「解ッ」


 ばちんっと静電気が弾け飛ぶような刹那の衝撃が鬼啌剣きこうけんなる刀より伝わった。次の瞬間には、両腕を引き千切られると錯覚するほどの暴力的な重量がのしかかり、信乃は危うく転倒しそうになった。


「重ッた……!?」

「真剣だからね」


 膝を曲げつつ足幅を確保して。何とか刀を持ち直すと、解読が困難な呪詛が記された包帯が弛み、するすると綻びて地面に落ちていった。

 それは古い太刀であった。

 巴紋を模した鉄製の透鍔は錆びこそ見当たらないが、かつてはあったであろう輝きを完全に失っている。古びた柄巻はほつれ、色褪せた柄頭と縁金は黒ずみ、厚みのある塗鞘は所々で削れている。

 信乃は無意識に近い心境で柄に手をかけた。そのまま刀身を確認するように数cmだけ覗くように鞘を抜き、見事に澄んだ銀色の刃文を一瞥すると、何を思ったか鞘を放り捨てるように抜刀した。


「こいつが鬼啌剣……」


 長い。厚い。太い。

 まるで人ならざる怪物を斬るために打たれたような重厚感ある刀身だ。とても人の膂力で振るうものとは思えない。


「地獄の門を開く鍵にして、破邪顕正の聖なるつるぎ鬼啌剣きこうけん。今ここで地獄の門を開け放ち、龍穴に溜まった瘴気を地獄に押し流す。そうすれば龍脈は一先ずは大人しくなるし、下駄の妖魔も現界できなくなるはず」


