内海の島嶼群・りんの島主に嫁いだ枢智貴璃すうちきりは、ある日数人の供を連れて散歩をしていた。

 澄み渡った空の下、風光明媚で知られる海岸沿いを歩いていると、不意に大きな影が陽を遮った。雲ひとつないはずなのにと仰ぎ見ると、彼女たちの上を、巨大な龍の腹が横切るところであった。

 供の者たちは全員が悲鳴を上げ、枢智貴璃も想像を絶する光景に気を失いそうなりかけた。彼女が辛うじて正気を保てたのは、龍の首の上に腰掛けるような人影を認めたためであった。

 こちらを振り返るように見えた横顔には、どこかで見たような面影があった。

 そのまま海の向こうへと飛び去っていく龍の姿を、枢智貴璃はしばし呆然と眺めていたが、龍神にまみえた貴重な機会ということに途中で気がついたのだろう。彼女は慌ててその場に跪き、組んだ両手を前に翳すとその合間に顔を埋め、龍に礼を示した。

 しばらくして、枢智貴璃がおそるおそる顔を上げた頃には、空を舞う龍の姿は跡形もなかった。


 ***


 しばしば市場に使いに出るこうの楽しみは、道すがら様々な露店を見て回ることである。

 多くは道端に広げられた敷物の上に、様々な食材や見たこともない装飾品、何巻もの木簡がずらりと並べられる様は、眺めるだけでも飽きることがない。故郷の蘇沙そさもそれなりに大きな城市だったが、やはりびんの都ともなれば、その規模は桁違いだ。そぞろ歩きしながら冷やかしに回ることに夢中になって、ついつい帰宅が遅れそうになったことも一度や二度ではない。

 その内のひとつに、蛤も何度か訪れたことのある、壺やら像やらを商う露店があった。

 蛤が世話になっている呂酸りょさんも様々な工芸品を扱うから、彼女は下女という割りには目が肥えている類いだろう。路上に敷いた布きれの上に、無造作に陳列された商品は、いずれも呂酸の店で取引されるような稀覯品には及ぶべくもない。だが手軽に手に取れる親しみやすさが、蛤は好きだった。

 老店主も、既に蛤の顔は覚えている。その日も彼女の顔を見かけた店主が、「よう、使いの帰りかい」と声をかけてきた。

「今日は、なんだか龍神様が多いね」

 蛤がこの店を訪ねるのは十日ぶりぐらいのことだが、以前見かけた時に比べると、店頭には大小様々な龍神像が多く並んでいる。

「このところ、龍神像を手放す奴が多くてなあ」

「へえ、なんでじゃろう」

「なんでも龍神道の教母が、あんな恐ろしい変怪へんげをこれ以上ありがたがってられるかって、逃げ出したらしい」

「教母って、龍神道の一番偉い人じゃあ?」

「その偉い教母様がそんなこと言い出したから、龍神道に入れあげてた他の連中もすっかり熱が冷めちまってなあ。俺んとこにも安値でいいから引き取ってくれって奴が多いこと」

 店主の話に、蛤も思い当たる節があった。そういえば龍神道を唱える者の数が、ここのところ城中ではめっきり減って見える。

「とはいえ稜じゃ、もう新しい買い手もつかねえ。安値で買い叩いたつもりが、こいつは失敗したかなあ」

 頭を掻いて嘆く店主の前で、蛤は膝を曲げて屈み込んだ。

 大きさも格好もまちまちな龍神像は、よく見れば思った以上に意匠を凝らしたものも多い。おそらく相応の値で売られていた像も、二束三文で手放されて、露店に並ぶ羽目になったというわけだ。

 蛤はその内のひとつ、彼女の手からはみ出る程度の、小ぶりな神像を手に取った。

 龍のこうべを象ったその像は、よく見れば思いのほか精緻な造りで、神と呼ばれるのも頷ける神々しさがあるように思えた。小さい像なら買えるかもしれないと思ったが、これほどの出来映えだと自信がない。

「そいつは意外と値が張るんだが、まあいい。どうせ売れなきゃただのごみだからな。大負けに負けてやるよ」

 店主の好意に甘えて、手持ちの限りと引き換えに手に入れた龍神像を、蛤は両手で大事そうに抱えた。

「あんがと」

「それにしてもあんた、龍神道の信徒だったのかい」

「いんや」

 店主の問いに、蛤は笑って首を振った。

「龍神様ってのは海河の神なんじゃろう。海を渡ろうって男には、お守り代わりにちょうどいいだろうと思ってさ」


 ***


びょうに向けて船を出せるのは、早くて三年というところでしょうか」

 闇充あんじゅうの言葉に、呂酸りょさんは満足げに頷いた。

 ふたりのいる部屋から望む中庭は、池の周りに繁る木々が緑に色づいて、遠からず迎えるだろう初夏を感じさせる。闇充がこの部屋を訪ねるのは、二ヶ月ぶりのことであった。

 最近の闇充はりんの造船工房にかかりきりだ。資材の調達や人足の手配で鱗に張りついていた彼が今回稜に戻ったのは、ようやく工房の建設に目処がついたことを報告するためであった。

「三年後か。その頃ならまだ私もなんとか船に乗り込めるな」

「呂酸様は、本当に一緒に渺を目指すおつもりですか」

「つれないことを言うな、闇充。私が大枚叩いてこの酔狂にのめり込んでいるのは、生きてお前の故郷を目にするためだ。今さら置いてけぼりは許さんぞ」

 呂酸は冗談めかして言ったが、その目は笑っていなかった。見知らぬ土地を思う、呂酸の憧憬が巨大であることを確かめて、闇充はすぐに低頭した。

 弾みで彼の太い首からぶら下がる、紐の先に結ばれた巾着袋が揺れた。

「これは失礼しました。お聞き流しください」

「それは良いが、なんだ、その袋は」

「ああ、これは」

 闇充は巾着袋を摘まみ上げると、中から小さな龍神像を取り出した。

こうが、航海のお守りにと寄越したのです。船が出せるのはまだ先の話だというのに」

「龍神か。鱗では未だ龍神道が盛んなのだろう」

「それはもう」

 龍神道は、稜では早くも下火になりつつある。一方で鱗では、いよいよ住民の全員が龍神道に帰依しかねないという。

 しかも鱗では先日、海の上を行く龍の姿があちこちで目撃されている。それも庶人だけの噂ならともかく、島主の妻・枢智貴璃すうちきりも目の当たりにしたというのだ。

 枢智貴璃は嫁ぐ前から龍神道に熱心だったが、ついに空を舞う龍神を目の当たりにして、いよいよ信心に拍車がかかったと聞く。上も下もその調子だから、鱗の人々が龍神道を信奉する勢いは増すばかりであった。

「枢智貴璃様によれば、龍の首には天女が腰掛けていたそうです」

 闇充の言葉に、呂酸は一瞬軽く目を見開いてから、おもむろに深く息を吐き出した。

多嘉螺たから様であろうなあ」

「やはりそうなのでしょうか」

 闇充は未だ信じられないとばかりに、黒々とした顔立ちの中で大きな目をしばたたかせる。対して呂酸は、既に納得を経た面持ちで、彼の顔を見返した。

如朦じょもう殿が仰るのだから、間違いあるまい。それに――」

 部屋から覗く中庭に顔を向けた、呂酸の目が心持ち細められる。

「あの方なら、龍に乗って渺に向かわれたと言われても、私には不思議に思えないのだ」

 思えば呂酸と多嘉螺の縁は、龍から始まった。

 多嘉螺に招かれた呂酸が彼女の屋敷を訪ねたところから、揖申いしんがその名を求めて描き続けた変怪へんげに、龍という名が与えられた。闇充との出会いは、海の彼方を求めて船を漕ぎ出した彼が、龍に襲われた末に蘇沙そさの浜に流された末のことであった。やがて龍は変怪から神となったことで龍神道が生まれ、思いがけず鱗の造船工房建設にひと役買った。

 多嘉螺を乗せた龍を仰ぎ見た鱗の人々の間で、龍神道が真の信仰を得たことは、彼女がこの地に残した置き土産のようなものかもしれない。

 最初から最後まで、呂酸と多嘉螺を結びつけていたものは、あの恐ろしくも神々しい龍だったのだ。

「屋敷ごと丸々譲り受けた多嘉螺様の財は、工房どころか船の建造費も賄うに十分だ。これほどの支援を受けたからには、なんとしても船を完成させて渺にたどり着いてみせなければ、我らの沽券に関わろうというもの」

「もちろんです」

 呂酸の言葉に、闇充が力強く頷いた。

 初めて出会った時は闇を纏った変怪にしか見えなかった彼が、今では誰よりも心強かった。闇充と出会う契機となった、多嘉螺にも龍にも感謝しかない。

「多嘉螺様こそ、呂大人には礼を尽くしてもしきれぬでしょう」

 呂酸にそう言った、如朦の言葉が思い出された。

 宮城から龍が飛び立ったと大騒ぎになった翌日、如朦はひとりで呂酸の屋敷を訪ねてきた。彼は多嘉螺が龍と共に稜を離れたこと、多嘉螺の屋敷は中身まで含めて全て呂酸に譲り渡すことを伝えると、自身も旅立つ旨を告げた。

「旅立つとは、どちらへ向かわれるのか」

 呂酸の問いに、如朦は「まだ決めてはおりません」と答えた。

「これまでの私は、人々の営みを眺めるばかり、傍観者であり続けました。ですがこれから先は、努めて人に声をかけ、関わって参るつもりです。そうでもしないことには、多嘉螺様を捜し出すことはできないでしょうから」

「空の彼方に消えたという、多嘉螺様を追い求められるつもりか」

「それが、私の今一番の望みです」

 如朦は相変わらず穏やかな表情で、だがその口調にははっきりとした決意が込められていた。

 こういう話し方をする男だったろうか。呂酸がささやかな驚きを感じていると、今度は初めて見る笑顔で、如朦は言った。

「それにあの多嘉螺様のことです。地上に面白げなものでも見つければ、気儘に降り立つこともあるでしょう。再会できる日は案外遠いものでもないと、私は思うのですよ」

 細い目を一層細めて笑う如朦を見て、呂酸は彼の言うことに得心するほかなかった。


(了)

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