 地獄の門を開け放つ? ——正気を疑う信乃の眼に、暈音は自信で彩られた笑みで返した。


「危なくないわけじゃないけど、私がいるから大丈夫。詠唱し終えたら、その剣を円の真ん中に突き刺して」

「なんか怖えけど、とりあえずはわかった。刺せばいいんだな」


 この際、深えことはあんま考えないでおくぜ! と、鬼啌剣を肩に担ぎながら円陣の傍まで歩み寄る信乃へ、暈音は補足を添えるような口調で軽々しく言い放った。


「ああ、あとちょっとだけ地獄の瘴気が漏れ出すかもしれないから、触らないように気をつけてね。魂が腐るから」

「え」

「地獄の炎は生者には無害なんだけど、瘴気は魂を蝕む恐れがあるからね。じゃあ、はじめちゃうよ」

「ちょ、ちょっとタンマ!」


 心の準備に時間を有する信乃の嘆声を無視して、暈音は再び地面に刻まれた円陣へと向き直った。複雑な手印を結びつつ、蓄えていた法力を解放する。

 龍脈が集結する龍穴には、大量の霊気が蓄積される。そして、あぶれた霊気は下界の空気に汚染され、やがて人体に有毒な瘴気へと姿を変える。

 そのため、発生した瘴気や余分な霊気は速やかに処理する必要がある。

 人が廃棄物を汚水に流すように、退魔師はそれらを生物にとって不可侵の領域たるに送ることで解決してきた。


 現世に決して影響が及ばず、元より膨大な瘴気を孕み、未来永劫として不滅でありながら不変であり続け、誰もは足を踏み入れることのない地の底の底。


 その場所は〝地獄〟と呼ばていた。


「汝、名を持たぬつるぎ

 錆びては朽ち そむいては零れ

 浮浪する聖者の頸を断つ」


 暈音が詠唱を開始すると、五芒星を囲う円陣に炎が走り、地獄の門が顕現した。


「想 黒縄 堆圧 叫喚 大叫喚 焼炙 大焼炙 無間」


 何かが地の底で噴き上がるような錯覚に信乃は陥った。地獄に囚われた咎人の魂が救済を欲し、縋るように地の裏側で拳を叩きつけている。


「罪を浚え さすればしるべをここに

 焱を捲け さすればかいなをここに」


 炎が踊る。

 狂ったように。

 人の正気を嗤うように。


「火の滓 双頭の王 白の災 天の鱗

 満たすことなき あふることなき

 輪廻たがわず 狂わず 月の方角を示す

 よって、これより門と改める」


 暈音は人差し指で空中に円を描いた。それと連動するように門の炎が消失した。


解門かいもん


 ふぅと蠟燭の火が弾けるように消えた。

 ああ、今か——と、意識が朦朧とする不可解な感覚に襲われつつも、信乃は暈音の合図を待たずして、鬼啌剣の切っ先を五芒星の中心に突き刺した。

 その瞬間、煌々とした炎が彼の視界を覆い尽くすように激しく逆巻き、大口を開けた龍のように吞み込んだ。



◇◇◇



 どこをみている


 なにをみている



◇◇◇



(——なんだこりゃ)


 火の粉が頬を掠めた。


 喉が爛れた悲鳴のような。

 皮膚を削がれた指先のような。


 正気を疑うほどの〝熱〟が痛みとなって神経を蹂躙する。


(なんにも見えねえ)


 呑み込まれた、炎の渦に。


 それは龍のようだった。

 あるいは百足むかでのようだった。


 咎人を囚えて離さぬ鉄鎖のように炎がまとわりついて動けない。


(はなせない、この手を)


 はなしてはいけない、この刀を。


 なにかが、そう囁いている。



◇◇◇



 地獄に触れるな


 それはおまえを決してゆるさない


 地獄に目を合わせるな


 それはおまえを絶対に離さない


 覚悟なきものは去れ


 地獄を従えぬものにカラダは託せぬ



◇◇◇



「信乃っ」


 襟を引っ張られて、弾かれたように意識が現実に降り立った。急かされるように鬼啌剣の柄を手離し、逃げるように後退り距離を置く。

 全身の力が抜け落ちて、大きく尻餅をついた信乃は静かに突き立てられた古びた刀を茫然と眺め、暫くしてから思い出したかのように汗を拭った。


「大丈夫、信乃?」

「お、おう」


 心配そうに顔を覗き込む暈音に、信乃は頼りない生返事で応えることしかできない。


「ごめん。あんなに地獄の炎が噴き出すことがあるなんて知らなかった」


 暈音は如何いかんともしがたい神妙な眼差しで鬼啌剣を見やった。先程の激烈な勢いは嘘のように、炎はまるで巻き上がっていない。静かな残火が柄の布を焦がしているだけだ。


「……でも、よかった。内側は焼かれてないみたい。驚いたよね、熱くない炎なんて」

「いや、めちゃくちゃ熱かったよ」


 信乃の純粋な瞳が動揺で忙しなく震えているのを見て、暈音はくすりと笑った後に柔らかな声色で宥めるように言った。


「錯覚だよ。あれは業火。罪人の魂を焼く罰の炎。生きているものには感じることすらできないんだから」

「マジ? そういや、火傷もなんもしてねーな」


 どっこいしょ、と立ち上がった信乃は自身の身体を確認した。火傷どころか衣服が焦げた痕跡も見当たらない。彼女の言葉に偽りはないようだ。


「た、大変でさああああああ!?」


 突如として夜の森に響き渡る悲鳴にも似たゴローの大声に、二人は顔を見合わせた。


「どうしたゴロー!」


 信乃が叫び返すと茂みの中から、青ざめた表情の人面犬と雨合羽の少女が転がり込んできた。


「よ、よよ、妖魔が、妖魔が出ました!」

「落ち着け、テメーらも妖魔だ」

「ちがう、でっかい、妖魔! 私と同じ、河童の妖魔!」


 涙目で訴えるミドリに信乃は全身に緊張が走る。


「いらっしゃったみたいだね。みんなおやしろの中に隠れて。あそこは要塞化してあるから、ここらへんじゃ一番安全な場所になってる」

「暈音っ」

「祓うよ、今度こそ。私の友達とそのお友達には指一本触れさせはしない」

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